割原橋の手前に旧道への入口がある。こちらの様子もちょっと見てみよう。
旧道は現在のバイパスができるまで使われていた。舗装こそされているが大俣川の渓谷に沿うくねくね道で、スピードが出せるような場所ではない。新道開通によってその役目を終えた後、ぼちぼち薮に覆われつつある。
戦国時代には国盗りの要地として重視されただろう青沢越えも、江戸時代中頃になると衰退していった。その理由の一つは最上川舟運の発達だと考えられている。
平安時代の「延喜式」によれば、その頃には鮭川沿岸の佐芸(現鮭川村真木)に水駅が設けられ、そこまで最上川から舟が入っていたとされている。江戸時代の元禄年間(17世紀末)には、鮭川と小又川の合流地点(真室川町野崎・砂子沢付近)まで乗り入れできるようになっていた。それによって庄内との輸送には便利のいい水運が利用されるようになり、それと引き替えに陸運が衰退していったらしい。資料によれば青沢越えが衰退したのは正徳年間(1711〜1715)のあたりからで、宝暦年間(1751〜1763)の「新庄領村鑑」では「今はなかなか古木生茂りて、甚難所なり」と評されている。
それでもこの峠が生き残ったのは、上流の村の人々が利用したためだった。舟が入りこめない鮭川上流の村々は従来の陸路に頼らざるを得ない。衰退したとはいうものの、それなりに往来はあったのだろう。この頃この峠は戦略や物流の道というよりも、峠沿線に住む人々が生活のために利用する道としての性格を強くしていた。国道の前身となる県道ができる前に使われていた道は、二十数回も大俣川を渡っていたという。たびたびニホンザルが出没してイタズラをはたらき、道行く人を悩ませたそうな。
旧道は小さなコンクリート橋で沢を渡る。渡るのは大俣川支流の相ノ又沢。橋は昭和33年(1958年)にできたもので、この道の旧い名である「酒田金山線」の銘も残っていた。橋のところから林道が北に延びている。
橋の向こうはひどい薮。もはや自動車では通れない。沢が土砂をぶちまけ、石ころだらけになっているところもある。
旧道の出口。愛の俣トンネル庄内側にある唐松沢橋のところでバイパスと合流する。どうやらトンネルの名前は「相ノ又」の別表記のようだ。
愛の俣トンネルを出るとすぐまたトンネルが現れる。こちらは平成10年(1998年)完成の北青沢トンネル。庄内側は大俣川に沿って下っていくが、大俣川のなす渓谷を「北青沢渓谷」と呼んだりもする。バイパスはいくつもの橋やトンネルで北青沢渓谷を串刺しにしている。
北青沢トンネルを出たところで、長い橋で大俣川を渡る。こちらは平成8年(1996年)完成の北青沢橋だ。
橋の北にはかつての旧道区間が残っているが、自動車での進入はできなくなっている。斜面の中腹にコンクリートで固められた法面があるのがよく見える。
数ある弁慶山地越えの道が廃れていく中で、青沢越えはしぶとく生き残った。明治37年(1904年)の奥羽本線真室川駅開通、大正3年(1914年)の陸羽西線開通によって一時衰退したが、最上庄内連絡道確保の必要性からか、それなりに近代化が計られている。昭和26年(1951年)に県道が真室川町高坂地区まで開通し、3年後の昭和29年(1954年)には峠区間が主要地方道酒田金山線に指定されている。旧いコンクリート橋や隧道の建設は、おそらくこの主要地方道指定を受けてのものだろう。昭和42年(1967年)には青沢トンネルが開通。そして昭和49年(1974年)、酒田金山線は国道344号線に昇格した。
とはいえ国道になった後も冬になれば通行止めになり、未舗装路も残る「酷道」という時代がしばらく続いた。立派なバイパスの開通や各種対策工事によって通年通行可能な道になったのは平成時代になってから、世紀が変わる頃である。
どんどんバイパスを下る。このあたりは道がいいので走るのに苦労は全くない。北青沢橋から1キロ弱ほど下ったところで、バイパスは穴渕橋と和滝橋で立て続けに大俣川を渡る。
和滝橋のたもとから旧道区間に入る。少し歩いたところに和滝なる小さな滝がある。旧道区間は廃道化が進み、徒歩以外で入れない。
和滝の旧道区間から和滝橋を見たところ。岩を抱き曲がりくねって流れる北青沢渓谷の険しさを垣間見る。
そして川と同じ名前の橋が現れた。ここを渡れば里は近い。
大俣橋を渡れば程なく人家が見えてくる。標識には酒田と旧八幡町中心部観音寺までの距離が大きく記されている。高坂ダム入口から始まる山越え区間はここまでだ。
区間出口にもゲートがある。国道は一応通年通行できるが、荒天時にはここで閉鎖されるようだ。
かくて11キロほど国道345号線を下り、観音寺のあたりまで出てきた。荒瀬川と名を変えた大俣川を渡ったところに八幡神社がある。旧町名の由来となった神社だ。
神社のはじまりは平安時代の元慶元年(がんぎょう・877年)、出羽郡司となった小野美実が石清水八幡宮を勧請して建立したと伝わる。神社の由緒紀では同じく元慶元年、出羽国司藤原朝臣興世(ふじわらあそんおこよ)が勧請したとされている。「やまがたの峠」では、当時自然災害や元慶の乱等で不穏になりつつあった当地を鎮撫するため、軍神を勧請したのでないかと推測している。いずれにせよ朝廷が蝦夷を鎮めるべく建てたことに違いはない。
神社が建つ場所は「市条」と呼ばれている。この神社が条里制の基点となった場所であることにちなんでいる。条里制とは古代における農地の区分け方法で、これが敷かれていたということはここまで朝廷の支配が及んでいたことを意味する。条里制がなくなって久しいが、その名残を現代の地名に留めているわけである。
奈良時代から鎌倉時代にかけ、朝廷は蝦夷地経営に腐心していた。市条に立つ八幡神社は、ここが蝦夷地経営の最前線だった証拠である。
青沢越え西のふもとは庄内平野だ。ここが蝦夷地経営の最前線だったもうひとつの証が、八幡神社の近くにある城輪柵(きのわさく)である。
城輪柵は奈良時代末期の国府跡である。宝亀年間(770年〜781年)に成立したと推定される。8世紀前半に朝廷の勢力は秋田にまで進出し、天平5年(733年)統治拠点となる出羽柵を設けている。しかし宝亀5年(774年)に始まる蝦夷の大叛乱によって後退を余儀なくされ拠点を南方に移動、放棄した出羽柵の替わり新しく国府となったのが、ここ城輪柵だと考えられている。
柵は一辺720mの正方形状で、面積52万平方メートルという広大なものだ。近代になって庄内平野の灌漑事業が進むにつれ、近隣から遺構が出土したことをきっかけに調査が始まった。昭和6年(1931年)秋の本格的な発掘調査により遺跡の規模が判明、その後永年に亘って調査が続けられ、昭和40年(1965年)からの調査の結果、遺跡は奈良時代末期の国府跡であると断定された。平成元年(1989年)には門などの一部建物が再現され、今は史跡公園として見学できるようになっている。
前出の「延喜式」によれば、その頃多賀城から城輪柵への連絡道となっていたのが与蔵峠だとされているが、青沢越えもその代替路として使われていたと考えられている。
柵の北には鳥海山が控える。小野美実が赴任した9世紀にはたびたび噴火している。美実の目には出羽の不安定な情勢を象徴する存在として映ったに違いない。
この土地に柵が築かれたのは、陸路や水路の便が良かったことや、広い敷地が確保できること、羽前と羽後の中間に位置することといった好条件が重なっていたからだと思われる。それに加えて鳥海山や丁山地が蝦夷に対する天然の城壁となっていたからでないかという気もする。
鳥海山は古くから畏怖の対象となってきた。朝廷は繰り返す噴火を世情不安に対する祟りや警告と解し、ふもとに大物忌神社を設けたり神階を授けるなどして鎮撫に努めていた。祟る山はまた信仰の対象ともなってきた。青沢越えを含め弁慶山地を越える峠の数々は、鳥海山の山岳信仰とも大いに関係があると見る向きもある。
最後に青沢越えについての私見を一つ披露して、本記事の締めとしたい。
国道を今一度最上郡に引き返しその入口にあたる金山町、国道344号線が国道13号線から枝分かれする場所に薬師山なる山がある。金山のシンボルとも言える三角形の低山だ。
金山町民にはおなじみの薬師山だが、荒井にはこの山も青沢越えと深い関係があるように思われる。
「薬師」を「くすし」と読むことで、その名の由来を「古志」に求める説がある。「古志」とは古代日本に存在したという謎の民族「越族」のことだ。越族は大陸から渡り来て北陸を中心に勢力を広げたが、時代が下るといずこともなく消えていったという。追いやられて居場所を失ったとか、永年の間に他の民族との同化が進んだとか、消えた理由はあれこれ考えられているが、いずれにせよ大和朝廷の蝦夷地進出が大きな原因となったことは確からしい。
越族には、その居住地に祖神を祀るという習慣があった。その社が後の古四王神社である。各地に残る古四王神社を足跡にすることで、一族の足どりを追うことができる。
古四王神社と小姓林。現在の社殿は昭和30年頃、金山の名家西田芳松氏の資材提供により建てられたもの。
「薬師山」は現在「やくしさん」と呼ばれているが、近隣には他にも越族との関係を匂わせるものがいくつか残っている。薬師山のふもとに小さな社があるのだが、これが実は古四王神社なのである。さらに周辺の林は神社にちなんで「小姓林」と呼ばれていた。「小姓林」の名前は正徳2年(1713年)の土地台帳にすでに現れていたというので、この神社もその頃既にあったことは確からしい。
薬師も小姓も「越」に通じる。そして青沢越え西の入口となる八幡宮には、古四王神社も祀られている。
もしかするとその昔、朝廷に追われた越の民に、鳥海山を目前にして東に進路を取り、最上の山奥に移動した一団がいたのかもしれない。それとも朝廷の移民政策によって城輪柵に集められた越の民が峠向こうの小山の麓に居着き、その名を山に与えたのかもしれない。どれも荒井の憶測に過ぎないが、峠の入口と出口に位置する古四王神社と越族を彷彿させる地名には、何か関係があるように思われる。少なくともそのくらい昔から、青沢越えは最上の山奥と庄内を結んでいたに違いない。
(2007年4月・9月/12年4月取材・2012年6月記)
場所:
最上郡真室川町高坂と酒田市(旧八幡町)北青沢の間。国道344号線。郡界。標高約320m。
地理:
1・八森橋と高坂側通行止めゲート,2・覆道と雪崩防止工,3・青沢トンネル,4・慈光滝,5・青澤第一隧道 |
6・雪崩防止工,7・割原橋と旧道入口,8・愛の俣トンネル,9・唐松沢橋,10・相ノ又旧道区間,11・荒木沢橋, 12・北青沢トンネル,13・北青沢橋,14・廃道区間,15・穴渕橋と和滝橋,16・和滝,17・夫婦橋,18・青沢側通行止めゲート |
所要時間:
高坂側ゲートから青沢トンネルまで自動車で約5分。青沢トンネルから青沢ゲートまで同じく約15分。
特記事項:
全線舗装。国道なのでそれなりに整備はされている。一応自動車で通年通行可。特に庄内側は著しく改良された。ただし連続雨量150mmに達すると峠区間は通行止めとなる。また、降雪期や融雪期に雪崩れの恐れが高まると通行止めになることがある。旧道区間は基本的に自動車乗り入れ不可。廃道化が著しいほか入口で封鎖されている。1/25000地形図「差首鍋」「升田」同1/50000「大沢」。
「金山町史資料編『歴史をさぐる』」 金山町教育委員会 1995年
「弁慶山戦記」 坂本俊亮 2012年
「山形県の歴史」 横山昭男・誉田慶信・伊東清郎・渡辺信 山川出版社 2003年
「山形県歴史の道調査報告書 青沢越街道」 山形県教育委員会 1982年
「やまがたの峠」 読売新聞山形支局編 高陽堂書店 1978年