背炙り峠(せあぶりとうげ)は、尾花沢市延沢(のべさわ)と村山市楯岡を結ぶ峠である。
峠はその昔、行商や買い物で楯岡に通う延沢の人々の通り道となっていたのだが、朝早く村を発ったときは背中に朝日を受けながら峠を越え、一仕事終えて帰るときには同じく夕日を背に受けながら峠を越えたというので、この名が付いたと言われている。
峠へは村山市の郊外たも山地区から登っていく。入り口にはしっかり「←尾花沢 17km」の標識こそあるが、一見して尾花沢に通じているのが不思議なくらいの山裾だ。
峠口付近には「この先山道幅員狭小」だの「路肩軟弱」といった看板が並ぶ。否が応でも期待が高まる。
「総重量4tを超える車両通行止め」の看板の上には県道の証、六角形が。峠は県道29号線・主要地方道尾花沢関山線の指定を受けている。今回紹介するのは県道の峠越え区間だ。
行く手を見れば、白いガードレールが山肌に九十九折りを刻んでいる。これからあそこを通って峠に向かうのだ。
しばらく進むと杉林に突入し、道幅が急に半分になる。ここが峠口で、冬場はここから通行止めとなる。ここにも警告するかのように看板が立っているが、六角形が示すとおり、やっぱり県道なのである。
多くの峠同様、峠口付近は杉林に覆われ、いくつもの急カーブが現れる。峠区間は全線舗装で自動車でも余裕で通れるが、カーブはもちろん、離合が難しいほど幅が狭く見通しもきかないため、通行の際はやっぱり気をつけよう。
いくつかのカーブを曲がりながら登っていく。杉林が切れると、ふもとから見上げたガードレールが近づいてくる。
件のガードレールのところまで登ってきた。このあたりは南に向かって斜面が開けているので、ふもとの様子がよく見える。
登ってきた道を見下ろすとこんな具合。見事なぐねぐね道。
南向き斜面を抜けると、再び杉林に展望を遮られた。
そして再び杉林を抜けると、崖っぷちの高所に出た。道は山のひだに沿い、まだまだ先へと続いている。この峠、やたらガードレールが目立つのだがこの光景を見ればそれも納得だ。
ここまで来れば鞍部はもうすぐ。それにしても道がいいんだか悪いんだか。
峠口から20分ほどの登りで鞍部に到着。鞍部は切り通しになっており、道はここで90度のカーブを描き、下りに転じる。
傍らにはコンクリート製の車止めと、倒れた「村山市」の標識があった。鞍部は村山市と尾花沢市の境界になっている。
鞍部からは南西方向の眺めがよい。山ひだの向こうに望む村山盆地はなかなかのもの。
東には採石場らしき禿げた山が見える。
鞍部から延沢に下っていく。尾花沢側も全線舗装で、自動車でも十分通れる。
とはいえカーブが多いのはあいかわらずだ。行く手には、林に埋もれて九十九折りが見える。
少々舗装が剥げているところに遭遇。数ある山形の峠でも、背炙り峠は整備されている方なのだが、やっぱり辺鄙な山道であることに変わりはない。
下る途中には砂利道とのこんな分岐もある。もっとも、本道は全線舗装されているので、迷う心配はまずないだろう。
過去に土砂崩れでもあったのか、木製の立派な柵がしつらえてある場所が現れた。ここまで来れば延沢はもうすぐだ。
林の先に田んぼが見えてきた。里にだいぶ近づいた。
かくして峠を下りきり、尾花沢側のふもと畑沢地区に出てきた。峠の出口には目印代わり、ガソリンスタンドのような建物が建っている。冬期通行止め区間はここまで。
峠越え区間はたも山から畑沢までだが、さらに道をたどっていくと延沢に出られる。道の果ては丁字路で、左に行けば尾花沢、右に行けば全国的に知られた銀山温泉に分岐する。
その昔、延沢は「軽井沢越え」の要所だった。軽井沢越えは銀山を経由して尾花沢と仙台を結ぶ道で、天平9年(737年)、朝廷の命で蝦夷平定に来た大野東人(おおののあずまびと)によって拓かれたと言われている。一つ北にある鍋越峠が整備されたため現在はすっかり衰退しているが、かつては出羽と陸前を結ぶ主要道のひとつとして、盛んに利用されていた。特に江戸時代には、大石田で水揚げされた最上川舟運の品々の多くが、軽井沢越えで仙台方面に運ばれていた。
延沢は軽井沢越えが国境にさしかかる手前にある。戦国時代には当地の有力武将延沢氏がここに延沢城を築き、銀山の富を背景に近隣に勢力を振るっていた。背炙り峠は延沢城の建設に伴い、延沢から村山地方に抜ける軍道として拓かれたのではないかとする説もあるが、逆に背炙り峠と軽井沢越えが合流するからこそ、延沢は要害となったのかもしれない。
この追分はその軽井沢越えと背炙り峠が出会うところで、傍らには小さなお地蔵さんが立っている。
背炙り峠は軽井沢越えと村山地方を結ぶ道として使われたわけだが、それが後に一悶着を起こすことになる。幕末の「背中あぶり峠横道越えの一件」だ。
江戸時代、村山と尾花沢を結ぶ「公道」は、なんと言っても羽州街道(現在の国道13号線)だった。羽州街道は大名行列が通る道であり、沿線の宿場町は整備や手伝いのため、参勤交代のたびに多大な負担を強いられた。参勤交代でもいくらかの報酬は得られたが雀の涙ほどで、とても労役に見合うものではない。だから宿場町は、通行する旅人や商人から通行料や駄賃を取り、何とかやりくりしていた。特に村山の宿場町は最上川舟運とも競合していたから、その台所事情は大変なものだったらしい。
ところが利用する側にしてみれば、余計な金なぞ払いたくない。そこで軽井沢越えで村山と仙台を往来する際、背炙り峠を通る商人が増えてきた。背炙り峠は羽州街道の脇道だったが、村山と軽井沢越えを往来するには羽州街道を通るより近い上、いくつかの宿場町を飛ばすこともできる。脇道だったゆえ、かえって本街道よりも便利だったわけである。
通行量の減少は宿場町の存続に関わった。このままでは干上がってしまうと危惧した羽州街道の宿場町―つまり背炙り峠の影響をもろに受ける宿場町―本飯田・土生田(とちゅうだ)・尾花沢の三宿は、天保2年(1832年)、脇道背炙り峠経由での商荷輸送を禁じるよう尾花沢の代官所に訴えた。これが「背中あぶり峠横道越えの一件」である。
公儀には街道を維持するという大義名分がある。脇道を認めてしまったら面子がつぶれてしまうとでもいうのか、公儀が下した裁定は、背炙り峠経由での商荷輸送はもちろん、延沢で採れた作物の輸送も禁じるという、三宿に全面的に有利なものだった。
たまったものでないのは、背炙り峠を利用していた延沢の人々である。当時の延沢には煙草以外にこれといった産物がなく、背炙り峠の輸送で得られる駄賃で年貢を納めているという有様だった。背炙り峠の輸送が禁止されたら、今度はこちらが困窮してしまう。もちろん延沢側も黙っているわけがなく、三宿の横暴を「強欲無道、言語道断」と、激しく非難している。その甲斐あってか、嘉永6年(1853年)にはかろうじて、年貢米と延沢付近の産物を峠経由で輸送することだけは認めさせた。
背炙り峠の往来が完全に自由になったのは、幕藩体制が終わってしばらく経った明治4年(1871年)春のことだった。横道越えの一件は、当時すでに崩壊しつつあった封建的運輸制度と、増大していた近世的流通経済との矛盾を浮き彫りにした事件として、後世の歴史家に記憶されている。峠を越えた人々の目に、眼下の村山盆地はどう映ったのだろう?
「背炙り峠」の名は、村人の生活に由来するものだった。峠を越えた延沢の人々が背負っていたのは、村の暮らしや悲哀だったのだと思う。ちなみにご覧いただいておわかりだと思うが、現在延沢の方もこの峠を通ることは少なく、輸送の仕事でここを通る車もまずいない。
(2006年7月取材・2007年12月記)
場所:村山市たも山と尾花沢市畑沢の間。市境。県道29号・主要地方道尾花沢関山線。標高約370.8m
所要時間:
村山市たも山峠口から鞍部まで自動車で約20分。同じく鞍部から尾花沢市上畑沢峠口まで約10分。
特記事項:
冬期通行止めあり。たも山峠口から上畑沢峠口までの約4.4km。毎年12月上旬から5月上旬まで。全線舗装で自動車が通行できる程度には整備されているが、カーブの多い狭隘路なので、大型車での通行は無謀。
鞍部からは村山盆地の展望がよい。尾花沢側に下れば銀山温泉や徳良湖といった名所も近いので、山道であることを覚悟してドライブコースに組み入れるのも一興。ただし峠区間は路肩崩壊等で通れないこともしばしば。国土地理院1/25000地形図「延沢」。同1/50000地形図「尾花沢」。
「南出羽の城」 保角里志 高志出版 2006年
「山形県歴史の道調査報告書 仙台街道(軽井沢・寒風沢越)」 山形県教育委員会 1981年
「やまがたの峠」 読売新聞山形支局編 高陽堂書店 1978年