やりこみ

 近年、市販のゲームをやるのが億劫になった理由の一つに、「やりこみ要素」というのがあります。
 たとえば条件を満たせば隠しイベントが発生するとか、クリア後に長大な隠し迷宮や隠しストーリーが現れるとかいうものから、ステージクリア時のランク付け、レアアイテムが得られるサブクエスト、進捗度に応じて音楽モードやグラフィック鑑賞モードといったオプションが増えていくとか、アイテム全収集、図鑑モード、ボス戦モード、果てはこうしたものを「真のエンディング」を見るための条件にしてしまう等々そういうものです。
 時間がないわけではありません。他の趣味に回している時間を割けば、ゲームで遊ぶ時間は結構捻出できます。ところがこうした要素があると「いっぱい作り込んだから、ぜひやってくれよな! ぜっ・たい・に、な?」と言われているようで、それだけで尻込みしてしまうのです。

 20年近く前、ゲームが一月単位で時間をかけて遊ぶものだった時代、プレイ時間を長くしようと、故意に難易度を高めたり、マップを複雑にしたりといった動きがありました。当時制作者の間で支配的だった「苦労して作ったゲーム、そうやすやすと解かれてたまるか!」という考えは、遊びごたえを出したい、長く遊んでほしいという感情の裏返しで、それが難易度や繁雑さを上げる方向に走っていたわけです。
 質こそ違えど、現在の「やりこみ要素」は当時と同じく、あからさまな「プレイ時間を長くしよう」という意図が見えるようで、そこに萎えてしまうのかもしれません。プレイ時間を長引かせるため「やりこみ要素」に頼るという考えは、ある意味「こんなに苦労して作ったんだから、君らも苦労してくれよな!」という考えと何ら変わるところがありません。ゲームの遊びごたえとは、プレイ中いかに楽しめるかであって、必ずしもクリアや全ての隠し要素を見るために要する時間の長さと同じではないはずなのですが。

 当時、いつでも好きなだけゲームを買える人間というのはごく限られてまして、次のゲームを買うまでは、飽きてしまえど何度も同じゲームで遊ばざるを得ませんでした。ですから縛りを設けるとか、新しいルールを考えるとか、全く違ったプレイ方法を探すとか、少しでも風味を変えて楽しもうと、手を変え品を変え何度も何度もしゃぶった結果、やりこみという遊び方が生まれてきたのだと思います。
 自分で新しい遊び方を考えること。これがやりこみの原点であって、その本質はお仕着せではありません。荒井にとって、ゲームとは飽くまで気ままに遊べる楽しいおもちゃでして、「原稿用紙5枚がノルマの読書感想文」とか「計算ドリル」ではないのです。

 「スーパーマリオブラザーズ」「スターソルジャー」「ザナドゥ」「ウィザードリィ」等々、今遊んでも面白い歴史的名作は、ゲームシステムの奥深さで楽しませる作品ですし、それゆえ様々な遊び方ができるようになっていました。もちろん容量的にいっぱいいっぱいだった当時の作品で、おまけ要素を盛り込むことは夢のまた夢だったのですが、それを考慮しても、本来のやりこみとはとってつけたようなおまけ要素ではなく、作り込まれたゲームシステムの奥深さで何度も楽しませるようなものだったのではないのでしょうか?
 やりたいのは宿題ではありません。楽しいゲームなのです。

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