笹立新道

笹立新道跡

 善宝寺と湯野浜を結ぶ道には、他にも笹立新道と呼ばれる道路があった。
 旭峠の整備を皮切りに、湯野浜では交通網の整備が進められた。明治19年(1886年)には加茂隧道が竣工し、同23年(1890年)には湯野浜・加茂間の海岸道が改修され、同29年(1896年)には面野山地区(県道43号線と山形自動車道が交差するあたり)に通じる車道(ここでは人力車や馬車のこと)もできた。
 交通の便がよくなるにしたがい、湯野浜を訪れる観光客の数も増えていったが、交通網の整備はまだ十分ではなかった。改修されたものの旭峠は積もる砂のおかげで歩きづらいという有様で、湯野浜・加茂間の海岸道路は暴風雨でたびたび損壊し、通行止めになることもしばしばだった。
 こうした状況を踏まえて、湯野浜では堅固な車道を待ち望む声が高まっていった。その結果、湯野浜川上流の笹立地区に隧道を掘り、湯野浜と善宝寺を直結する新道建設が決定した。それがこの笹立新道である。
 善宝寺側は現在でもそこそこに道が残っているので、隧道までは歩いて行けるようになっている。


笹立隧道

笹立隧道善宝寺側開口部

 善宝寺側から杉木立の間を15分ほど歩くと道が途切れ、山の中腹に大きく口を開く窟が現れる。これがかつての隧道跡である。
 工事は明治42年(1909年)6月に着工し、翌年3月に竣工した(記念碑では同44年5月竣工)。工事費用は当時の額で約1万3000円、2160人もの人が工事に従事している。道路は全長約2.4キロ、幅約2.7メートル、隧道の長さ約145メートルを誇る、堂々たる新道だった。湯野浜には完成を記念して建てられた記念碑が残っている。

笹立新道開鑿記念碑
湯野浜の笹立新道開鑿記念碑

 新道を使えば、湯野浜と善宝寺の往来にかかる時間は大幅に短縮される。庄内きっての保養地と名刹が結びつき、ゆくゆくは信州善光寺のごとき名所になるのも夢でなし、と大いに期待されが、期待に反して人々はこれを敬遠し、あまり利用されることはなかった。その理由は、隧道が暗くて不気味だったということと、たびたび崩れてきて危ないというものだった。
 安定した交通確保のために作られた隧道だけに、人々が下した評価は皮肉でもある。郡道昇格の要望もあったが叶わなかったようで、期待を背負った隧道は活用されることもなく、やがて廃道と化してしまった。

崩れかけた支保工

 入り口は落石のためほぼ埋もれ、木製の支保工がわずかに頭を覗かせている。崩壊が徐々に進みつつあるようで、支保工が一つ、落石の直撃を受け壊れていた。

笹立隧道内部の様子1

 かつて天井だったすきまから進入し、奥を覗いてみる。手彫りとおぼしき岩肌が、暗闇に妖しくも寂しげな美しさを湛えて浮かぶ。床には行き場を失った水が40〜50センチほど溜まっていた。奥から風が吹き込んでくる気配がなかったので、もしかすると湯野浜側か内部で閉塞してしまっているかもしれない。

笹立隧道内部の様子2

 同じ場所を写真機の長時間露出で撮ってみると、肉眼で見る以上に中の様子がはっきりわかる。取り込み画像では判りづらいが、隧道は入口から数十メートル先の地点で大規模に崩壊しており、相当な高さまで土砂が積もっていた。水が溜まっているのは入口付近だけで、奥の方までは溜まっていない様子だった。

笹立隧道内部から見る外界

 開口部には草が茂り、絶えず水がしたたり落ちている。おそらくはこの草と水が、隧道の風化を促しているのだろう。
 笹立隧道が本格的に廃れるきっかけになったのは、自動車の恒常的通行を可能にした大正11年(1922年)の海岸道路大改修で、さらに海岸道路への通路となる加茂隧道の改修がとどめを刺した。その際、笹立隧道は迂回路として小型自動車や馬車が通れるように応急の整備を施されたが、リヤカーがわずかに通る程度だったという。
 そして昭和15年頃、加茂隧道大改修の竣工を待っていたかのように落盤が起き、笹立隧道は通行不能となった。それでも昭和40年代まで陸地測量部や国土地理院の地形図には隧道が記載されていた。しかし昭和50年(1975年)になると地形図からも姿を消し、以後、新道はおとなう者も少ない山中で、自然に還るのを待つのみとなっている。
 ちなみに地元の方に訊いた話では、湯野浜側は昭和50年頃までは隧道への道が残っていたらしいが、現在は完全に藪に埋もれており、開口部に行くためには、かなりの藪こぎと沢登りを強いられる。


阿部與十郎像

亀屋ホテル前の二代目阿部與十郎像

 阿部與十郎(あべよじゅうろう)は笹立新道の計画を推し進めた人物で、新道は同氏の名を取って「與十郎道」とも呼ばれていた。
 その銅像が湯野浜亀屋ホテル前に立っている。亀屋の二代目であるほか県会議員も務め、湯野浜の発展に尽くした人物として地元で敬われている。笹立新道以外にも、加茂・湯野浜間海岸道路改修、源泉掘削による内湯新設といった業績を残している。


庄内交通湯野浜線跡

善宝寺駅跡の旧車両

 善宝寺と湯野浜を結ぶ道ではもう一つ、庄内交通湯野浜線についても触れておきたい。
 時代が下って大正や昭和になると、それまでの人力車や馬車に代わって、鉄道と自動車が交通の主役になりつつあった。それを受け、湯野浜にも鉄道を敷設しようという声が高まり、関係各位の尽力の結果、昭和4年(1929年)12月、私鉄庄内電鉄湯野浜線が開業した。鶴岡と湯野浜を結ぶ全長12.2キロの小さな鉄道だったが、寄せられた期待は相当なもので、開業日はパレードが町を行き、昼夜にわたって花火が打ち上げられたりと、お祝いでお祭り騒ぎになったようだ。
 後に庄内電鉄は庄内交通の一部となったが、列車は夏になれば湯野浜に向かう海水浴客で賑わい、日常は地元住民の通勤通学、行商のおばちゃんの足として活躍した。電車の利用者は、全盛期の昭和22年(1947年)には、年間約242万8千人を数えている。

元湯野浜線軌道を歩く

 ところが高度経済成長期を経て自家用車の所有があたりまえになるに従い、湯野浜線はかつての勢いを失っていった。戦後、湯野浜周辺の道路は自動車が通れるように続々と改修され、人々は車で湯野浜を訪れるようになった。交通の主役は鉄道から自動車に替わっていたのだ。
 それまで年間190万人程度の利用者があった湯野浜線も、昭和40年代以降は減少の一途をたどり、昭和47年(1972年)には経営悪化により廃止が決定、そして昭和50年(1975年)3月末日、惜しまれつつ、46年の歴史に幕を下ろした。最終年度の年間利用者数は99万2千人。全盛期の半分以下だった。
 現在レールは全て取り取り払われ、その痕跡を追うことも難しいが、善宝寺・湯野浜間の約3.8キロのみは、自転車・歩行者道として整備されている。歩いてみたが、道行く人はまばらだった。

善宝寺駅跡・鉄道博物館 プラットフォームと旧車両

 善宝寺前にある善宝寺駅は鉄道博物館として見学に供されていたが、現在は閉館され、駅舎とプラットフォームをわずかに伺える程度である。プラットフォームには実際に使われていた車両が一両残されており、かすかに往時を偲ばせている。現在は放置されたまま手入れもされていないようで、車体に浮かんだ錆が痛々しい。

湯野浜温泉中心部・足湯とコスパ

 湯野浜温泉街の中心部は広場になっている。ここが湯野浜駅跡。跡地には近年足湯や飲泉所が設けられ、湯野浜の新名所となっている。足湯隣の背の高い建物は「コスパ」。平成4年(1992年)にできた地元振興センターで、庄内交通のバス待合所や銀行、共同浴場、観光協会、会議室などを備えている。
 旭峠の改修以来、湯野浜への交通路は数々のものが整備されたが、それは観光客の増大、人力車・馬車・鉄道・自動車といった交通手段の発達に対応するためのもので、いわば時代の要請との追いかけっこでもあった。旭峠、笹立隧道、湯野浜線は、どれもそれぞれ将来を嘱託されながら、早すぎる時代の流れについて行けず、埋もれてしまった道だったのかもしれない。

(2005年11月/2006年3月/4月取材・同4月記)


案内

交通:鶴岡市下川地区善宝寺と湯野浜地区の間。

所要時間:
貝喰の池から旭峠鞍部まで徒歩約15分。鞍部から湯野浜温泉街まで約10分。善宝寺南駐車場から笹立隧道まで徒歩約15分。コスパから元善宝寺駅まで徒歩約1時間。

特記事項:
笹立隧道崩落の恐れあり。生命に危険が及ぶ可能性があるので、内部への進入は勧めない。国土地理院1/25000地形図「湯野浜」。同1/50000地形図「鶴岡」。

参考サイト:

「野次馬徘徊記」 yosikichiさん
URL:http://yajiuma.at.webry.info/

「山形の廃道」 fukuさん
URL:http://www42.tok2.com/home/ht990/

「山さ行がねが」 ヨッキれんさん
URL:http://yamaiga.com/index.html

参考文献:

「加茂港史」 加茂郷土史編纂委員会 1966年

「湯の里 湯野浜の歴史 −開湯伝説から九〇〇年−」 湯野浜地区住民会 1994年

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