有屋峠

 有屋峠(ありやとうげ)は「みちのくのアルプス」の異名をとる神室連峰を越え、最上郡金山町有屋と秋田県湯沢市の旧雄勝町役内を結ぶ峠である。今の姿からは想像もつかないが、古くは羽前と羽後を分ける重要な峠であり、数々の戦いが繰り広げられたことさえあった。


竜馬山

竜馬山

 「有屋」の名には、「山の入り口」とか「平地が峡谷に変わるところ」といった意味があるという。そのとおり、峠口は金山町の中心部から金山川に沿って山に分け入ったところ、神室ダムの北にある。神室ダム目指して金山の中心部を抜けると程なく、道の北側に竜馬山(りょうばさん)なる低山が見えてくる。まずは峠に向かう前に、竜馬山と峠にまつわる昔話をひとつ紹介しよう。
 峠の歴史は古く、奈良時代にはすでに利用されていたと考えられている。その頃の有屋峠がどういう道だったかは「続日本紀」に詳しい。

 大化の改新(645年)以降、朝廷はみちのくを律令国家に組み入れるべく、積極的な東北経営に乗り出した。当時のみちのくは蝦夷の土地である。朝廷はまずみちのくを「陸奥国」と名付けたこと皮切りに、蝦夷を牽制するために勿来・白河・念珠ヶ関の三関を設置、以降蝦夷の懐柔を進めつつ、「柵」と呼ばれる拠点を徐々に北上させることで勢力を広げていった。和銅5年(712年)には蝦夷との抗争の末出羽国を創設、現在の山形と秋田に匹敵する広大な地域がひとまず朝廷の支配下に入った。そして神亀元年(724年)、陸奥国の国府として宮城に多賀城を築き、天平5年(733年)にはそれまで山形の庄内地方にあった支配拠点出羽柵を、秋田の高清水岡(秋田市高清水付近)に移転させている。
 これによって、多賀城と出羽柵を連絡する道が必要になった。当時多賀城から出羽柵に行くためには、一度奥羽山脈を越えた後、そのまま日本海に出て海沿いに北上しなければならず、非常に手間と時間がかかった。また、一応朝廷の版図とはなっていたものの、出羽国はまだまだ政情不安定で、磐石な支配体制を築いていたとは言い難い。連絡路の確保は、朝廷の東北経営の「生命線」でもあった。
 天平9年(737年)正月、その解決策としてこんな提案をする者がいた。「多賀城と出羽柵との直通路を作るべし。」 時の陸奥出羽按察使(むつでわあぜち)、鎮守府将軍大野東人(おおののあずまびと)だ。

 東人は壬申の乱で活躍した大野果安(おおののはたやす)の子で、板東開拓に功のあった毛野氏(けぬうじ)の出の武将である。按察使とは当時の地方監察官のような役職だ。特に東人は陸奥の国防を司る鎮守府将軍も兼任している。東人は数々の武功を残しているが、中でも多賀城建設をはじめとして、東北経営でその手腕を発揮した。この地方の政治や軍事に関しては、当時の第一人者と言ってもよいだろう。
 その計画とはこれまでの海に出る道に代わり、内陸経由で多賀城と出羽柵を結ぶ道を造るというものだった。途中通ることになる最上と雄勝地方は民情が不安定で、ここを平定することが計画の鍵となる。東人の献策は朝廷に認められ、当時の中央政界の大物藤原麻呂(ふじわらのまろ)による視察を経て、程なく実行に移された。

 同年2月25日に多賀城を発した東人は、3月1日色麻柵(加美町中新田付近)で総勢約6000名にも及ぶ大軍を編成、これを率いて奥羽山脈を越え出羽国大室駅(尾花沢市玉野付近)に到着、出羽守田辺難破(たなべのなにわ)と合流した。この奥羽越えのため東人が作った道が、軽井沢越えだと考えられている。
 大雪によって一時足止めを余儀なくされたものの、雪解けの頃には出直して最上地方を北上、4月4日に軍団は雄勝をにらむ要所、比羅保許山(ひらほこやま)のふもとに陣取った。東人はこのまま峠を越え、雄勝地方に攻めこむつもりだったが、ここで事態は思わぬ展開を見せる。雄勝の蝦夷の村長三人がやってきて、降伏を申し出たのだ。
 これに対し東人は、蝦夷は狡猾で信用ならぬと半信半疑だったが、いたずらな武力介入はかえって不安をあおって逆効果という難波の進言と、大雪ゆえ雄勝での補給がままならないという現状を考慮した末、これ以上の進軍中止を決定、官軍の威を示すだけで軍を引き揚げることにした。
 東人の英断により、官軍蝦夷双方血を流すこともなく雄勝地方は鎮撫された。これを土台として、朝廷は連絡道路の整備を進めていく。そして天平宝字3年(759年)には雄勝柵造営、これと期を同じくして出羽国に新しく雄勝郡と平鹿郡(ひらかぐん)が設けられた。羽前より出羽柵に至る道には玉野・避翼(さるばね)・平戈(ひらほこ)・横河・雄勝・助河の各駅宿が置かれ、南出羽が朝廷の支配下に入った。

 遠征の山場となった比羅保許山とは神室山のことだと考えられているが、これに対し「金山町史」ではアイヌ語で「上下まで岩肌が露わになっている山」を意味する「ピラポキヤン」に由来するとして、比羅保許山を竜馬山だとする説を唱えている。「続日本紀」の記述と実際の地勢には若干食い違いが見られるため、「比羅保許山」がどの山なのかを特定するには至らず、他にも比定地として薬師山や雄勝峠が挙げられることもあるのだが、いずれにせよ比羅保許山が現在の金山町付近にあり、その名にちなんだ平戈駅が金山に作られたことは確かであるとされている。近世以降、金山は街道の宿場町として栄えていくのだが、平戈駅の設置はその基礎である。
 そしてこのとき東人が越えようとした峠、蝦夷の村長がやってきた峠こそが、有屋峠だと言われている。有屋峠は金山と雄勝を隔てる山脈の鞍部にあたる。それゆえ古くから「みちのくのアルプス越え」の道として利用されていたのだろう。それが東人の遠征をきっかけとして官道に組み入れられ、その後永らく羽前と羽後を結ぶ主要道のひとつとして、峠は歴史にその名を刻んでいくのである。


神室ダム

神室ダム

 有屋峠は現在水晶森登山道として、神室山登山道のひとつに組み入れられている。今回紹介するのはその登山道だ。
 竜馬山を北に見やり、さらに山奥を目指すと、やがて神室ダムが見えてくる。治水・流水調整・上水道確保の目的で金山川上流に建設され、平成5年(1993年)に竣工した。峠口はこのダムの北端にあるのだが、周辺の道が整備されているので、そこまでは自動車でも楽々と行ける。

神室ダム丁字路

 ダムの堤体を渡ると丁字路に出る。有屋峠に行くにはここを左折しよう。ちなみに右の方に進むと、神室山登山道では最も人気の高い有屋口がある。ここで道を誤ると峠ではなく神室山に行ってしまうので、峠に行きたいという方は気をつけよう(実際危うく神室山に登りかけました)。


峠口

自然体験広場前

 岸に沿って進んでいくと「自然体験広場」と呼ばれる小さな園地と小さな橋に行き着く。この橋で黒森沢を渡ってすぐのところが峠口だ。車で来られるのはここまで。

水晶森登山道入り口

 これが峠口。舗装の先には薮っぽい道が延びている。

入山ポスト

 峠口には登山計画書を投函する入山ポスト...どんな道が待っているのやら。


黒森沢遡行

薮っぽい峠道

 道は入り口から見たとおり細くて頼りなく、場所によっては少々薮っぽい。峠行の前半は「二股」と呼ばれる場所まで、こんな細道を歩いていくことになる。

状態がいい方の峠道

 細道とはいえ、一応は神室山への登山道として知られた道なので、踏み跡も残っている。

黒森沢

 右手に見えるのが金山川の源流のひとつ黒森沢だ。前半では絶えず瀬音を聞きながら、この沢を遡っていく。


沢渡り

沢渡りその1

 さっそく沢に分断されている箇所に遭遇。黒森沢に流れ込む小さな支流が登山道を横切っている。この程度ならまだ一またぎにできるのでいいのだが...


心細い山道

心細い山道 踏み跡を追う

 道はあいかわらず細く頼りない。心細くなるような道中だが、きちんと踏み跡を追っていこう。

道ばたの大木

 道ばたにある大木。この峠道、あまり人の手が入っていないのか、こんな大木をよく見かける。

踏み跡は続く

 踏み跡に従って森を進む。前半は起伏が少ない分、まだまだ歩きやすい。


丸木橋?

埋もれた丸木の足場

 小さな沢筋を渡る。誰かが掛け渡しただろう丸木はなかば地面に埋もれていた。

並み居る倒木

 行く手を倒木がふさいでいる。道は全体的に荒れ気味で、それゆえ水晶森登山道は上級者向けの道とされている。


湯ノ沢

湯ノ沢徒渉地点

 峠口から20分ほど歩いていくと、大きめの沢が道を横切っていた。この沢も黒森沢に注ぎ込む支流のひとつで、湯ノ沢と呼ばれている。沢の向こうに道があるので、先へ進むためにはここを渡るより他なさそうだ。

湯ノ沢を渡ったところ

 岩を飛び石代わりに湯ノ沢を渡る。道が続いているのを見て一安心。


さらに荒れる路面

荒れる路面

 湯ノ沢を越えると、道はさらに荒れてくる。なかば薮に埋もれた踏み跡を慎重に追う。

崖のような峠道

 崖みたいだが実は道。

さらに奥へと続く道

 心配をよそに道は続く。心許ない踏み跡も、あるだけまだまだ心強い。

押し寄せた倒木

 立ちはだかる流木。倒木の枝が黒森沢に押し流されて、峠道をふさいでいた。

黒森沢に沿って進む

 倒木を踏み越えると、やっぱり先には道が続いていた。黒森沢に並行してさらに進む。


黒森沢徒渉

黒森沢徒渉地点

 並行して進むうち、峠道は黒森沢を越え対岸に移ってしまった。これまでの徒渉地点と違い、今度は黒森沢の本流を渡るので、十分に気をつけよう。

黒森沢を渡ったところ

 無事対岸に渡ると、原生林のような林と羊歯が待っていた。


二股

二股到着

 黒森沢を渡って程なく、またまた沢筋と遭遇。ここが最後の渡渉地点となる「二股」だ。登山口からは歩いて40分ほど。二股は文字どおり二つの沢が合流して黒森沢となる場所で、ここまでが前半となる。これより先に水場はないので、一休みついでに十分水を補給しておこう。

尾根道到着

 二股からはこれまで遡ってきた黒森沢を離れ、二つの沢筋に挟まれた尾根を峠までひたすら上っていくことになる。いよいよ後半の始まりだ。

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