旧い隧道が通れないため、反対側へは改めて福島側から登っていく必要がある。国道13号線東栗子トンネル東口脇、登り車線側の広場から伸びる細道が、万世大路福島側への入口だ。
「大路」とは思えない急な細道が続く。それもそのはず、この区間は作業道路として後年新しく作られたものなので、厳密には万世大路ではない。二輪車ならまだしも、自動車で上るのは一苦労。
細道を上ってあるカーブにさしかかると、急に道幅が広くなった。ここが万世大路との合流地点。東側が藪に埋もれているためわかりづらいが、よく見ると丁字路になっていることがわかる。
合流地点の直後には広々とした切り通しがある。ここからいよいよ福島側万世大路を追っていくことになる。
山形側とはうってかわって福島側は非常に状態が良く、自動車でだいぶ奥まで行くことさえできる。
ここにも古い石積みがあった。今でもこれくらい残っているのだから、万世大路は相当に堅固な道である。
やがて目の前に味わいのある隧道が現れた。万世大路第二の規模を誇る建造物、二ツ小屋隧道だ。その洞門の佇まいは、時に万世大路でもっとも美しい建造物と評される。
万世大路福島側は「中野新道」と呼ばれている。こちらは明治10年(1877年)5月に工事指令が出され、漸次工事が進められていった。二ツ小屋隧道は同年10月に着工している。
当初、中野新道は1年ほどで完成する予定だったのだが、工事は相当に難航したようだ。二ツ小屋隧道では工事中に落盤が起き、これに対処するため鉄道局に人をやって工法の勉強までさせている。
隧道が開通したのは着工から3年経った明治13年(1880年)10月のことで、栗子山隧道の貫通とほぼ同じだった。二ツ小屋隧道の全長が約350メートルと、栗子山隧道の半分以下であることを考えると、かなりの難工事だったことがうかがえる。一人の死者も出なかった栗子隧道とはうってかわって、中野新道では4人の犠牲者が出た。
現在の隧道は昭和初期に改修されたもので、扁額には「昭和九年三月竣工」とそのときの日時が刻まれている。
隧道入口の右手、石段の上にある猫の額ほどの平場には、明治天皇の駐輦(ちゅうれん)を記念する碑が建っている。史料によれば、当時ここには県の土木出張所があって、そこで休憩を取られたそうだ。
隧道は自動車でも通行できるが、中にはこんなに土砂が崩れている場所もある。
二ツ小屋隧道名物、出口のすぐ近くにある「滝」。その正体は巻立コンクリートが破れてできた穴に隧道の上にある沢水が流れ込み、隧道内に落っこちたもの。
隧道に登って上から見るとこんな具合。荒井が取材で訪れたとき(2006年6月)、穴にはふたつばかりコンクリートの塊が引っかかっていたのだが、翌年来てみると一つ落っこちたらしく、穴が少し広がっていた。
出口には重そうなコンクリート塊が転がっている。
ご覧のとおり二ツ小屋隧道は相当脆い地盤に作られているようで、手が入れられなくなって以来、随所で崩壊が進んでいる。現在でこそまだ通れるが、近い将来、崩落によって閉塞するのではと囁かれている。
隧道を抜けると残雪がお出迎え。日陰の所だけ雪が解け残ったらしい。
隧道を出て程なく、ぼろぼろになった橋が現れた。道はこの橋を渡り、さらに先へと続いている。
橋はかなり老朽化が進んでいる。欄干のコンクリートは崩れ落ち、中の鉄骨がむき出しになっていた。
橋には烏川橋という名前があるのだが、親柱の銘板は失われていた。
橋を渡ったたもとには、山菜採りか魚釣りか、いくつか車が停まっていた。このあたりまではまだまだ往来があるようだ。
下から見るとこんな具合。結構高さがある。原形をとどめない欄干とは対照的な、立派な橋脚が印象に残る。
橋を渡ったあたりから、次第に道が悪くなってくる。ガレているばかりか小さな沢までできている。
切り通しには灌木が。繁りだしたらどうなることやら。
ぬかるみには真新しいタイヤの跡が残っていた。悪路とはいえ自動車でなんとか突破できる分、山形側に比べればまだまだ状態はいい。
途中にはこんな看板も立っていた。紙の材料となる木材を得るためか、製紙会社がこの辺の林を所有している模様。
派手にひびの入った路肩に遭遇。大雨でも降れば崩壊してしまうかもしれない。
同じところから南の方を見る。悪路とは裏腹にこんな風景が広がっていた。
すっぱりと切断された木を発見。なんだかんだで今でも道には人の手が入っている。
東栗子トンネル登り口から山に分け入ること6キロ。広場のようなところで道は藪に埋もれてしまった。車で進入できるのはここまで。
ここにはかつて大平(おおだいら)という集落があり、万世大路を経由する陸運の拠点の一つとなっていた。旧道の衰退によって廃村と化し、広場が残るのみとなっている。
広場の片隅から心細げに踏み跡が伸びている。ここからは車を降り、この藪道を歩いて隧道まで向かうことになる。