栗子山を間近に望む山腹にもかかわらず、こんなところにも石垣があった。ここが人の作った道である証だが、路上では野生の猿の群れが悠々とくつろいでいた。
登るにつれ、さらに倒木が増えてきた。入り組む枝をかきわけさらに登る。
傍らには流水溝。草木に埋もれつつも、やっぱりここは人の作った道なのだ。
峠に近いところの路面には、雪解け水のおかげで沢ができていた。道はさらに歩きづらくなるが、ここを抜ければ峠は目前だ。
道の果ての広場には、隧道が二つ並んで待っていた。これが万世大路最大の構造物、栗子隧道・栗子山隧道だ。
この隧道を含め万世大路を作った初代山形県令、三島通庸がいかなる人物か、ここで軽く紹介しておこう。
三島通庸は天保6年(1835年)、鹿児島に生まれた。父通純(みちずみ)は薩摩藩に仕える武士である。通庸も長じて薩摩藩士となり、剣術や勉学にいそしんだ。
時は幕末、薩摩藩といえば尊皇派の急先鋒で、倒幕運動の中心となった存在だ。先輩にあたる人物には西郷隆盛、大久保利通、黒田清隆といった維新の志士たちが名を連ねている。薩摩藩の気風はもちろん、彼らとの交流も三島に大きな影響を与えたことは想像に難くない。西郷の知遇を得た三島は、禁門の変や戊辰戦争で兵站(へいたん)を指揮することになったのだが、おそらくはこの経験が、後の「土木県令」につながっているのだろう。
明治2年9月(1869年)、西郷たっての願いで日向国都城(現宮崎県都城市)の地頭(市長にあたる役職)になった三島は、学校建設、道路の整備、産業奨励などの事業をたてつづけに実施し、町作りの才能を遺憾なく発揮した。この実績が認められ、三島は中央政界に招かれることになる。
それから数年、世情は不安定になりつつあった。山形の庄内地方でも、行政の租税を巡り農民がワッパ騒動を起こしていたし、征韓論に敗れ反政府の動きを見せる西郷に呼応して、かつて新政府に反抗した旧庄内藩士が蜂起するのではないかと懸念されていた。これを恐れた大久保は、火種を抱える庄内地方を牽制するため、明治7年(1874年)、酒田県令として当地に三島を派遣した。こうして三島は山形に来ることになったのだ。
大久保が三島を送り込んだのには、もう一つ理由があった。豊かな資源を誇りつつも、当時の東北は中央に比べて遅れた土地で、戊辰戦争の傷跡も癒えていなかった。そこで東北の振興と近代化のため、三島の手腕に期待を寄せたのだ。
ワッパ騒動の解決など、酒田県令として実績を残した三島は、明治9年(1876年)、統一山形県の誕生にともない初代山形県令に任命された。そして山形の近代化のため、様々な政策を次々と実施することになる。その主軸となったのが、道路建設だった。
山形は周囲をことごとく高峰に囲まれているばかりか、県内各地域も山や渓谷によって隔てられている。そのため他国はもちろん県内でさえ、陸路での往来は非常な負担を強いるものだった。日本海西回り航路が栄えていた江戸時代なら、最上川経由で西国の文物を採り入れることができたのでそれでも十分だったのだが、明治になって日本の中心が東京に移り、東京との連絡が重視されるようになると、山だらけの地理は近代的発展に非常に不利なものとして、まさに壁のごとく立ちはだかっていたのだ。
近代的発展の基礎は物流を盛んにすること、そのためには道路建設が必要だという信念の下、三島は猛烈に道路建設を進めていった。関山峠、三崎峠、雄勝峠、宇津峠、磐根新道等々、このときに数多くの道が作られたのだが、中でも栗子峠はその代表と言ってよい。
向かって右にある穴が、その三島が作った明治の道、初代栗子山隧道だ。内部は栗子隧道建設によって閉塞しており通り抜けできないが、完成当時は全長867.6メートルを誇っていた。
当初「苅安新道」と呼ばれた栗子峠の道は、三島の道路計画でもとりわけ重要なものだった。この新道が完成すれば、最上から置賜まで山形を直線的に南北に移動できるようになるばかりか、さらにそのまま関東と往来できるようになる。新道は山形と東京の連絡路となるべき道であり、山形近代化の要だったと言ってもあながち言い過ぎではない。
それだけに建設にあたっては福島との間で何度も協議を重ね、路線についても綿密な検討が繰り返された。その末に導き出された計画は、栗子山の山腹に800メートルもの隧道を穿つというもので、当時としては桁外れの規模を誇るものだった。それゆえ世間では先行きが危ぶまれ、「無理だ」「失敗する」と反対する声も大きかった。
ここが三島の剛胆なところである。黙らせるにはとにかく工事を始めてしまえばよい。明治9年(1876年)12月、国に正式な工事伺いを提出する直前、三島は周囲の反対を押し切り、新道建設に着工してしまった。この強引なやりかたは大いに批判を浴び、三島は「土木県令」とあだ名されることになる。
強引さは三島の特徴みたいなものだ。工事を進めるにしても、地元住民に賦役や費用捻出を強いるのはあたりまえ。突然の徴用や動員も日常茶飯事だった。もし反対すれば法律を傘に厳しく罰せられる。後に福島県令になったときは、反対派を弾圧してまで道路建設を進めて大騒動を起こしたし、栃木県知事になったときには、そのやり口に反対する自由党員に命まで狙われている。ここ苅安新道の工事でも、「寸志夫」と称して地元住民を強制徴用して、一悶着起こしている。
山形では「土木県令」としてその功績が讃えられているが、一方で三島は「自由民権運動の弾圧者」としても、その名を知られている。目的のためには迷わず強引な手段をとり、全く容赦しないその徹底ぶりは、「鬼県令」とあだ名される由縁となった。
三島を風刺する、こんな都々逸が残っている。
人の嘆きを横目に三島(見しま) それで通庸(通用)なるものか
さておき、そんな三島でもさすがに大隧道工事にあたっては慎重になるよう求められたようで、国の指示により隧道着工に先立ち、お雇い外国人の測量技師、オランダのゲオルギ・アルノルド・エッセルの意見を待つことになった。明治10年(1877年)6月、実際に現地を視察したエッセルが計画は申し分ないと太鼓判を押したのを受け、同年7月、いよいよ栗子山隧道工事が始まった。
三島は着工にあたり、「隧道が完成しなければ、ここを自分の墓穴にする!」とまで言っている。歴史的な大隧道か、それとも壮大な墓穴か、苅安新道は、まさに三島が命を懸けて取り組んだ道だったのだ。
隧道入口の壁面には何条もの鑿跡が残っている。この隧道を穿つため、いったい何度鑿が入れられ、何度槌が振り下ろされたのだろう?
現代に比べれば当時の工事技術はたかが知れたもので、多くは人力に頼っていたが、その一方で最新技術も導入された。明治11年(1878年)4月には、アメリカから取り寄せた蒸気式穿坑機が工事に投入されている。機械は発明されたばかりで世界にまだ三台しかなく、当時の価格で一台約1万4000円と非常に高価なものだったが、土工20人相当の働きをする他、使わないときは坑内の換気にも使えるという優れものだった。
かくて工事に邁進すること3年強、明治13年(1880年)10月、大工事の末、ついに隧道が貫通した。その報を受けた三島はさっそく現場に駆けつけ、皆と肩をたたき合って喜び、記念にこんな歌まで詠んでいる。
ぬけたりと 呼ぶ一声に夢さめて 通うもうれし 穴の初風
隧道の内装工事等で待つことさらに一年。明治14年(1881)9月に新道全線が竣工した。歴史的大工事だったにもかかわらず、隧道工事では一人の死者も出ていない。そして同年10月3日、東北ご巡幸中の明治天皇を迎えて華々しく開通式が開かれた。
このご巡幸には、数々の近代化事業で生まれ変わった山形県のお披露目という意味もあり、新道開通式はそれを最も象徴する出来事となった。「穴の初風」は、山形に新しい時代の訪れを告げる、一陣の風だったに違いない。
翌明治15年(1882年)、明治天皇は新道に新しい名前を授けるという勅を下した。その名は「書経」大禹謨(だいうぼ)の一節、「萬世永頼時乃功(ばんせいえいらいこれなんじのこう)」にちなむもので、「いつまでも人々の役に立つ偉大な道」という意味が込められていた。それが「万世大路」である。
万世大路は馬車でも通行可能で、従来の板谷峠に比べて格段に通りやすくなっていた。開通直後の明治14年11月の記録によれば通行者は一日あたり70〜120人。人力車や荷車、駄馬も毎日のように往来していた。沿線には輸送を請け負う業者や人足が集まり集落ができ、通行や運送に便宜を図っていた。実際、この隧道前にも宿が建てられ、道行く人々が利用したという。
明治18年(1885年)には国道39号線に指定された。国道はその後5号線、13号線と番号を変えたが、三島のもくろみどおり、万世大路は文物を運ぶ主要道として活躍することになったのだ。
隧道の右手は沢になっている。旧い記録によれば、かつてこの上に上杉鷹山公と大久保利通を祀る祠が建てられ、道行く人々を見守っていた。鷹山公は米沢藩中興の祖と仰がれる名君だ。新道建設にあたっては、旧米沢藩士が多大な協力を寄せている。大久保利通は、盟友として三島に様々な助力をしたのだが、明治11年(1878年)に暗殺され、新道の完成を見ることなく非業の死を遂げている。
祠は失われて既に久しいが、代わりに建てられた碑が現存している。こちらは現在国道13号線沿いに移設され、今も国道を見守っている。
左にあるのが栗子隧道で、昭和初期に栗子山隧道を改修して作られた。同じ隧道を改修したにもかかわらず坑門が二つ並んでいるのは、雪が坑内に吹き込むのを避ける都合上、栗子山隧道が若干曲折して作られたことに由来する。
内部は崩壊が進んでいる。奥の方で完全に閉塞しており、残念ながらこちらも通り抜けはできない。
峠の周辺には、万世大路にまつわる記念碑がいくつかある。中でもこの碑は開通翌年の明治15年(1882年)に建てられたもので、峠の記念碑の中では最も古いものである。碑文には新道開削の顛末が記され、その偉業を讃えている。
もとは栗子山隧道の前にあったのだが、現在の国道開通にともない、板谷の福島河川国道事務所栗子国道維持出張所構内に移設されている。容易に見学可能だが、全て旧字体の漢文で書かれているため、読むのは一苦労。