高里峠

 高里峠は戸沢村最奥の集落、平根地区にある小さな峠である。いや、「あった」と言った方が的確かもしれない。


平根公民館

平根公民館

 地形図によれば、峠道と交差する別の道があるので、そちらから取り付くことにした。平根公民館脇から延びる道が、その入口だ。


平根山神社

平根山神社

 公民館脇の道を進むと、右手の小山に小さな神社が見つかった。祭神はよく判らないが、おそらくは平根地区の「村の鎮守の神様」なのだろう。

平根山神社の手作り看板

 中学生の一団が農業体験実習か何かで、平根地区に来たことがあるらしい。神社の看板は手作りで、裏には宮城の中学校の生徒の名前が書かれてあった。


峠に折れる

鞍部への分岐点

 進むうち、北側にそれらしい分岐点が見つかった。ここから峠に行けそうだ。


藪と化す峠道

杉林の峠道

 道とはいうものの、杉の落ち葉が厚く積もり、羊歯(シダ)まで茂っている。

笹薮まだまだ序の口

 今度は笹薮まで現れた。道跡を見失わないよう、気をつけて進む。

目印付きの杉

 リボンを結んだ杉発見。どうやらこの道でいいらしい。


道跡を追う

道跡を追う

 なかば藪と化しているが、道跡は思いのほかよく残っている。

倒木発見

 倒木発見。ひるまず進む。


鞍部

高里峠鞍部

 尾根筋に到着。実はここが高里峠の鞍部である。分岐点からここまで約五分。ずいぶんあっけない。周りは雑木林で展望はまるきりきかず、しかも狭くて薮だらけだ。

高里峠の楢

 杉林の中、鞍部のところだけ、楢が生えていた。古くは峠の目印として、多くの人々を見守ってきたのだろう。かすかな峠の証である。


鞍部の先

抜かる沢筋

 さらに先へ行ってみようと道を探してみたが、道跡は鞍部で消え、そこから先は判らなくなっていた。地形図によれば沢筋を伝って降りていくようだが、ぬかる急な沢と化しており、軽登山の装備で降りられるような状態ではなかった。
 峠の周辺は地元の方々の山菜山となっている。そのため鞍部までは道が残っていたのだろう。


失われた峠道

南口をふさぐ採石場

 残念ながら、高里峠は大部分が藪や開発によって消失しており、現在は鞍部までの道筋が僅かに残っているにすぎない。南の峠口にあたる場所には採石場があり、一般人は進入できなかった。

行く手を阻む盛大な笹薮

 さっきの分岐点の反対側、採石場につながる道は盛大な笹薮。

北口を断つ沼

 北の峠口、さっきの沢筋につながる場所は田んぼと沼で分断され、先へ進めなくなっていた。


相扶共済の碑

国保発祥の地・相扶共済の碑

 高里峠が藪に埋もれた理由を探る鍵は、峠の周囲に転がっている。まずは峠の北、角川(つのかわ)地区にある石碑を一つ紹介しよう。石碑は角川の健康保険組合発足20周年を記念し、昭和33年(1958年)に建てられたものだ。

 戸沢村が誕生する以前、角川の一帯は「角川村」という、一つの村だった。しかし村は山奥ゆえ、車も通れなければ冬には雪に閉ざされるといった具合に交通の便に恵まれず、往来もままならなかった。
 困ったのは病気になった時だった。村には医者がおらず、病気になれば辺鄙な山道を通って村外の医者の元へ行くか、あるいは医者に来てもらうかせねばならず、村人は満足な治療を受けられなかった。しかも昭和初期には凶作と大恐慌の煽りを受け、辛い暮らしを強いられたのだ。
 この境遇から抜け出そうと村営の診療所を作るため、村人は村人による健康組合の設立に乗り出した。そして努力と苦労の末、昭和11年(1936年)4月、健康組合を発足させ、念願の診療所を作った。これは全国における健康保険組合の先駆けで、昭和13年(1938年)の「国民健康保険法」発足時には、法律に基づく健康保険組合として、全国第一号の設立認可を得た。これを根拠に戸沢村は「国保発祥の地」を謳っている。


稲村橋と災害復旧碑

稲村橋

 稲村橋は峠からだいぶ北、稲村地区にある橋で、昭和54年(1979年)に完成した。ここにも苦難の歴史が残っている。

 もうひとつ、角川村を悩ませるものがあった。度重なる自然災害だ。
 角川村は山間を流れる川筋のまわりに集落が開けているせいか、荒天になれば山が崩れ、濁流が家や田畑を押し流すことがしばしばだった。昭和6年(1931年)には、拝賀式に向かう途中の小学生7名が地すべりで生き埋めになる事故が起き、昭和31年(1956年)の水害では、17の橋を流失している。

災害復旧碑

 稲村橋のたもとに建つ碑は、昭和51年(1976年)の水害からの復興を記念するものだ。この時の水害でも村は莫大な被害を受け、復旧に総額50億円以上の金額を費やしている。
 村は僻地ゆえ、永く苦難を強いられてきた。災害に強く、いつでも通れる「安全で堅固な道」の確保は、角川の人々の悲願だったのだ。


主要地方道戸沢大蔵線

平根地区の県道57号線

 その結果できあがったのが、県道57号・主要地方道戸沢大蔵線だ。戸沢村の中心部、古口を起点に角川を南北に貫き、大蔵村の肘折まで続いている。現在の角川の主要道路で、全線舗装で古口から平根に至る区間は通年走行可(平根の先から肘折までは冬季閉鎖あり)、もちろん自動車だって通れる立派なものだ。

 県道の整備は、明治25年(1892年)、初代角川村長斉藤信哉による、古口肘折間道路の建設にはじまる。大正2年(1913年)に鉄道の陸羽西線古口駅が完成すると、湯治場今神温泉・温泉地肘折への道として、この道が注目されることになった。もっとも、雨が降れば泥でぬかるみ、「なわしろみち」とさえ呼ばれるような心細いものではあったが、それでも多くの湯治客がこの道を利用したそうだ。
 その後も昭和恐慌を背景とした救農土木事業、終戦直後の開拓道路事業などなど、着々と整備が進められた。高度経済成長期には大水害からの復興を兼ね、永久橋建設や地すべり対策が施されている。そして昭和36年(1961年)になると県道に昇格し、さらに手が入れられた結果、「なわしろみち」は今日の立派な姿になった。
 そこに至るまでには、歴代の村長はもちろん、村人たちによる度重なる陳情があった。それはとりもなおさず、村人たちがそれほどこの道に期待していたということでもある。

工事直後の県道57号線

 県道は角川随一の主要道路であるため、整備が欠かせない。この時も一部の再舗装工事が終わったばかりで、路面は新しいアスファルトで黒々としていた。

 高里峠はこの県道と平行する位置にある。県道がなかった頃には、高里峠のような山道が村の集落どうしを結んでいたのだろう。そして県道の整備にともない峠はその使命を終え、藪に埋もれていったのだ。
 村人が待ち望んだ新しい道路は、幹線道路として活躍している。そのすぐそばで、旧い道が苦難の過去とともに眠っている。

(2007年5月取材・7月記)


案内

場所:最上郡戸沢村平根。標高約250m。

所要時間:
平根山神社から鞍部まで徒歩で約10分。

特記事項:
 道跡があるのは平根山神社口から鞍部までのごく僅かな区間のみ。それ以外はほぼ藪に埋もれているのと、採石場や沼によって分断されているため、全線踏破は困難。鞍部付近は地元の山菜山となっているため、くれぐれも荒らしたり不法に採取したりしないこと。当然車両乗り入れは不可。
 戸沢大蔵線冬季通行止めあり。片倉肘折間7.3km。毎年12月から5月末まで。全線通り抜けができるのは夏季のみ。1/25000地形図「古口」「肘折」。同1/50000「清川」「月山」。

参考文献

「戸沢村史」 1988年 戸沢村

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