由良峠(ゆらとうげ)は、鶴岡市近郊の上郷地区と由良地区を結ぶ峠である。峠について語るなら、山形屈指の霊地、出羽三山開山伝説を避けては通れない。
まずは峠の先にある由良を紹介してしまおう。由良は加茂の南西、約6キロほどの場所にある集落で、大きな海水浴場があることで知られている。沖には白山島(おしま)と呼ばれる小島があり、そのてっぺんには白山神社がある。白山島と砂浜の取り合わせが、ちょうど相模の湘南海岸、由比ヶ浜の風物に似ているというので、「日本海の江ノ島」と呼ばれることもある。
記録によれば、開村当時は五軒の漁民から始まり、タラ漁で栄えたという。庄内藩が作成した古地図を見る限り、由良に至る陸路は非常に限られており、「鶴岡市史」でも由良の歴史は詳述されていない。酒田や加茂よろしく、北前船の寄港地になったという話も伝わっていないので、由良はおそらく、永らく海辺の一漁村として、細々と歴史を紡いできたのだろう。
しかしこの一漁村に、山形を知る上で決して欠かせない伝説が伝わっていたりするのだ。
八乙女の恵姫・美鳳姫の像
豪族蘇我一族が権勢を誇った時代。崇峻天皇(すしゅんてんのう)第一子、蜂子皇子(はちこのみこ)は権力を狙う蘇我氏から迫害を受けていた。暗殺の危機を察知した皇子は、従兄弟聖徳太子の勧めもあり、丹後宮津は由良の浦から都を脱出し、海路密かに北へと逃れていった。
皇子が当地の沖にさしかかると、岩穴の上で八人の乙女が妙なる楽を奏で、手招きしているのが見えた。乙女に誘われるがまま上陸し、当地に休んだ皇子は、夢枕で山に入って聖地を開くようにとの声を聞く。皇子は夢のお告げに従い、峠を越え山に籠もり、修行の末、出羽三山の礎となる羽黒山を開いた。皇子が上陸した浜は船出の場所にちなんで「由良」と呼ばれるようになった。そして皇子が通った峠こそ、由良峠なのだ...と伝説は語っている。
現在では広く知れ渡った蜂子皇子による開山伝説だが、実際のところ、蜂子皇子の伝説は後付けで作られたものらしい。もともと羽黒山は同じ崇峻天皇由来の能除仙という人物を開祖としていたのだが、江戸時代、羽黒山の歴代別当が能除仙は蜂子皇子だと喧伝したことで、いつの間にか能除仙を蜂子皇子と見なす説が広まり、今では羽黒山に社殿を置く羽黒山神社も蜂子皇子を開祖とし、祀っている程である。
もともと聖地羽黒山は、素朴な山岳信仰が発展してできたもので、蜂子皇子や能除仙という「設定」は、後世の人間が山の権威付けのために持ち出したものなのだろう。しかしこれだけは確かなのは、羽黒山が山中にあるにもかかわらず、非常に海と縁の深い聖地であることだ。羽黒山神社の境内にある鏡池は龍神信仰を色濃く留めている。祭神伊氏波神(いではのかみ)も、元をたどれば海神の娘玉依姫や豊玉姫に由来する。羽黒山と由良は地下でつながっているという伝説もあって、かつて羽黒山の三神合祀殿が火災に遭った際、由良海岸の岩穴から煙が吹き出したという話まである。
由良の白山神社は、大同年間(806年)に加賀国一の宮白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)を勧請したものである。そもそも由良という地名も、丹後の由良の浦に由来するものだった。他にも蜂子皇子が由良ではなく酒田の宮ノ浦付近に上陸したとする伝説や、温海の低山日本国を越えてきたとする伝説もある。この界隈には、こんな具合に何かと西国との縁を感じさせる地名や伝説が多い。「やまがたの峠」では、海伝いに進出してきた朝廷が、東北を支配下に置くにあたって、羽黒山の神々を日本神話に取り込んだ可能性をほのめかしている。
これら伝説から察するに、海を通じて、古くから由良には西国の風が入ってくることがあったのだろう。それがさらに内陸に入って元から山にあった信仰に影響を与え、羽黒山の信仰が形作られていったのだと思われる。由良峠はその入口となったのだ。
説明はこのくらいにして、上郷方面から由良に向かって峠を越えてみることにしよう。
現在の由良峠は、国道7号線が通過している。峠口は幅員も広い立派な道路で、車も盛んに行き交っている。登坂車線の標識が、急な登りが待っていることを感じさせる。
峠道は大きく二つの丘を越えているのだが、さすが一桁国道、自動車で走る分には全く苦労しない。単純に走るだけだったら、あまり面白みのない道ではある。
最初のピークから少し下ると右手に脇道が現れる。こちらに逸れると加茂坂峠のお膝元大山に出られる。由良峠へは国道7号線に従って道なりに進む。
さっきの分岐を境に道は再び登りになる。左側に現れる大きな待避所に、峠の交通量の多さがうかがえる。
ここが鞍部。標高77m。巨大な切り通しになっており、車の流れは極めて速い。現在でこそひっきりなしに自動車が行き交うこの峠だが、そうなったのは比較的新しい時代のことである。
もともと由良峠は、庄内の主要道、羽州浜街道筋から逸れた場所にあり、由良と鶴岡を結ぶ間道に過ぎなかった。実際、浜街道は由良の南、三瀬(さんぜ)より山の方に入り、矢引坂(やびきざか)を経て鶴岡に通じており、かつての国道もそちらの道筋をなぞっていた。昭和30年代までの地形図を見ると、由良峠はカーブの多い幅員2m以上の道として記載されている。
ところが鶴岡以南の国道7号線の改修が始まると、それにともない従来の道筋が見直され、由良峠にバイパスが造られることになった。工事は昭和36年(1961年)から始まり、昭和39年(1964年)に竣工している。
矢引坂を回避したのは、冬場の雪対策が大きな理由となっている。矢引坂は海から離れた場所にあるため、冬になると通行が途絶えるほどの積雪に悩まされた。そこで少しでも雪の被害を減らすため、積雪の少ない海側にバイパスが造られることになったのだが、その候補地となったのが由良峠だった。かくしてそれまで間道に過ぎなかった由良峠は、一躍交通の主役に躍り出たのである。
建設にあたっては、当時の建設省若手職員が、積雪量調査のため80センチも雪が積もった真冬の由良峠を徒歩で往復したとか、マムシにおびえ漆かぶれに悩まされながら峠を測量したという苦労話が伝わっている。トンネル建設も検討されたが、その結果はご覧のとおり、巨大な切り通しとなったわけである。
旧国道は県道に降格されて現在に至るが、そのかわり、現在建設中の高速道路の日本海沿岸道が、矢引坂を通ることになった。旧浜街道の復活と言えなくもない。
矢引坂の高速道路建設促進を呼びかける看板。さっきの待避所に建っていた。
鞍部から下っていくと、左手にまた待避所が現れる。その待避所の片隅に、弁慶清水の跡がある。
由良峠は源義経一行逃避行の道にもなった。義経主従は鼠ヶ関より出羽国に入ると、海沿いに険路を北上し、由良より峠を越えて内陸に向かっている。その際、武蔵坊弁慶が義経のために清水を掘り当てたと伝わっており、それがこの弁慶清水なのだという。清水はもともと別の場所にあったが、由良峠の国道7号線拡幅工事に伴い、昭和58年(1983年)、現在地に移転された。
涸れてしまったようで水は湧いていないが、そのかわりに弁慶を祀った小さな祠が建っている。これが弁慶神社で、幕末から明治にかけて作られた弁慶の板碑が三つほど立っている。
「義経記」には、「敦賀のあたりで行き先を尋ねられれば熊野に行く途中と言い、出羽のあたりなら羽黒山に行く途中と言えば追求を逃れられる。」と、弁慶が山伏に変装する理由を説いた下りがある。義経一行が山伏に身をやつしていたのは、羽黒山と無関係ではない。
一行が本当に由良峠を通ったかは判らない。しかし由良峠が表街道から外れた間道だったこと、また、峠が海と羽黒山をほぼ一直線に結ぶ位置にあること、それに由良と羽黒山の縁の深さを考えると、一行がこの道を選んだというのは、非常に理に適ったことではある。義経が鎌倉ならぬ「日本海の江ノ島」に来たというのも、どこか皮肉を感じさせる。
由良峠は海から山に至る聖地への入口でもある。その後義経一行は、峠を越えたところで弁慶を羽黒山に代参させている。都を逐われた貴人が海を越え、山中の聖地に向かうというあたり、義経の逃避行は羽黒山の開山伝説に似ているような気もする。
清水跡を越えれば、間もなく日本海とともに由良が見えてくる。
昭和の中頃には、由良は海水浴場として知られていたようだが、それに拍車をかけたのは、間違いなく昭和30年代の由良峠バイパス開通だろう。実際、開通から数年後の昭和42年(1967年)には由良地内での県道改修工事が始まっているが、その目的は夏季の渋滞解消のためだった。
峠の向こうには由良の砂浜と海が待っている。古代、西国の風が通った峠は、人々を海に運ぶ峠になった。
(2006年4月取材・7月記)
場所:鶴岡市上郷地区と由良地区の間。国道7号線。標高77m。
所要時間: 上郷地区峠口から由良地区まで自動車で約3分。
特記事項: 非常に整備された道なので車で難なく通行できるが、交通量が多い上流れも速いため、路肩に車を停めながらのんびり見物できる場所ではない。一応歩道あり。県道分岐点直後と弁慶清水そばに待避所あり(下り車線側)。夏場は海水浴客の車で混雑する。
「国土交通省東北地方整備局 酒田河川国道事務所」
http://www.thr.mlit.go.jp/sakata/index.html
「語り継ぐ道づくり 東北の直轄国道改修史」 東北建設協会 2003年
「建設省酒田工事事務所75周年記念 川とともに道とともに」 建設省東北地方建設局酒田工事事務所 1992年
「出羽三山 −歴史と文化−」 戸川安章 郁文堂書店 1973年
「山形の国道をゆく みちづくりと沿道の歴史をたずねて」 野村和正 東北建設協会 1989年
「やまがた地名伝説 第一巻」 山形新聞社編 山形新聞社 2003年
「やまがたの峠」 読売新聞山形支局編 高陽堂書店 1978年