青沢越え

青沢越えの位置

 最上郡金山町の中心部には、酒田市までの距離を示す案内標識がある。山形県北東の山中の町の標識に、なぜ日本海沿岸の都市の名がと不思議がる向きもあるだろう。そのとおり、最上の山奥と庄内はつながっている。その最上の奥地と庄内を結ぶ道。それが青沢越えである。


鮭延城趾

鮭延城趾

 青沢越街道は、新庄市内より西に出て、鮭川沿いに真室川町を北上し、分水嶺を越え、大俣川に沿い旧八幡町(やわたまち・現酒田市)の観音寺に至る長い道だ。最上と酒田を結ぶ数少ない道のひとつで、古くから重視されてきた。沿線にはそれを物語る史跡がいくつも残っている。鮭川村と真室川の町境付近、鮭川のほとりにある鮭延城は、そんな史跡の一つだ。
 鮭延城は戦国時代のまっただ中、大永年間(1511〜1525年)前後に、秋田仙北地方で勢力をふるった小野寺氏の客将、佐々木貞綱によって築かれたとされている。もともと佐々木氏は鮭川下流の岩鼻に城を構えていたが、庄内を支配した武藤氏に攻め落とされ、鮭延城に移ってきたのを機に、鮭延の姓を名乗るようになった。後にここを拠点に活躍したのが、佐々木氏の末裔、鮭延典膳秀綱である。

鮭延城から鮭川を見るの図
鮭延城主曲輪からの展望。典膳もここから鮭川を眺めたのだろう。

 典膳の時代に、鮭延氏は小野寺氏から、山形屈指の戦国大名最上義光の支配下に入った。そして典膳は最上家の武将として大活躍するのだが、その功績の一つに、庄内攻めがある。当時の庄内は武藤氏の時代で、義光がそれを狙っていた。
 天正11年(1583年)、時の武藤家宗主、義氏が拠点尾浦城を包囲され自害した。直接の原因は最上家と内通した家臣前森蔵人の謀反。この謀反に先だって、義光は武藤氏勢力の切り崩しを計っていた。その際典膳が青沢越えを通して親交のあった武将の懐柔にあたっていたに違いないと「やまがたの峠」では推測している。事実、武将の抱き込みを狙い、峠を越えた観音寺(旧八幡町中心部)や砂越(旧平田町中心部)の城主に典膳が送りつけた書状が残っていたりする。
 こうしたことができたのは、青沢越えをはじめとする峠道により最上郡の西方と庄内が近しい関係にあったゆえだった。


砂子沢楯と差首鍋楯

砂子沢楯薬師堂

 青沢越えの沿線には、鮭延城の他にも城郭跡がいくつか残っている。その中でも重視されていたのが、砂子沢楯(いさござわだて)と差首鍋楯(さすなべだて)である。
 砂子沢楯は、真室川の国道344号線沿線、砂子沢にある城跡だ。砂子沢はこの周辺を指す大沢地区の中心部にあたる土地で、中世の頃に佐藤隼人なる豪族が秋田から移り来て、勢力を振るっていたと伝わる。おそらくこの城も、その頃に築かれたのだろう。その東端には薬師堂が建っていて、国道から簡単に行けるようになっている。

差首鍋楯の一角

 差首鍋楯は砂子沢のさらに北、差首鍋地区にある。南部より来た鳥海氏の一族によって建てられたと伝わる。その変わった地名は、こんな逸話に由来する。
 戦国時代、沓沢玄蕃なる武将が当地を支配していた。あるとき合戦となり玄蕃はこの城に立てこもったのだが、やがて水が切れてしまった。そこで城の兵士たちは城壁から首を差し出し、ふもとを流れる鮭川に鍋を吊り下ろして水を汲み、事なきを得た。これにちなんで当地は「差首鍋」と呼ばれるようになったとか。
 玄蕃の主君は史料によって鮭延氏だったり、上杉だったり、最上だったりとまちまちではっきりしない。ともあれ差首鍋が青沢越えに至る要地にあり、周辺諸将が狙い、たびたび支配者が入れ替わっていたことは違いない。
 同じ頃に差首鍋で活躍した人物として、浅川茂平の名が伝わっている。茂平は酒田で勢力を振るっていた東禅寺氏の家臣である。戦乱で荒んでいた人心を和らげるため東禅寺氏から遣わされ、当地に住み着いた。東禅寺氏から拝領した黒地蔵を祀りながら土地を開拓した功により、差首鍋開村の祖とされている。

差首鍋楯から見る差首鍋の図
差首鍋楯から見る差首鍋の図。楯は差首鍋を見おろす小山にある。

 戦国時代、真室川のこの界隈もまた国盗り争いの舞台となった。西からは武藤氏や東禅寺氏、上杉氏といった庄内の武将らが、南からは最上が、北からは小野寺氏の勢力が激しく入り乱れ、それぞれの城や村はめまぐるしく所属を変えていた。
 当時、日山と西郡を経て庄内に至る「西郡越え」や、差首鍋から八森山(やつもりやま)を越える「亀倉越え」、与蔵峠等々、最上と庄内を結ぶ道は数あり、これらを介して二つの土地は密接につながっていた。鮭延典膳、沓沢玄蕃、浅川茂平等々、峠周辺に戦国武将の伝説が数多く残っているのは、当時それだけここが要地と見なされ、また庄内と近い関係にあったことの証である。そして青沢越えとはそうした道の中で、今でも生き残っている数少ない峠なのだ。


高坂ダム入口

峠区間入口・国道344号線大沢川林道分岐点

 先述したとおり青沢越えの街道は長い。今回紹介するのはそのほんの一部、真室川町高坂から酒田市北青沢に至る峠越え区間だ。街道で最も険しいところにあたるが、現在は国道344号線に指定されており、通行自体は容易である。
 峠区間は八森橋を渡りきったところ、高坂ダム入口から始まる。橋の名前は峠南一帯に広がる弁慶山地の八森山にちなんだと思われる。弁慶山地は標高約700〜900メートル級の低山が中心で越えやすい鞍部がいくつかあったこと、山岳信仰や鉱山開発・領国経営等で人々や文物の往来があったことが、数々の道が発達した理由だと考えられている。特に青沢越えと西郡越えは重視され、江戸時代の初め頃には当地を領することになった戸沢藩が、それぞれの峠口に口留番所を設けていた。


国道344号線

国道344号線のおにぎり

 峠は国道なので、かたわらにはもちろんおにぎりもある。

通行規制予告看板

 しかし真室川の山深いところを通るゆえ、幹線道路のように通りやすいというわけでもない。看板にあるごとく、ここは大雨が降ったりすると通行止めになるような場所なのだ。


真室川の山奥です

冬の険しさを感じる光景

雪崩防止工

 進むうち現れたのは「この先急カーブ注意」の看板とスノーシェード、法面に砦のごとく築かれた雪崩防止工。現在でこそ一応通年通行が可能となっているが、それでも雪崩が起きる恐れが高いため、冬場には夜間通行止めになることがある。

春先にはこんなことも

 実際春先に行ってみると、崩れた雪が道をふさいでいたりする。


急カーブ

弁慶山地

 さっきの看板のとおり、覆道のあたりには急カーブが待ち受ける。向こうには弁慶山地の山並みが見え、山奥であることを感じさせる。

急カーブの図

 振り返ってみると道が大きく曲がっているのがよく判る。


青沢トンネル

青沢トンネル 青沢トンネル入口

 そして峠に到着。道は昭和42年(1967年)開通の青沢トンネルで峠を越す。けっこう狭いうえに長く(約700m)、もっぱら「出る」と評判だ。


酒田市に出る

トンネルの先は酒田市だ 整備された印象

 トンネルを境に真室川町から酒田市(旧八幡町)へ、最上から庄内へと変わる。庄内側に入ると全体的に道が広くなる。カーブも少なめで、最上側より整備が進んでいる印象だ。峠を境に併走する川も、鮭川上流大沢川から荒瀬川上流大俣川に変わる。

庄内側の擁壁工

 擁壁工発見。あいかわらず道の険しさを感じさせる光景。

路面に残るブレーキ痕

 駐車帯のようになっている場所にはタイヤのブレーキ痕が黒々と。走り屋が来るということなのか。


慈光滝

慈光滝

 トンネルから少々下ったところ、国道のすぐ脇で滝発見。この滝は慈光滝と呼ばれている。南面しているため、滝壺付近には水飛沫による虹ができていた。

滝見橋銘板

 滝の前にあるコンクリート橋には文字どおり「滝見橋」の名がある。橋は昭和37年(1962年)にできたもので、当時県道だった頃の銘板も残っている。


青澤第一隧道

青澤第一隧道

 慈光滝を過ぎるとすぐに小さなトンネルが現れる。こちらは昭和36年(1961年)竣工の青澤第一隧道。名前のとおり、庄内側で最初に現れるトンネルだ。


雪崩防止工建設中

雪崩防止工建設中

工事用の櫓

 このとき(2007年9月)には、青澤第一隧道の先で雪崩防止工建設工事をやっていた。急な法面に設けられたいくつもの櫓は、いよいよ山賊か武将が設けた砦のようにも見える。

防止工完成後の図

 同じところのその後(2012年4月)の様子。すっかり完成した防止工が法面の落雪を防いでいる様子がよく判る。しかしそれでもこぼれた雪が地面に落下し、道路が少し狭くなっていた。


割原橋と愛の俣トンネル

割原橋と愛の俣トンネル

 雪崩防止工を過ぎるとやたら道が良くなった。このあたりから国道は新道に切り替わり、快走路へと一変する。
 目の前にある愛の俣トンネルは平成11年(1999年)に完成している。その前に架かる割原橋(わりわばし)は平成10年(1998年)の竣工。庄内側の区間はちょうどその頃に大改修され、現代的な道路として生まれ変わった。

文頭に戻る目次に戻るトップページに戻る次を読む