長根峠

長根峠の位置

 長根峠は諏訪峠の一つ東にある峠である。またの名を眺峠という。越後街道十三峠の諏訪峠のように通りは多くないが同様に旧い歴史を誇り、さらに置賜の始まりにまつわる伝説を秘めている。


峠口

峠口肉のすがい

 峠は眺山を越え、飯豊町添川地区と川西町小松地区を結んでいる。車道として整備されているので往来は容易だ。今回紹介するのはこの車道である。
 峠へは飯豊町添川地区から登っていく。国道113号線から道は延びているが、何の標識もないので気をつけないと判りづらい。さいわい入口の角のところに「肉のすがい」があるのでこれを目印にしよう。
 余談だが「肉のすがい」は山形の地元ラジオCMでおなじみである。白川漬け喰ってみたいぜ(おい)。


まったくの田舎道です

田んぼの中を行く 周りは田んぼです

 諏訪峠同様、眺山を越える道なのだが、県道となっているあちら側と違い、こちらは田んぼのまっただ中を縫う田舎道である。幅もあちらほど広くはないが、のんびり走りたい向きにはうってつけだろう。


追分

追分

 つらつらと走っているとY字路が現れる。長根峠は左の道だ。右に行くと眺山のふもとをつたって県道250号線こと諏訪峠の道に出る。


墓場と鉄塔

鉄塔と送電線

 左に入ると、送電線と鉄塔が大きく見えてくる。この送電線は諏訪峠の県道を横切っているものと同じである。

墓場

 鉄塔の手前に墓場がある。田舎では墓場は集落のはずれにあることが多い。このあたりが集落の出入り口にあたるのだろう。


桜並木

桜並木

 鉄塔の足元には桜が何本か植わっている。取材に行ったのは四月下旬。ご覧のとおり満開の桜が出迎えてくれた。


眺山牧場

ながめやま牧場入口 サイロと牛舎

 桜並木を抜け、峠道を上ってゆくと、「ながめやま牧場」の看板が見えてきた。眺山北側斜面は牛の放牧場となっていて、サイロや飼料タンクなんかも建っている。このあたりは飯豊牛の産地となっているようだ。


ぼっかい地蔵尊

ぼっかい地蔵尊

 峠の中腹あたりまでやってきた。西側の道端にお地蔵さんの祠を発見。このお地蔵さんは「ぼっかい地蔵」と呼ばれている。隣の看板にはその来歴が記されていた。

 むかしむかし、冬の猛吹雪の日、『ぼっかい』と3〜4人の人達が、ソリにそれぞれ2〜3俵の米を積んでこの長根峠を越そうと、ようやくこの場所までたどり着いた。
 しかし、吹雪はますます激しくなるばかりで、明日出直してどうかとの相談となったが、「ぼっかい」は『この年貢米は今日中に納めなければならないものだから、俺はもどらない。一人ででも行く』と言うのでほかの人達は「ぼっかい」と別れひき返して行った。
 翌朝、吹雪もおさまったので昨日帰った人達がここまで来てみると、「ぼっかい」はソリに腰をかけ米俵によりかかったまま凍死していた。
 そこで、この人達は「ぼっかい」の責任感の強い一途な人柄を褒め称えこの場所に地蔵様を建立して峠を越える人達の安全を祈願したものと思われその名も「ぼっかい地蔵」として、今に残るものである。

 この伝承によれば「ぼっかい地蔵」は18世紀前半に建てられたものらしい。地蔵像は全部で三体。二体は古くからあるものだが、工事や風化等で痛んでおり、ところどころ補修されていた。祠に収まっている一体は復元のため、2006年(平成18年)になってから建立されたものである。
 当時の新聞記事によれば、旧い像は1960年代後半、町道整備により一度行方不明になっていた。ところが平成19年(2007年)、復元事業の一環でこの祠を作る工事の際、偶然土中より発見され、めでたく新旧の像が並ぶこととなったのだとか。ともあれこのお地蔵さんから、江戸時代の中頃にはこの峠がそれなりに利用されていたことがうかがえる。


松並木

松並木

 上の方に行くほど沿線には松が目立ってくる。登るうち桜並木は松並木に変わっていた。諏訪峠ほど通りが多くないので、この峠には静かでどこか寂しげな趣がある。
 ところでその後このあたりの松はすっかり伐採され、この松並木はあらかた消えてしまった。


鞍部

長根峠鞍部

 松並木の道を上り詰めると鞍部が現れる。西に伸びる道は丘陵の尾根を伝い、これもまた諏訪峠の鞍部直下につながっている。

小松能賢歌碑

 「霞たつ 峰のな可免(ながめ)や 松の花」

 傍らには石碑がある。これは歌人小松能賢の歌碑で、文化4年(1807年)に建てられたもの。内容から察するに、この峠のことを詠んだものらしい。その頃から峠には松が生えていたようだ。地図には「長根峠」として載っているが、この峠は眺峠とも呼ばれている。おそらく眺山の地名がはじめにあって、長根の名はそこから転訛したのだろう。


川西側に下る

川西町境標識

 峠を境に飯豊町から川西町に変わる。あたりには人気も無く、松林が続く。

旧埋め立て場入口

 ちょっと下りたところで門扉を発見。以前ここにはゴミの埋め立て場があったようだ。現在は閉鎖されている。

寂しい下り道

 川西側の道は谷に沿っている。そのせいか静かさよりうら寂しさが漂う。


リサイクル工場

リサイクル工場

 下るうち松林が途切れ、ぼちぼち建物が見えてくる。工場のような建物はリサイクル工場。これが見えればふもとまではもうすぐ。


大宮神社

大宮子易神社

 峠の下り側出口付近には大宮子易神社がある。その昔遠江から来た旅の女がこの地で産気づき、地元の老人の介抱を受けた。女は無事出産し、これも老人と日頃から信仰する大宮子易大明神のおかげだと感謝する。それを記念して老人と村人が建てたのがこの神社なのだという。
 旧くは遠江からも参詣者が訪れていたと伝わる。峠は彼らの参詣路となっていたのかもしれない。


県道8号線十字路

県道8号線十字路

 峠から道なりに下っていると、やがて十字路に出る。目の前を横切るのは県道8号線こと主要地方道川西・小国線。このまま直進すれば川西町の中心部小松に出られるが、ひとまず峠区間はここまでとしておこう。


大光院

置賜山大光院

 峠には置賜の名前にまつわる伝説が残っている。そのゆかりの地が小松のはずれにある古刹大光院だ。

 平安時代、真済という才気ある僧がいた。弘法大師に就いて真言の教義を学び、若くしてその奥義を究めた。長年の修行を経た後、天皇家に重用されるようになり、文徳天皇より僧正の位を授けられるまでになった。しかしその文徳天皇が病に倒れた際、快癒の祈祷に失敗し、これを機に人々に疎んぜられるようになってしまった。
 隠遁し失意のうちに京都を出た真済は、長い旅に出た。その末に出羽の小松村にさしかかり、牛居坂と呼ばれる場所で何気なくあたりを眺めてみたところ、西南の方に光り輝く松を目にする。これに何か感じるものがあったのか、真済は仏法のためこの地に寺を建て、骨を埋めることを決意した。
 その寺こそが大光院で、その山号「置賜山」にちなみ、周囲一帯も置賜と呼ばれるようになった。やがて牛居坂もこのできごとにちなんで「眺峠」と呼ばれるようになったのだそうな。

真済上人入寂遺蹟

 大光院の近所、置賜公園内には真済の墓がある。死期を悟った上人は、即身成仏のためか、生きながら穴ぐらに籠り念仏しながら入定したと伝わる。その場所がここなのだという。
 「続日本紀」によれば、置賜の名は「優嗜雲」として7世紀末にはすでに存在していた。真済の失脚については、皇太子の皇位継承を賭けた競馬勝負の祈祷に敗れたゆえという別伝もある。真済は紀氏という出自ゆえ、当時紀氏と権力闘争をしていた藤原氏に疎んぜられたものらしい。実際のところ、伝説は飽くまで伝説なのだろう。


眺山公園

眺山公園からの展望 公園の四阿の図

 もう一度鞍部に戻ってみる。鞍部から西に延びる道を辿っていくと、眺山の山頂に着く。てっぺんには展望台兼用のちょっとした四阿があって、ふもとを見下ろせるようになっている。長根峠が眺峠とも呼ばれるのは、真済の伝説はもちろん、その名のとおり、この丘陵が展望の地だからなのだろう。
 前方には飯豊町名物散居集落の風景が遠望できる。そしてその旧い名のとおり、牛居坂には牧場が作られ、今でも牛が住んでいる。

(2008年4月/12年7月/13年4月取材・13年3月記・同4月追記)


案内:

場所:
西置賜郡飯豊町添川地区と東置賜郡川西町下小松地区の間。町道飯豊川西線。郡界。鞍部標高約300m。

地理:

長根峠概略図
1・峠口・肉のすがい,2・追分,3・眺山橋,4・桜並木,5・ながめやま牧場,
6・ぼっかい地蔵,7・松並木,8・鞍部,9・眺山公園,10・旧ゴミ処理場入口,
11・リサイクル工場,12・大宮子安神社,13・県道8号線合流地点,14・JR羽前小松駅,
15・大光院,16・置賜公園,17・諏訪峠

所要時間:
飯豊町添川国道113号線分岐点から川西町下小松県道8号線十字路まで自動車で約5分。

特記事項:
全線舗装の車道。通年自動車通行可。ただし勾配があるので冬場は気をつけた方がよいかもしれない。鞍部から行ける眺山公園は北の展望が良い。諏訪峠と非常に近いので、行くなら両方とも廻ってしまおう。1/25000地形図「羽前小松」同1/50000「赤湯」。

参考文献:

「小国の交通」 小国町史編集委員会 1996年

「川西町史」 川西町史編纂委員会 1979年

2007年3月8日山形新聞夕刊

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