大平を抜けると、踏み跡は間もなく堤防の上のようなところを渡る。もともとはきちんとした道路だったが、右手の沢が土を削り取ったおかげで道が痩せ、このようになってしまったものらしい。車道が途絶えてしまったのは、この沢による浸食のためなのだろう。
左手を見る。藪に埋もれているが、法面まではだいぶ距離があるのがわかる。往時はあのあたりにも建物があったのだろう。
やがてコンクリート製の橋が現れた。藪の中から突然現れるので非常に驚く。この橋は大平橋。万世大路ではよく知られた構造物の一つだ。
土砂崩れでもあったのか、橋の左手の斜面にはえぐれた跡がくっきり残っていた。福島側の道も、いよいよ深山へと入っていく。
一応自動車で乗り入れできた大平までとは裏腹に、そこから先は廃道化がかなり進んでいる。足下には沢、頭上には灌木のトンネルができていた。
こんなところにも蛙の卵。三島が見たらどう思うやら。
地形から元の道路は相当に広かったことがうかがえるのだが、そこも今や灌木の藪が立ちはだかる。毎度ながらどうやってくぐり抜けろと。
こんなところであっても、片隅にはコンクリート製の暗渠が残っていたりする。
藪の中を進むうち、藪の中から再びコンクリート製の橋が現れた。こちらは杭甲橋(きこうばし)と呼ばれている。ここまで来れば、隧道まではもう一踏ん張り。
すぐそばには滝がある。まだまだ厚い残雪に隠され、全体は見えなかった。
橋を渡りまた藪の中へ。車で来るには困難な場所なのに、なぜか古タイヤが一本放置されていた。どこの誰が何のために置いたのかは謎のまま。
そしてとうとう道は残雪に埋もれてしまった。もっとも、藪が茂っているよりは遙かに歩きやすいけれど。
石垣を見ながらさらに登る。道は細かな九十九折りを繰り返しつつ、隧道まで続く。
隧道にだいぶ近づいた頃、左手に古びた橋台があるのを見つけた。明治期に作られた道はもともとそちらで沢を通っていたのだが、昭和初期の改修時に道を付け替えた際、放棄されたものらしい。
件の橋台たもとから本道を眺めた図。石造りの橋台の他、本道下に暗渠があるのが見える。
大平から藪道を歩くこと約一時間、ついに福島側からも隧道に到着。広々として開放的な山形側に対し、狭い山谷の奥にどっしりと構える様は重厚さを感じさせる。
「万世にわたり役立つ道路」も、時代が下って昭和になると、いささか時代遅れになっていた。明治初期の水準で造られただけに、道は狭くて急で曲がりくねり、しかも冬には深い雪に閉ざされる。特に明治の中頃、板谷峠に鉄道奥羽本線が開通して貨物がそちらに流れると、大量輸送に向かない栗子峠の利用が大きく落ち込み、万世大路で輸送に携わっていた多くの人々が、職を失うことになったという。
昭和になると交通の主役は自動車に替わり、要路万世大路も時代に応じた変化を迫られていた。かくして昭和8年(1933年)、内務省の主導により万世大路の大改修が始まった。
改修の目的は、従来の車馬に代わり自動車交通に対応することだった。道路の付け替えはもちろん、自動車通行に耐えうるよう橋は架け直され、隧道も拡張工事や補強工事が施された。現在万世大路に残る構造物の多くは、この時に一新されたものである。若干曲折していた栗子山隧道も直線状に作り直され、栗子隧道として生まれ変わっている。そのおかげで福島側が一つなのに対し、山形側に坑口が二つ並ぶことになったのは先述したとおりである。
昭和になって技術こそ進歩したものの、大改修も相当な難工事だったようで、実際の現場作業はもちろん、工夫の確保から資材運搬、福利厚生に至るまで悪戦苦闘したという逸話が様々に伝わっている。昭和の大改修での死傷者数は死者4名を含め、193名にも及んだ。資材を運ぶために設けられたトロッコ軌道跡が山中に残っているということも、廃道マニアはによく知られている。
例によって扁額は右から左に向かって読む。昭和10(1935年)年3月に竣工したようだ。
万世大路全体の大改修は昭和12年(1937年)に竣工している。山形県の道路にはこの時期に大改修を受けたものが多いが、それは当時の昭和大恐慌の失業対策として企画されたものでもあったらしい。
大改修によって、米沢福島間を二時間半で移動できるようになったが、この数字はスイッチバックを繰り返す板谷峠の鉄道より30分早かった。息を吹き返した万世大路は、再び物流の道として活躍することになる。
入り口付近は水たまりになっていた。ここを越えてさらに奥に進めば閉塞地点がある。史料によれば隧道が閉塞したのは昭和47年(1972年)頃、現役を退いて数年後のことだった。
峠を下りて山形県側の米沢市川越石地区、国道13号線の登り車線側には、万世大路にまつわる記念碑を集めた公園がある。公園自体は平成2年(1990年)にチェーン着脱所として設けられた。
ひときわ大きな碑は万世大路改修記念碑。昭和の大改修を記念して建てられた。
「栗子神社」と刻まれてあるのは、先述した祠の代わりに建てられた碑だ。昭和の大改修時、朽ちつつあった祠を取り壊す代わり、跡地直下にこの碑が建てられている。
ほかには明治天皇の御駐輦を記念した碑もある。どの記念碑も元は旧道にあったものだが、現道建設時に一度旧道入り口に移転された後、公園建設に伴い当地に移設された。明治天皇が現在の国道13号線を通るなら、この公園で一息つくんだろうか。
傍らのレリーフは、栗子山隧道に穿たれた鑿跡の複製だ。藪こぎがイヤだという方は、現物の代わりにこれを見よう。
現代の国道13号線は、西栗子トンネルと東栗子トンネルの二本のトンネルで栗子峠を越えている。全長は西栗子トンネルが2675mで東栗子トンネルが2376m。
昭和初期の大改修によって一応自動車こそ通れるようにはなっていたが、基本が明治の道であるため急峻なことに違いはなく、冬になれば数ヶ月に及ぶ通行止めを余儀なくされた。しかも太平洋戦争のおかげで十分な管理もされなかったため、荒廃も進んでいた。折しも時代は戦後の高度経済成長期、自動車輸送はますます盛んになっていたが、万世大路は自動車輸送の難所となっていた。もはや従来の道では、増大した自動車交通を支えきれなくなっていたのだ。
かくて万世大路はさらなる変化を迫られ、大量輸送に耐えうる現代的な道として、栗子峠に新しい道が造られることになった。それが二本の栗子トンネルを含む、現在の国道である。
路線選定に当たっては、地形、地質、天候、交通量、距離はもちろん、山形県土全体の将来を見据え、慎重かつ綿密な検討が重ねられた。他にも笹谷峠や二井宿峠が候補に挙がっていたが、結局は栗子峠に決定している。その決め手となったのは、栗子峠が山形縦貫国道南の要であり、関東方面への出入り口になっていることだったのだが、思えばそれこそが、この地に万世大路が生まれた理由だったのだ。
新しい道路は冬でも通れることを考慮して、旧道よりも300メートル近く低い標高600メートル地点が選ばれた。計画の鍵となる新しいトンネルも検討の末、東西二本の長大トンネル建設が決まった。
両トンネルは昭和38年(1963年)に着工し、翌昭和39年(1964年)夏貫通、昭和41年(1966年)春竣工、そして同年6月に開通している。新しい国道は「栗子ハイウェイ」と呼ばれ、山形屈指の要路として現在も活躍中である。大小とりどりの自動車の往来が絶えることはなく、ラジオの交通情報でも東栗子トンネル・西栗子トンネルの名を聞かない日はない。
開通によって明治期以来の道は廃道になったが、万世大路の名は「栗子ハイウェイ」に受け継がれ、栗子越えの別名として現在も使われている。そのため「栗子ハイウェイ」と区別する意味で、特に明治期の旧道を指す場合には「萬世大路」の字を使うこともある。廃道化したものの、その文化的価値や歴史的意義の高さ、そして何よりその風格ゆえ「萬世大路」を愛する者は多く、かけがえのない近代の歴史遺構として、道はその評価を高めつつある。
工事には最新技術の数々が投入されたが、当時有数規模の大事業には、やはり困難が伴った。新道の建設では19名の犠牲者が出ている他、湧水や落盤に悩まされたという話も伝わっている。
先出の福島河川国道事務所栗子国道維持出張所構内、栗子隧道碑の隣には、栗子ハイウェイ建設の犠牲者を弔う慰霊碑が建っている。慰霊碑のデザインや寸法は、新道にまつわる数字によって決められた。
西栗子トンネルの山形側入り口脇には、新道建設を熱心に支援した地元の篤志家、星忠榮氏の功績を称える碑が建っている。いつでも誰もが容易に通れる新道を特に待ち望んだのは、沿線となる地元置賜の人々だった。
峠を離れて米沢側、市街地に近い桑山地区には、万歳の松と呼ばれる老松が植わっている。明治天皇がご巡幸のみぎり、苅安新道開通式の前に当地で休憩されたことを記念して、明治22年(1889年)、地元有志によって植えられた。根元にはそのいきさつを記した碑が建っている。
其の名ゆかしき萬世の 郷に生まれて今此処に
教を受くる我が友よ つゆな忘れそ此の庭をいにし明治の十四年 十月三日の駐輦を
仰ぎ奉りし御跡にて いともたふたき庭なるぞ御跡に植ゑし記念松 愈々高く天を摩し
いはれを伝う石碑は 千代萬代にくちはせじ
明治34年(1891年)、ここに万世小学校が建てられたが、その校歌にもご巡幸や松のいわれが歌われている。現在小学校はよそに移転したため建物は残っていないが、かわりに数々の記念碑が松とともに残っている。
明治天皇が訪れたばかりか、新しい道路に名前まで賜ったことは地元にとって大変な名誉であり、新時代を感じさせる大事件だったに違いない。老松や万世小学校校歌はもちろん、この界隈が「万世町」の地名を名乗っていることにも、十分それがうかがえる。
平成14年(2002年)より、栗子峠では三つ目となる峠越え道路の建設が進められている。今度の道は高速交通への対応を見据えたもので、東北中央自動車道の一部となることが決まっている。新しい道路が完成すれば、9キロもの長大トンネルで峠を越えることになる。
栗子峠はそれぞれの時代で姿を変え、山形にその時々の風を運んできた。三代目となる21世紀の万世大路には、どんな「初風」が通るのだろう。
(2006年5月・6月/2007年10月取材・2007年10月記)
場所:山形県米沢市と福島県福島市の間。県境。国道13号線およびその旧道。栗子隧道標高889m。大分水嶺。
所要時間:
旧道山形側滝岩上橋から栗子隧道まで徒歩約2時間。同じく福島側東栗子トンネル東口から大平集落跡まで自動車で約30分。大平集落跡から栗子隧道まで徒歩約1時間。
特記事項:
山形側から峠に行く場合は、米沢砕石の敷地を通ることになる。営業時間中に行くのなら事務所に一声かけること。滝岩上橋より先に自動車で乗り入れるのは無謀で、隧道に近づくほど道が悪くなる。
福島側は小型のオフ車なら大平集落跡まで一応乗り入れ可能だが、厳しい悪路が続く。特に烏川橋以降は道が細く急になり、身動きがとれなくなる恐れがあるので、それより先に四輪車で乗り入れることは勧めない。
夏場は藪に覆われる箇所もある。峠周辺には猿や熊、鹿といった野生動物が生息しているので、通行の際は気をつけること。栗子山隧道および栗子隧道通り抜け不可。崩落の恐れがあるので内部への進入は勧めない。二ツ小屋隧道も崩落の恐れが高い。知名度こそ高いが、行くのであれば旧道が廃道であることを肝に銘じ、十分に用意を調えておくこと。国土地理院1/25000地形図「米沢東部」「栗子山」。同1/50000地形図「米沢」「関」。
「栗子峠にみる道づくりの歴史」 吉越治雄 社団法人東北建設協会 1999年
「三島通庸と高橋由一に見る東北の道路今昔」 建設省東北地方建設局 1989年
「やまがた地名伝説 第三巻」 山形新聞社編 山形新聞社 2006年
探索時にお世話になった信夫山様にこの場を借りてお礼申し上げます。