上台峠

「りっぱな道路は終わりを告げ、またもや以前の困難な旅が始まった。今朝新庄を出てから、険しい尾根を越えて、非常に美しい風変わりな盆地に入った。」

〜イザベラ・バード「日本奥地紀行」第十九信より


旧道入口

新庄市赤坂の上台峠旧道入口

 上台峠(うわだいとうげ)は新庄市と金山町の間にある峠である。小さな峠だが、羽州街道筋、城下町新庄と宿場町金山を結ぶ峠として、古くから多くの人々が行き交った。
 今回紹介するのは、現在の国道ができる前に使われていた旧道だ。新庄市近郊の赤坂地区、金山との町境近くの国道13号線から、旧道は延びている。

旧道入口の分岐

 採石場のように見える場所が入口。入るなり道路は二手に分かれるが、右の方が旧道である。


旧道の様子

旧道の様子

 旧道の大部分は舗装されていないが、ひどくガレている場所もなく、自動車でも十分通行可能である。

旧道から国道方面を望む

 未舗装路は直角的なカーブをくりかえしながら、三つの丘を越え、金山側の上台地区に通じている。丘が切れたところから左手を見やると、畑の向こうに現在の国道が走っているのが見える。


丁字路

丁字路

 旧道はおおよそ道なりに進むだけだが、途中一ヶ所だけ、あからさまな丁字路が現れる。新庄側から来た場合は、ここで左折しよう。


切り通し

上台峠の切り通し

 直角カーブをいくつか過ぎると、目の前に長い切り通しが現れた。ここを越えれば上台まではもうすぐだ。


金山の盆地

林の切れ間から見る金山の盆地

 切り通しを越えると、杉と雑木林の切れ目から金山の町が見えてきた。奥に控える三角形の小山は、金山の目印、薬師山だ。
 上台峠を越えた人物の一人に、イギリスの女性旅行家、イザベラ・バードがいる。明治11年(1878年)、バードは東北地方と北海道へ探索旅行に出発した。当時、外国人にとって東北や北海道は未知の領域で、そんなところにイギリス人、しかも女性が分け入るということは、非常に冒険的なことであった。バードは大雨、悪路、蚤や害虫、思うに任せない駄馬、そして群衆が向ける好奇の目に辟易しながらも、珍しい風俗や自然など、それまで見たこともない日本の姿に魅了されていった。
 バードは同年7月、その旅の途中で山形を訪れている。山形では置賜盆地の風光を「東洋のアルカディア」と絶賛し、上山温泉では温泉宿の篤いもてなしに心からくつろいでいる。その後羽州街道を北上し、戊辰戦争の傷跡癒えない新庄を経由して、上台峠で金山入りした。金山の町はいたく気に入ったようで、静養を兼ねてこの地で二日ほど過ごしている。
 バードは金山の第一印象を「非常に美しい風変わりな盆地」と記している。バードはこの峠を越えた際、おそらくここから金山と薬師山を眺めたのだろう。130年の時を経てあれこれ異なってはいるのだろうが、同じ場所に立ってみると、はじめてこの地を目にした彼女の驚きや感慨が伝わってくるような気がする。


上台

上台地区

 道が舗装路に変わると、じきに上台の集落が現れる。「上台」の名は、さっき越えてきた三つの丘のことを指していると思われる。これにちなんで、上台峠は「三坂峠」とも呼ばれている。


明治天皇上台御小休所記念碑と明治天皇小憩所記念碑

明治天皇上臺御小休所碑 明治天皇小憩所碑

 上台のある民家の軒先に、石碑が二つ建っている。明治初期、明治天皇がご巡幸でこの地を訪れたことを記念するものだ。
 上台峠は、明治になって一度大改修を受けている。手がけたのはまたしてもかの土木県令、三島通庸である。
 峠は金山の表玄関にあたるほか、森合・主寝坂・雄勝各峠を経て秋田につながる要地でもある。これら峠の改修も同時期に平行して進められているので、三島による改修は、秋田への連絡道の確保という意図があったのだろう。
 工事はバードがこの地を訪れた後、明治13年(1880年)になされた。その内容は馬車が通れるように勾配やカーブを緩くし、道幅を4間(約7.2m)に広げるというものだったが、「歴史の道調査報告書」を見る限り、工事は新しい道筋を作るものではなく、既存の道筋を改修するものだったらしい。いずれにせよこの改修のおかげで、旧道は現在でも車で通れるようになっているわけだ。
 明治天皇がこの道を通ったのは改修の翌年、明治14年(1881年)のことで、北海道・東北ご巡幸の帰り道となった。明治天皇は9月22日、主寝坂峠より金山に入り、何度か休憩を挟みながら上台に到着、当地の旧家近岡家にて休憩され、上台峠を越えて新庄に出ている。
 石碑が建っているのは、休憩所となった近岡家があった場所である。ひとつはご巡幸後五十年の昭和4年(1929年)に建てられ、もうひとつは昭和11年(1936年)に国指定の史跡になったことを受けて建てられた。現在ここに近岡家の者は住んでいないが、残された石碑が往時のできごとを今に伝えている。


旧道出口

上台峠旧道出口

 記念碑があるところから少し進むと国道13号線に合流し、旧道はここで終わりとなる。出口右手には鯉屋がある。
 かつて、鯉は上台の名物だった。明治5年(1872年)に上台が大火に見舞われた際、多くの家が防火用水にと庭にため池を設けたのだが、やがて誰かがその池で養鯉を始めるとそれが集落中に広まり、近隣に売り歩くほどにまでなった。「上台の鯉売り」は、夏の風物詩でもあったという。
 時代が下ると鯉を飼う家も減り、現在養鯉は細々と営まれているにすぎないが、往時の名残か、上台には今でもため池を備えた家が目立つ。


国道13号線の上台峠

国道13号線上台バイパス

 現在の国道13号線は、旧道の西側にあるバイパスで峠を越えている。
 明治の改修後、上台峠は国道の指定を受け、要路として多くの人や荷物が行き交った。明治33年(1900年)に金山村(現金山町)の役場が調べたところによれば、一年平均約4万8000人、650駄が行き交い、貨物運搬のための往復や、行商・出稼ぎ目的の旅人が最も多く通行したと記録されている。
 金山の玄関としての重要性はその後も変わらず、昭和32年(1957年)より、国道13号線改修の一環として上台峠周辺も整備されることになり、旧道の西に新しくバイパスが建設されることになった。これが現在の国道だ。

上台バイパスから見る金山町

 三つの丘を串刺しにして、切り通しのカーブを曲がると、突如左手に金山の盆地と薬師山が現れる。新しい上台峠からの眺めはまさにバードが書き綴ったとおりのもので、金山を代表する風景のひとつである。そしてかつて彼女を出迎えたように、今も金山の玄関として、訪れるものを出迎えている。

「ピラミッド形の丘陵が半円を描いており、その山頂までピラミッド形の杉の林でおおわれ、北方へ向かう通行をすべて阻止しているように見えるので、ますます奇異の感を与えた。その麓に金山の町がある。ロマンチックな雰囲気の場所である。」

〜イザベラ・バード 前掲書

(2006年4月取材・6月記)


案内

場所:新庄市赤坂と最上郡金山町上台の間。国道13号線およびその旧道。標高約200m。

所要時間:
新庄側国道13号線分岐点から金山側同合流点まで自動車で約10分。現在の国道は自動車で3分ほどで通過できる。

特記事項:
旧道自動車通行可。ただし冬は積雪のため通行不可になる。現国道からは金山の展望がよいが、周辺に駐車場や歩道はない。国土地理院1/25000地形図「羽前金山」同1/50000地形図「羽前金山」。

参考文献:

「金山町史」 金山町 1988年

「日本奥地紀行」 イザベラ・バード著 高梨健吉訳 平凡社 2005年

「山形県歴史の道調査報告書 羽州街道」 山形県教育委員会 1979年

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