物語の魅力〜「イース」の世界観

 さて、「イース」が、遊びやすさと凝った物語手法を備えた作品であることはわかりましたが、そうして語られる物語の魅力−「イース」で特に絶賛されたもの―はどこにあるのでしょう?

 「イース」は、古代イース王国の謎を明らかにしながら物語が進みますが、それは世界観を読み解いていくことでもあります。物語の魅力はその背景にある世界観に依っています。栄華を誇りながら滅んでしまった謎の古代王国という背景、数々の個性的な登場人物。「イース」が世界観重視の作品であることは、当時としては異例な豪華製本の取説にもうかがえます。現在でこそ世界観に凝った作品は世に溢れていますが、80年代、そうした作品はまだまだ少数でした。その中にあって他にはない奥深さを感じさせる「イース」の世界観は非常に魅力的で、多くのプレイヤーを虜にしました。

リリアさんとランスの村の人々
ランスの村の人々。よく考えると、村人の中でひらひら衣装のリリアはかなり浮いている。

 そういう作品ですから、世界観はさぞかし作り込まれていると思われがちですが、ところがそうではありません。実は「イース」の世界観は、そう綿密に作り込まれてはいないのです。特に技術考証や文化考証ははっきり言ってなっていません。
 例を示しましょう。まずはキーアイテムの一つ、「銀のハーモニカ」。金属製のリードを備えた楽器は古くからありましたが、現在のようなハーモニカが誕生したのは産業革命以降の19世紀のことです。果たして古代イース王国やエステリアの技術水準で、溶接やネジ留めを必要とする近代の楽器が作れるかどうかは疑問が残ります(注8)。
 もうひとつ、「イースII」のヒロイン、リリアの服装も疑問です。リリアの服装は皆さんもご存じのとおりですが、ランスの村の中で、あのような服を着ているのはリリアだけで、村人の中で浮いています。あれが民族衣装だったら、村人も似たような服装をしているのが自然なはずですが、そういうことはありません。他の村人と同じように、リリアも地味で目立たない服を着ている方が、文化考証的には適切です。

「ルーンワース」ブックレット
「イース」取説ばりの豪華製本「ルーンワース」解説書。これだけ読めばゲーム本編にも期待してしまうが。

 ここで比較のため、別の作品を例に挙げしょう。世界観に非常に凝った作品として、T&Eソフトの「ルーンワース 黒衣の貴公子」(1989/12・T&Eソフト)があります。「ルーンワース」は天地創造から神話体系、地理、歴史、宗教、魔法、人種、政治、経済、生態分布に至るまで綿密に作り込まれた世界観があり、その解説のためにまるまるブックレット一冊分が充てられています。その作り込みは、「イース」の比ではありません。
 ところが「ルーンワース」は、「イース」ほどの支持を得られませんでした。それはなぜでしょうか?

 「ルーンワース」が失敗した大きな理由として、その設定を活かしきれなかったことが挙げられます。設定こそ作り込まれていますが、作中で活かされているのはそのほんの一部で、大半は全く本編に反映されていません。魅力的な設定を豊富に提示して、「こんなに奥の深い世界を冒険するんだ!」とプレイヤーの期待を煽っておきながら、本編の底が浅かったため、失望を買ってしまったのです。
 一方「イース」の設定は、さほど作り込まれたものではありません。しかし提示された設定は、どれもが作中で活かされています。ここが「ルーンワース」と「イース」の最大の違いでしょう。設定を作り込めば物語が魅力的になるとは限りません。「ルーンワース」は設定に溺れたのです。

山賊の砦 ミリムとの出会い いまわの際に出生の秘密を明かすガラン
せっかくの世界観をことごとく活かせなかった「ルーンワース」。提示しても反映されなければ意味がない。

 一連のクインテット作品を見ると、「世界の両面性」「表裏一体の対立」「人間のあり方」というテーマこそ一貫していますが、各種設定は曖昧に定義されているだけです。察するに、「イース」の制作者は、リアリティを出すために世界観を作り込むことよりも、世界観によってテーマを伝えることの方にこそ関心があったのではないでしょうか?
 「古代王国の謎が明らかになる展開」というプロットと、「人間性や信頼を大切にしたゲーム」という方針。それは「旧秩序との訣別」というテーマとして、作品に反映されています。本作の場合、まずはこうした設計思想やテーマがあって、各種設定はそのために用意されたものです。そして設定の魅力は、テーマの魅力と直結しています。「イース」の世界観が魅力的なのは大本に魅力的なテーマがあるからで、全てがそれに貫かれているからこそなのです。

 テーマを伝えるために必要な作り込みしかされていなかったのには、シナリオデータを詰められるだけの容量がなかったという当時的な事情もあったでしょう。ところがこれもまた「イース」の魅力となりました。必要以上に語られないことがかえってプレイヤーに想像の余地を与え、作品への思い入れを促すことになったのです。同じ場面でもプレイヤーによって様々な解釈が可能で、プレイヤーはシナリオに現れない言葉や情景を思い思いに想像し、「自分だけのイース」を楽しむことができたのです。
 説明するかわりに断片を与え、それをもとに真相を推測させるというのは、「イース」の物語手法の特徴でした。「イースI」はもちろん、テキスト量が増えた「イースII」でさえ必要以上のことは語られず、物語を理解するには読み解く作業が必要です。このように、語られない部分を想像力で読み解くという行為は、「イース」を遊ぶ上で重要な位置を占めていたのです。語らずにほのめかすこと、子細を各人の想像に委ねることによって、「イース」の世界観が、語り尽くせぬ奥行きや広がり―神秘性―を得ていたことは否めません。
 後年作られた「エターナル」の脚本は、オリジナルで描写が足りなかった部分を補う形で増強されています。荒井の個人的な印象ですが、「IIエターナル」に関して言えば、元の「II」がそれなりに言葉を尽くしているため、テキストが必要過多に陥った感があります。その傾向は後の作品にも続いているのですが、必要ない部分まで語ったおかげで、どうも物語が下世話になったような気がするのは荒井だけでしょうか。


「イース」が評価された理由〜「メルヘンヴェール」との比較

メルヘンヴェールIオープニング メルヘンヴェール・開始時デモ
先駆的な物語手法を盛り込んだ「メルヘンヴェール」。そのヴィジュアルは発売当時評判になった。

 「イース」はそれまでにない遊びやすさと魅力的な世界観を備えた作品でしたが、それだけではありません。そろそろ、「イース」の評価を決定的にしたものについて考察しましょう。
 「イース」以前にも、似たような様式のゲームはありました。これまでも何度か触れているシステムサコムの「メルヘンヴェール」シリーズです。前編と後編で完結する構成、濃厚な物語性、視覚に訴える演出、高い音楽性などなど、イースシリーズとはいくつかの共通点が見いだせます。
 しかし、「メルヘンヴェール」は大ヒットすることもなく、今や一部のオールドファンがその名を知るだけとなっています。なぜ「メルヘンヴェール」は「イース」になれなかったでしょうか?

 「メルヘンヴェール」について軽く紹介しておきましょう。本作は1985年に発売された、ARPG風味のアクションゲームです。物語は悪い魔法使いの呪いによってヴェールという卑しい生き物に姿を変えられ、祖国フェリクスを追放されてしまった王子が、苦難の末フェリクスに戻り魔法使いを倒し、人間に戻るまでを描いています。
 ゲームは前編にあたる「メルヘンヴェールI」(1985・システムサコム)と後編「メルヘンヴェールII」(1986/6・システムサコム)に別れており、二作揃って完結します(注9)。物語は要所要所に挿入されるヴィジュアルシーンで提示されまして、これが本作一番の売りとなっています。また、美しい楽曲も見逃せません。
 これだけを見れば「イース」とよく似ています。しかし両者を比べると、全く別物と言っていいほどの違いがあるのです。

敵の猛攻が待つゲーム画面 制作者ヤン・トモリ
制作者はヴィジュアルデモのために本作を作ったと言うが、楽しむにはまだ理不尽すぎた。

 ARPGである「イース」とは単純に比較できませんが、「メルヘンヴェール」の難易度は高めです。制作者はヴィジュアルデモを見せるべくこの作品を作ったと語っており、多少なりともライトユーザーを志向していたようなのですが、誰もが気軽に遊んで先へ進めるという難易度ではありません。その難しさは主に操作性とバランス設定、ゲーム設計に由来するもので、調整次第では万人向けにすることもできたはずでした。しかしクリアには相当の根気と腕前が必要となります。「メルヘンヴェール」はライトユーザーを意識した作品でしたが、当時の慣例に漏れず、理不尽な難しさも備えていたのです。
 他にも「CRPGの老舗」日本ファルコムとシステムサコムのブランド力の違い、対応機種の数といった要因はありますが、これこそが「イース」と「メルヘンヴェール」の決定的な違いでした。一言で言えば、イースは「優しかった」のです。


「優しさ」の革命〜「イース」が「イース」である理由

フィーナの言葉
「世界にはすばらしい人たちが暮らしている」〜おそらくは制作者が「イース」で一番伝えたかったこと。

 「優しさ」。それは「イース」がその最大の売りとしたものでした。そしてそれこそが、本作が評価された最大の理由であり、歴史的名作たらしめている理由です。

 これまでにも何度か述べてきたとおり、難易度とスケールのインフレ状態の中にあって、「イース」は全く特異な存在でした。それというのも、当時にしては異例なほど「難易度が低かった」からです。
 プログラマーの橋本氏は、本作について「遊んだ方が誰でも解いていただけるようなゲームにしたかった。意地悪なトリックは一切無くしたかった。」と語っています(注11)。先述したとおり、当時のゲームは多分に理不尽さを備えたものでした。不条理で全く手がかりのない謎解き、無用に高い難易度、そして何よりプレイヤーを悩ませた手詰まり「ハマリ」の存在。難易度とスケールのインフレとは、いわば理不尽さのインフレでした。「イース」と当時の他のゲームとの決定的な差は、この「理不尽さを廃したこと」にあります。
 難易度が低いといっても、それは簡単、ヌルいということではありません。今日日的な基準からすれば「イース」は難しい部類に入ります。ただし、理不尽な部分が一切なく、少々のひらめきと習練で必ず解けるようにできています。いたずらにプレイ時間を長びかせるような仕掛けもありません。ですから理不尽でクリアに時間がかかるのはあたりまえ、むしろそれをクリアすることがゲームの醍醐味だとでもいうような、解けるかどうかさえ判らない当時のゲームに比べたら、「イース」は、格段に難易度が低かった―言い換えれば、理に適った遊び方をすれば誰にでも必ずクリアが保証されていた―のです。
 その難易度は、単純な数値だけに由来するものではありません。敵のパラメータ設定はもちろん、上達が目に見えるボス戦、快適な操作性、シンプルかつ爽快なゲームシステム、なんとか覚えられるマップ設計、徹底的に理不尽さと陰険さを廃した謎解き、短いながらも密度の濃い魅力的な物語と物語手法などなど、ゲームデザインの段階から遊び手のことを思いやった末に実現したものです。それは誰もが楽しめるゲームを作ろうという制作者の意思の表れであり、理不尽さで肥大化したゲームに突きつけられた疑問符でもありました。「果たしてそれが本当に面白いのか? プレイヤーは本当にそれを望んでいるのか?」と。

 誰もが解く楽しさと達成感を味わえるゲーム。ゲーム本来の面白さを世に問うた「イース」は、難しいゲーム一辺倒の当時にあって、プレイヤーの潜在的な欲求に適ったのか、熱狂をもって受け入れられ、大ヒットすることになりました。そして「ドラスレ」「ザナドゥ」に次ぐ日本ファルコムの代表作となったばかりか、他社の追随を生みます。「イース」が起こした「優しさ」の革命は、ゲームを「挑戦状」から「娯楽作品」へと大きく変え、日本のゲーム史を一変させました。短いながらもその内容で誰もがきっちりと楽しめるように作られた「イース」は、時代に投じられた一石だったのです。

 ところが、「イース」の出現によって業界は一変しましたが、それがその後実りある作品を生んだかというと、そうとも限らないように思われます。以前述べたとおり、追随した作品の多くは、「世界観重視・親切設計」という「イース」の一側面を模倣するに留まり、その本質である「既存の作品に対する問題提起=ゲーム本来の面白さの追求」という側面まで真似した作品は皆無でした。そして残念ながら、それは後のイースシリーズも例外ではなかったのです。思えば、これが「イース」の味わった最大の悲劇なのかもしれません。
 確かに、「イース」の魅力というと、世界観や音楽、ゲームバランスといったものが目立ちます。しかしそれは飽くまで表面的なものです。そもそも「イース」とは、何を期して作られた作品だったのでしょうか?
 「イース」を「イース」たらしめているものは、ボス戦でもなければ音楽でもありません。極論すればアドルやフィーナでさえありません。
 これまで見てきたとおり、「イース」の根底には「とにかくゲームで楽しんで欲しい。気持ちよく遊んで欲しい。そのためにプレイヤーの身になってゲームを作ります!」という、物作りにおける誠実さがありました。思えば絶妙なボス戦に謎解き、高品位な音楽、快適なゲームシステム、そしてアドルもフィーナも、全てはそれ故に生み出されたものだったのではないでしょうか?
 物作りにおける誠実さ―人間を大切にしたゲームを作るという姿勢。これこそが「イース」を「イース」たらしめたもの、「優しさ」です。プレイヤーは何よりもまず、作品を通じて「優しさ」を受け取ったからこそ、「イース」に感動したのではなかったでしょうか?

世界樹の迷宮
音楽が古代祐三である以外、共通点のなさそうな「世界樹の迷宮」。しかしその根源において「イース」と同じものを感じる。

 「イース」一番の魅力は「優しさ」です。これをただ単に、設定や音楽といった上辺の魅力と読み違えてしまったところに、その後のシリーズの失敗の原因があります。飽くまで「イース」はそれまでにない面白いゲームを目指して作られた作品で、そのよりどころとなったものが「優しさ」でした。その真髄は「遊び手に対して誠実であること」です。そのための物語であり、設定であり、システムであり、音楽、難易度、ボリューム、操作性、言うなればゲームデザインだったのです。
 「イース」はゲームそのものの奥深さゆえ、何度も遊ぶ価値のある作品です。真相を理解させるため二周も三周もさせたり、追加要素で煽ったり、登場人物の数を競ったり売りにするような作品では決してありませんでした。「イース」の掲げた「優しさ」は、「今のままでいいのか? プレイヤーは本当にそれを望んでいるのか?」という、既存のゲームに対する問題提起です。この点においては、皮肉にも全く正反対の作品である「世界樹の迷宮」(2007/1・アトラス)の方が、かえって本来の「イース」に近いとさえ感じます。
 確かに現在の「イース」は、「娯楽作品」として格段に出来は良くなりました。しかしそれは飽くまで設定のために設定を作り、登場人物を出すために登場人物を作り、「イース」を続けるために「イース」を作っているような気がします。

 果たしてそこに、「優しさ」はあるのでしょうか?


脚注

注8・「イース・オリジン」では銀のハーモニカの由緒についても逸話が作られたらしいが、当記事は当時の制作者が何を考えていたのかを問題としているため、新設定は考慮しない。

注9・「メルヘンヴェール」は三部作になる予定だったことが知られている。しかし最初から物語全編の構想があったわけでもないらしい。制作者の裏話によれば「メルヘンヴェールII」制作開始時点で、物語がどうなるかは全く決まっていなかった模様。ついでに「メルヘンヴェール」の設定では、ヴェールは殺生を禁じられているのだが、ゲームシステムには反映されていない。

注11・当時、ゲーム制作者の間では「苦労して作ったんだからそう易々と解かれてたまるか」「作るのに苦労したから君たちも苦しんでね」という考えはあたりまえだった。その中において「誰にでも楽しめるよう、意地悪な要素は一切なくそう。」という考え方はまるきり正反対をゆくもので、それゆえに革命的なものであった。

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