後半はのっけから急な登りが現れる。道のわかりづらい前半と比べ迷うことはまずないが、背の上までを見上げるような道が、頂上まで1キロほども続く。目の前にあるのは坂というよりもはや壁!
登る途中、幹の内側が真っ黒に焦げてうろになった木を発見。落雷で炎上したのだろうか。
中腹から来し方を振り返ると、屏風のような山ひだが見えてきた。金山側は登れば登るほど背後に展望が開けてくるので、急登続きの道中では大いに励みになる。
急な登りはまだまだ続く。九十九折りなんて気の利いたものは全くなし、ふもとから頂上までひたすらまっすぐ、壁のような尾根道を登っていくという、全く漢らしい道である。ちなみに二股から峠までの高低差は約430m!...みちのくのアルプスは伊達じゃありません。
東人の遠征をきっかけに「みちのくのアルプス越え」有屋峠は官道となったが、宿駅が整備されてから20年も経たない宝亀6年(775年)頃、出羽柵が羽前に後退したため、官道としての意義は早々に薄れている(ちなみにこのときの出羽柵移転先が酒田の城輪柵、そこまでの連絡路として整備されたのが与蔵峠)。しかしここが最上と雄勝、ひいては羽前と羽後を結ぶ数少ない道であることは変わらず、峠はその後も利用され続けた。江戸時代までは羽州街道の要所として、主要道の役目を与えられている。特にこの道の恩恵を受けた人物として、山形きっての奸雄、戦国武将最上義光を忘れてはいけない。
戦国時代、峠を挟み二人の武将が睨みあうことになった。一人は羽後の仙北地方を拠点とする小野寺義道で、もう一人はもちろん「出羽の虎将」最上義光。当時、峠を越えた真室川は小野寺氏の息のかかった土地で、小野寺氏の客将佐々木氏が真室川の鮭延城(さけのべじょう)を拠点に近隣を支配していた。ところが天正9年(1581年)、義光によって鮭延城が陥落すると、真室川は最上家の支配下に入ってしまった。そこで旧領を取り返そうと、天正14年(1586年)、義光が庄内攻めに気を取られている隙を狙い、小野寺氏は有屋峠より羽前に進攻、最上軍と争った。これが有屋峠の合戦だ。
このとき最上側の武将として大活躍したのが、鮭延典膳秀綱(さけのべてんぜんひでつな)である。
その姓のとおり、鮭延氏はもともと鮭延城の主である。佐々木氏が真室川に入城する際、地名と同じ鮭延氏を名乗るようになったのでこの姓がある。典膳はその鮭延氏の跡取りで、当初は義光と争っていたのだが、鮭延城陥落後は最上家の家臣となっている。義光は最上家に害をなさない限り、かつての敵でも有能な者は家来として進んで重用した。典膳は義光に召し抱えられてからは、最上家のために八面六臂の働きを見せている。有屋峠の戦いでは緒戦こそ小野寺氏が優勢に立っていたが、典膳は鉄砲隊を崖の上の大木に登らせ、眼下に見える敵軍の後陣に撃ちかかるという奇襲作戦を展開、この急襲で見事敵を峠のふもと、役内まで押し返している。
その後義光は隙あらば軍を送り込み、幾度も仙北地方を脅かした。天正16年(1588年)頃には小野寺一門の不和に乗じて仙北侵入を企て、天正18年(1590年)には太閤検地反対一揆の征伐を口実に仙北三郡(雄勝・平鹿・山本)を掌握しようと金山に進軍、巧みな立ち回りによって仙北地方の三分の一をもぎ取っている。そしてこれを不服とする小野寺氏と、血みどろの国盗り合戦を繰り広げることになるのである。
典膳はこの雄勝を巡る数々の抗争でも、最上軍の急先鋒として活躍している。文禄2年(1593年)からは一万余騎を率いて雄勝に侵入、かつての主君である小野寺氏と張り合い、仙北地方で暴れまわっている。
かつて東人がこの峠を越えようとしたように、雄勝での戦いのため、典膳や最上軍が何度も通ったのが有屋峠だった。峠を巡る国盗り合戦で活躍したのが峠を越えた向こうの武将の旧臣で、峠と浅からぬ因縁がある人物だったというのは、運命のいたずらとでもいうようなものを感じる。
戦国の世を経て徳川幕府の下泰平の世が訪れると、数々の戦いの舞台となった有屋峠も大きな変化を迎えた。慶長7年(1602年)の佐竹氏久保田入部にともない雄勝峠が開削され、羽州街道の新道ができたのだ。新しく作られた雄勝峠は雄勝と金山を結ぶ直線状にあり、大幅な迂回と「みちのくのアルプス越え」を強いられる有屋峠に比べれば、その通りやすさには雲泥ほどの差があった。ここに奈良時代以来の主要道だった有屋峠は旧道となり、しばらく歴史の表舞台から姿を消すことになる。
佐竹氏が雄勝峠越えの新道を作ったのは、参勤交代時の負担を減らすためだった。大勢の家来や馬を引き連れて、これだけ急な峠越えを強いられるのなら、確かに新道を作りたくもなるだろう。
二股以降は登りばかりでほとんど平場というものがない。そんな最中数少ない平場が現れてようやく一息つける...と思ったら、一歩脇は枝の張り出す断崖で、ちっとも一息つけなかった。
さっきから似たような画像ばかりだが、本当にこんな登りばかりが延々と続きます...実は下りの方がもっと大変だ!
それでも登っていくと、林の切れ間から青空が覗いてくる。二股以降は迷うことはないので、歩けば歩いた分だけ、確実に峠に近づける。
黒森(左)と水晶森(右)。このあたりの山には「森」とつくものが多い
峠道の北と南にはそれぞれ黒森と水晶森という山があり、二股以降の道中では頻繁に見上げることになる。有屋峠はこの二つの山の稜線上の鞍部を越える道なのだが、峠はこれにちなんで黒森峠とも水晶峠とも呼ばれることがある。有屋峠から水晶森までは比較的容易に行けるが、黒森方面には道がないため、こちらに登ろうとすれば薮こぎを強いられる。
現在の峠道は大正2年測図の地形図にも表記されているので、その頃すでにあったことは確かなようだが、地元最上山岳会会長坂本俊亮氏は、登山家の観点から、それ以前には別の道があったのではないかと推測している。
ご覧のとおり現在の有屋峠は非常に急峻で、多数の馬や重装備の兵隊が通ろうとすれば、かなりの苦労を強いられることは容易に想像できる。そこで坂本氏は、古くはもっと緩やかで通りやすい道が利用されていたのではないかと推測し、旧い文献なども参考にしながら、往古の有屋峠として峠の西方にある鉤掛森(かぎかけもり)と黒森を結ぶ道の存在を示唆している。
鉤掛森は現在のグリーンバレーカムロの近くにある里山で、かつては「鉤掛峠」と呼ばれていたこともある。坂本氏は自説を「少しく危険な推測」と称しているが、有屋峠の急峻さを目にすると、妥当な線を突いているように感じられる。
ちなみに地形図上に道は載っていないが、鉤掛森周辺にも登山道が整備されており、山歩きが楽しめる。
上の方に来るとわずかながらも平場が現れる。急な登りから少しだけ解放される。
もっとも、この先にもまだまだ急な登りが待ち受けている。崖っぷちで岩場を渡るような場所もある。
だいぶ上まで登ってくると、真っ白な枯れ木の大木が見えてきた。この木はその見た目から「骸骨樹」と呼ばれており、有屋峠の目印のような存在となっている。その正体はキタゴヨウの巨木でだいぶ前に枯れたものらしいが、枯れてもなお峠の番人然として、ここに立っているわけである。ここまで来れば、頂上はもうすぐだ。
骸骨樹のあたりまで登ってくると、相当な展望が開ける。来し方を振り返ればこれまで辿ってきた道のりと金山の町が一望できた。苦労して登ってきた甲斐があったというもんだ!
さらに天気がよければ、西北西に鳥海山まで見渡せる。この日は雲がかかっていたが、それでも秀麗な裾野の稜線が雲の下から覗いていた。
頂上は目前だが、やはり最後まで急な登りが続いているから気が抜けない。
二股から歩いて約一時間半、延々と続いた尾根道を登り切り、ようやく有屋峠の頂上に到着。標高934m。黒森と水晶森の稜線上にある小ピークなので、鞍部というかんじはあまりない。
頂上付近はこれまでの難路と打って変わって、歩きやすいブナの森が広がっている。この道は神室連峰の稜線上に造られた登山道で、ずっと辿っていけば水晶森・前神室山を経由して神室山に行ける。登山道はさらにその南の杢蔵山(もくぞうさん)までつながっているので、一応縦走も可能ではある。
周辺にはこんな標識も。この標識が何を指しているのかは、今しばらく登山道を追っていけばわかる。
稜線上を水晶森方面に辿っていくと、分岐点が現れる。ここで左の道を選ぶと稜線を離れ、雄勝側峠口の大平まで行ける。実はこの道は地形図には載っていないので、雄勝側に下りたりそちらから登る場合は気をつけよう。
地形図には有屋峠の頂上のところから、沢筋に従って大平に下りていく道が伸びているが、こちらは薮に埋もれ、現在辿るのは難しくなっている模様。新しい道はその沢筋の東側の尾根を通っているようだ。
分岐点からさらに15分ほど水晶森方面に進むと、国土交通省が設けたマイクロ波反射板がある。先ほどの標識はこの方向を示していたわけだ。猫の額ながら平場もあれば、何より展望が最高なので休憩にはうってつけ。有屋峠に登るなら、少々足を伸ばしてでもここまで来ることをおすすめしたい。
反射板のあたりから秋田側を見る。眼下には役内や雄勝の盆地が見事に広がっていた。
同じく西の方を望むと、黒森の向こうに鳥海山が見えた。
薄久内川上流のこの堰堤が大平口の目印。ここのすぐそば、薄久内川左岸に登山口がある
先ほど見たとおり一応道はあるので、雄勝側からも峠に行くことはできる。雄勝側から登る場合、大平より薄久内川を遡り、件の新道を経由して峠に向かうことになる。この新道は反射板の管理道として作られたものらしい。
ただし雄勝側は金山側以上に道が荒れており、かつ何度も徒渉を強いられる難路となっている。荒井もこちらから峠に登ろうとしてみたが、時期が悪かったのか薮と沢に阻まれ道を見失い、途中で引き返してしまった。
ちなみに荒井が引き返した地点。ここまでは間違っていないと思うのだが...
その急峻さゆえ、表街道から外れた有屋峠ではあったが、再び歴史の表舞台に現れたのは江戸時代の終わりのことだった。
慶応4年(1868年)に勃発した戊辰戦争では、尊皇派の薩長連合と佐幕派の奥羽列藩同盟が、東北地方の各地で激突している。同年7月、秋田の久保田藩が官軍に寝返ったことをきっかけに、金山も官軍と同盟軍の戦場と化したのだが、その際、役内より官軍の部隊が有屋峠を越えて金山に向かっている。
金山の戦いでは、官軍は雄勝峠・銀山越え・有屋峠の三方面より金山に侵攻している。薩摩藩を中心とする有屋峠越え部隊は、同盟軍庄内藩部隊の抵抗に遭いながらも峠を突破して金山に侵入、有屋の集落を焼き討ちにした後、雄勝峠を越えてきた部隊と連携して森合峠の同盟軍仙台藩部隊を挟撃、これを壊滅させている。
有屋峠は羽前と羽後を隔てる神室連峰を越えるだけに古代から要所とされ、たびたび戦いの舞台となってきた。それが歴史を作ったことを思えば、「みちのくのアルプス」にも本家よろしく、ハンニバルやナポレオンがいたわけである。
ちなみに、街道としての有屋峠の歴史に終止符を打ったのは、因縁の「薩摩隼人」三島通庸による雄勝峠整備事業であり、戊辰戦争後間もない明治初頭のことだった。
その後峠が神室山への登山道として利用されることのほうが多くなったのは、これまでご覧いただいたとおりである。
金山・雄勝側とも、登山道に接続する前後の車道は、県道73号・主要地方道雄勝金山線の指定を受けている。峠区間は不通区間扱いとなっているが、この県道指定には往年の街道の名残が見られるわけである。
この看板は雄勝側の沿線にあたる薄久内で見つけたもので、峠区間の車道開通を訴えたものである。実際、昭和50年代には峠に国道を通そうという計画もあったようだが、なにがしかの理由で頓挫したのか、その後建設が進んだ気配はなく、今なお峠には登山道があるのみである。
その主要地方道雄勝金山線の雄勝側入り口となる役内の追分には「目覚めの清水」なる水汲み場がある。峠越えの力添えの水として応仁の昔から人々に親しまれてきたという触れ込みで、現在は運転中の気分転換がてら、車を停めて水を飲む人の姿が絶えない。湧き出す水は神室連峰を水源としており、夏場でも尽きる気配がない。この水を汲むためわざわざ県外から訪れる人もいる。
「役内」はもともと「八ツ口内」と呼ばれ、周辺に八つの集落がある場所という意味でこの名があると言われている。他にもアイヌ語で「川」を意味する「ナイ」にちなんで、その由来をそばを流れる役内川に求める説もある。
しかし峠好きとしては「八ツ口」を、どうしても八方に道が伸びる要衝の地という意味に解したくなる。事実、役内はかつての要衝の地で、由利、鬼首、仙北、院内、神室山、そして有屋峠を越えて金山と、道はここから東西南北に延びていた。この追分はまさにそれらの道が出会う場所だったわけで、この清水は要衝を行き交う人々にひとときの安らぎを与えてきたのだろう。
有屋峠の道は今でこそひっそりとしているが、ここがかつての主要道だったことの証は、時を経た今なお確実に残っている。
(2007年8月/9月取材・2008年3月記)
場所:最上郡金山町有屋と秋田県湯沢市役内の間。神室山水晶森登山道。県境。標高約934m。
所要時間:
金山町水晶森登山口から二股まで徒歩約40分。二股から頂上まで同約1時間30分。頂上からマイクロ反射板まで20分。
特記事項:
廃道と言うほどではないが全体的に道が荒れている他、急な登りが待ち受けているので、行くならそれなりの登山経験があった方が安心。金山・雄勝側とも尾根道に取り付くまで水に困ることはない。登山道が整備されているので、有屋峠から杢蔵山に至るまでの神室連峰縦走も可能だが、難易度は高め。山形側峠下にシェーネスハイム金山、秋田側峠下に秋の宮温泉といった温泉があるので、峠の行き帰りにどうぞ。1/25000地形図「羽後川井」「神室山」 同1/50000地形図「羽前金山」。
「金山町史」 金山町 1988年
「続日本紀 二」 岩波書店 1990年
「東北の街道 道の文化史いまむかし」 渡辺信夫監修 無明舎出版 1998年
「東北の峠歩き」 藤原優太郎 無明舎出版 2004年
「ネイチャーガイド神室連峰」 神室山系の自然を守る会 無明舎出版 1998年
「山形県最上の巨樹・巨木」 坂本俊亮 東北出版企画 2002年
「やまがた地名伝説 第一巻」 山形新聞社編 山形新聞社 2003年
「やまがたの峠」 読売新聞山形支局編 高陽堂書店 1978年
「みちのくのアルプス 神室連峰」 最上山岳会作成の小冊子