栗子峠は隧道で栗子山を越え、山形県の最南端米沢市と、福島県福島市を結ぶ峠である。
「栗子峠」というよりも、その別名で峠はその名を知られている。三島通庸(みしまみちつね)による屈指の名道「万世大路(ばんせいたいろ)」として。
栗子峠は明治時代、初代山形県令三島通庸によって作られた比較的新しい峠である。今回紹介するのは、その三島通庸の道だ。
江戸時代、米沢と福島を結ぶ道としては、板谷峠が使われていた。板谷峠は米沢藩の参勤交代路でこそあったが、「人一人が横になれば道がふさがってしまう」ほどの隘路であり、さらに冬になれば雪に埋もれてしまうような場所だった。明治の初頭になると、各方面から新しい道を求める声が上がるようになり、それに呼応する形で、栗子峠が伐り拓かれることになる。
峠の入口は米沢のはずれ、刈安地区にある。国道13号線沿い、米沢スキー場手前にある米沢砕石の看板がその目印だ。
峠へ行くには、米沢砕石の敷地内を通ることになる。大型ダンプがひっきりなしに往来するので、邪魔にならないよう気をつけよう。構内は未舗装だがよく整えられており、自動車でも問題なく通れる。そう、このあたりは...
こちらが米沢砕石の事務所。採石場には門限がある。遭難対策を兼ね、峠に出入りする際は必ずここに顔を出して、中の方に一声かけておくこと。それにしても、企業の敷地になってるにもかかわらず、ちゃんと通してくれるあたり、米沢砕石は太っ腹である。
場内は道が入り組んでいる。道を間違うととんでもないところに出てしまうので気をつけよう(実際とんでもないところに出ました)。
一見くず鉄置き場にしか見えないが、ここが旧道への分岐。事務所からほんのちょっと東に進んだところにある。無人雨量観測所の建物が目印だ。
分岐にさしかかるとすぐに橋を渡る。ここに来ればまずは第一関門突破である。
この橋は滝岩上橋と呼ばれている。現在の橋は昭和7年(1932年)に架け替えられた二代目で、親柱にはその時の銘が残っている。
初代は長さ27.3m、幅7.27メートルの優美な眼鏡橋で、奥野忠蔵という石工が手がけている。明治10年(1877年)5月の竣工で、4ヶ月という短期間で完成した。数ある万世大路の建造物ではもっとも初期に作られたもので、山奥にたちまちできあがった近代的な石橋に、地元の人々が目を見張ったと伝わっている。三島にしてみれば、実際に立派な橋を作って見せることで、新道計画に反対する面々を黙らせたいという意図があったようだ。
この橋で栗子川を渡れば、本格的な旧道の始まりだ。
滝岩上橋を渡って先へ進む。このあたりまでは自動車でも楽勝。
数十メートル先には貯水槽か何かの遺構がある。
ところが貯水槽のところでヘアピンカーブを曲がると...
それまでの整った砂利道は途切れ、いきなりドロドロのデコボコ道に変わる。
深い轍が刻まれ、水たまりと化しているところもあった。
季節柄、水たまりには蛙の卵まで。この先どんな道が現れるのやら。
廃道と化しているものの、道自体は非常によく残っているので、跡を追うのに苦労しない。車が通るにはかなり厳しいが、足ならば絶好の山歩き道が続く。特に取材で訪れたのは5月だったので藪も少なく、新緑を眺めながらの楽しい道中となった。
来し方を振り返れば、下の方に米沢砕石の現場が見える。
よく整ったヘアピンカーブ。旧道はいくつもの九十九折りを経て、ゆるやかに栗子山の中腹まで登っていく。
でも廃道だから、こんなところもあたりまえに出現する。流水にえぐられたらしい轍はそのまま法面を削り、下の方まで続いていた。おそらくは埋め戻されることもないのだろう。
本来ならば道をふさいでいるはずの木が、通行に差し支えないよう枝を払われていた。万世大路は廃道としては相当に有名らしい。訪れる好事家の便宜を図ったのか。
ヘアピンカーブが三つ立て続けに現れるあたりに、すぐ沢に下りられる場所がある。ここで水を補充したり顔を洗ったりして、一息入れよう。
沢を過ぎてから、しばらくは穏やかな森の道が続く。
「栗子森歩道」「ここから国有林」という標柱が並んで建っている。道はますます深山へと入っていく。
草に埋もれかけた橋を発見。石造りで相当に古そうだ。
橋を過ぎたあたりから、道が荒れてくる。路面には敷き詰められたように、枯れ草が倒れていた。一冬分の雪の重みでこうなったのだろうが、夏場の様子が思いやられる。
道跡にせりでた灌木。枝をくぐり抜けつつ前進する。
遭難防止のリボンを発見。道のりは次第に厳しさを増してくる。
そして道は残雪に覆われてしまった。踏み抜きや下敷きになった木の反動に気をつけつつ進む。
ふと北を仰ぐと、栗子山が見えた。だいぶ高いところまで登ってきたようだ。