船坂峠

船坂峠の位置

 その昔、置賜に夷荻が跋扈していた頃。好き放題に暴れる夷荻に心痛めた天照大神は、これを懲らしめようと最上川をせき止めた。置賜はたちまち大きな湖となり、水の底に沈んだが、その際、湖のほとりに一艘の舟が流れ着いた。これにちなんでその場所は、後に「船坂峠」と呼ばれるようになったのだという。


峠口

船坂峠米沢側峠口

 船坂峠は米沢市の南、李山地区と関地区を結ぶ峠である。「舟坂峠」と呼んだほうが感じが出るが、ここでは国土地理院の地形図に倣い、「船坂峠」と呼ぶことにする。
 峠は主要地方道米沢・猪苗代線こと、県道2号線の一部となっている。県道の名称からわかるとおり、かつて米沢と会津を結んだ主要道「会津街道」の要所の一つとして、峠は古くから人々が行き交ってきた。
 現在の県道は、平成になってから開通したトンネルで峠を越しているが、それと並行して、開通以前の旧道が残っている。今回はこの旧道を追ってみよう。
 旧道へは、峠下にある李山坂下地区、笠松集落のはずれから登っていく。県道2号線から延びるひょろっとした道が、かつての旧道だ。

山神社

 峠口には小さな山神神社がある。地元のおばちゃんから教えていただいたことによれば、笠松では林業が盛んだった。この山神神社は山仕事をする人々の守り神として、古くから崇敬を集めてきたのだそうだ。

申し訳程度のバリケード

 入口付近で、簡単な作りのゲートを発見。危険防止のため、旧道は一応車両通行止めということになっているようだが、地元の方々のお話によれば、ほとんど有名無実化している模様。


道の様子

うち捨てられた旧道 でも問題なく通れます

 うち捨てられた旧道とはいえ、21世紀直前までは県道だった。全線舗装で幅員も広い。車が余裕で通れるような状態だ。この程度なら、通るに何の差し支えもない。

38番街灯 この街灯も使われてません

 ところどころには使われなくなった街灯が残る。これも廃道らしい光景だが、往時は街灯が必要なほど、夜でも通りがあったということなのだろう。


蛇行する峠道

枯れ枝散らばるシケインカーブ

 旧道にはカーブが多い。ここのシケイン状カーブは枯れ枝が散らばり、滑りやすくなっていた。

林間の金比羅様

 ここの西側の杉林には小さな祠があって、冬場になると木々の合間にその姿を見ることができる。「金比羅」のお札が収まっていたので、おそらくは金比羅様を祀っているのだろう。

スリップ注意

 スリップ注意の標識を発見。滑りやすいのは現役時代からのものだったようだ。

見通しの利かない峠道

 いくつものカーブを曲がりながら登っていく。あたりは林がちで見通しはあまり良くない。今ではほとんど通りがなくなっているが、気をつけながら進んでいく。

蛇行する峠道

 地形図によれば、船坂峠には八つの大きなカーブがある。会津街道の要所でそれなりに通りもあったろうに、こんなに見通せないカーブが多いのにはちゃんとした理由がある。
 船坂峠は米沢城下南の入口にあたる。いわばこの道は米沢の「喉元」に通じる道だった。敵に城下の様子が丸見えならば、戦になったら不利になる。そこで攻められても城下町を見渡せないよう、あえて見通しの利かない九十九折りのままにしていたらしい。見通しの利かない線形は、藩政時代の名残というわけだ。

六角形付きカーブミラー柱

 県道2号線の印が付いた柱を発見。県道2号線は米沢市中心部、上杉神社前の通りから発している。この峠が米沢城に至る道であることは、昔も今も同じなのだ。


新道と旧道

新道が見えてきた 新道

 上の方に来ると、ちらちらと新しい道が見えてくる。旧道とどれほど違うかは、フェンスの並び具合からもおわかりいただけるだろう。

旧道

 こっちは旧道。相変わらずえげつないカーブが続く。


鞍部

鞍部前

 八つめのカーブにさしかかると、最後の難所と言わんばかりに大きな崖が現れた。道が切り通しで崖を割り、先へと続いているのがわかる。

鞍部

 そして切り通しに到着。ここが船坂峠の鞍部である。標高460m。画像は南側から北に向かって撮っている。荒井の単車と比べると、崖の高さが、おわかりいただけるだろう。峠口からここまで1.5キロ足らず。その間に8つのカーブが折りたたまれているわけだから、船坂峠が難所であるのも納得だ。


関小学校

児童注意

 鞍部から下るとすぐ、これまでの難所っぷりに似合わず、児童注意の標識が現れた。

関小学校

 標識の先には小学校の校門が。こちらは米沢市立関小学校。さっき標識が立っていたのは、ここに小学校があるからのようだ。


出口

あっという間に出口です

 小学校の前からは、旧道の出口が見える。旧道は小学校のすぐ目と鼻の先で新道に合流している。民家も何件か建っていて、うら寂しい北側とうってかわって、人の気配がある。峠区間はここまでだが、北側の周到さに比べ、南側のあまりのあっけなさに、始めて通った方は、いささか拍子抜けするだろう。
 船坂峠はちょうど置賜盆地南の出入り口にあたる。太古の大湖水の湖底から湖畔に登る道というわけで、鳥上坂同様、登り切ってしまえば、後は下る必要がない。だからかくも見事な片峠になっているというわけだ。
 天照大神の伝説は後世の創作だろう。しかしここが置賜盆地の出入り口のひとつであることは見事に言い表しており、先人の観察力の鋭さと発想の豊かさを思い知らされる。船坂峠で置賜盆地を後にした会津街道は、これから綱木峠を越え、宿場町綱木を経由し、いよいよ檜原峠へと向かうのである。


新道船坂トンネル

船坂トンネル

 合流点は船坂トンネルのすぐ目の前だ。真正面から見ると、新道と旧道の違いが一目でわかる。現在の新道は、この平成9年(1997年)竣工長さ168mの現代的なトンネルで峠を越しいる。旧道のような九十九折りは、もちろん見事に解消されている。

笠松の道普請碑 笠松の道標
笠松の道普請碑。分かりづらいが「御忠進舟坂峠道普請塔」と刻まれてある。隣にある大きい石柱は大正15年の道標。

 防衛上の理由から積極的な改修こそされなかったが、会津街道の要地だけに、峠にはちょくちょく人の手が入っていたようだ。ふもとの笠松地区には、幕末の嘉永2年(1849年)に道普請があった旨の石碑が残っている。ただし道は基本的に細道で、そうした状態が近代になってからも、しばらく続いていたらしい。
 昭和4年(1929年)から同7年(1932年)にかけても、大規模な改良工事がされている。その内容は、延長1732mにわたり幅員を9m余に拡げ、勾配を1/7から1/12に緩和し、側壁を強化するというものだった。しかし飽くまで古来の道を改良するにとどまっていたようで、九十九折りはそのまま残されている。
 会津街道は近代の訪れとともに衰退している。それゆえ船坂峠も、永らく抜本的な改修をする必要がなかったのだろう。

船坂峠新道

 しかし平成になって新たな道が造られたのは、その後の自動車の普及と関係があると思われる。昭和40年代になると、東の白布峠(しらぶとうげ)に山岳観光道路西吾妻スカイバレーが開通し、多くの車が白布峠を目指すようになった。船坂峠はちょうど会津街道とスカイバレーが分岐する位置にある。現代になって船坂峠は、スカイバレーへの通り道となった。すると旧来の道では車が通りづらくなったため、新道を作る必要が出てきたのだろう。


舟坂安産地蔵尊

舟坂安産地蔵尊

 トンネルを抜け、新道を米沢側に300メートルほど下っていくと、左手に小さなお堂が見えてくる。これはお地蔵さんを祀った祠で、舟坂安産地蔵尊と呼ばれている。なんでもこの地で産気づいた旅の夫婦が無事子供を産めたことにあやかって、ここに地蔵堂が建立されたという。それ以上の詳しい由緒は不明だが、境内はこぎれいに整えられており、今でも崇敬を集めているようだ。

舟坂安産地蔵尊跡地

 地形図では船坂峠の中腹に記されているが、現在地とは異なる。おそらくは近年、当地に遷座されたのだろう。峠道のかつてお堂があったとおぼしき場所には、それらしい平場が今でも残っている。


新道からの展望

新道から見る米沢市街

 新道の途中からは、置賜盆地がよく見える。夷荻は消え、戦国の世も過去となり、あえて展望を封じる必要もなくなった。この風景は泰平の世に作られた、新道ならではのものと言えるだろう。

(2008年6月・2010年4月取材・2010年4月記)


案内

場所:
 米沢市李山。坂下地区と関地区の間。主要地方道米沢猪苗代線およびその旧道。標高460m。

地理:

船坂峠概略図 1・道普請塔&道標,2・峠口,
3・山神神社,4・シケインと金比羅祠,
5・安産地蔵尊跡地,6・鞍部,
7・関小前,8・新道合流地点,
9・舟坂安産地蔵尊,10・置賜盆地展望地

所要時間:
 旧道笠松側峠口から船坂トンネル前まで自動車で約5分。徒歩約30分。同じく新道約3分。

特記事項:
 旧道は基本的に廃道で、一応自動車通行止めということになっている模様。もちろん冬は除雪されないので、雪が積もると通れない。新道は通年通行可。国土地理院1/25000地形図「米沢」。1/50000「米沢」。

参考文献

「川西町史」 1979年 川西町史編さん委員会

「山形県歴史の道調査報告書 会津街道」 1981年 山形県教育委員会

「米沢市史 第三巻 近世編2」 1993年 米沢市編さん委員会

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