最上郡と北村山郡をつなぐ道は数あれど、ほとんどは国道か主要地方道である。その中でただひとつ、尾花沢市萩袋と舟形町長尾を結ぶ県道318号新庄長沢尾花沢線はただの県道となっている。福舟峠はその県道318号線の山奥にある。
尾花沢市萩袋地区から県道318号線を4キロほど奥に走ると、南沢地区に着く。
え〜んどごだなぁ〜南沢 緑と笑顔のユートピア
集落の入口では手作りの看板がお出迎え。でかでかと「南沢」と書かれているので、ここがどこかは一発だ。
道は集落入口の稲荷神社から延びている。神社手前の分岐を左に曲がろう。
入るなり分岐が現れる。左の下り道が峠につながる県道だ...って、本当に県道なのか?
こっちでいいのかと心配しつつ進んでいくと、右手に立派な湯殿山碑と小さなお地蔵さんが現れた。やっぱりこっちでいいらしい。
湯殿山は、月山・羽黒山と並ぶ出羽三山の一つである。古来霊地として広く人々の崇敬を集め、湯殿山を信仰する人々による集まりも各地で作られた。これが「湯殿山講」だ。
湯殿山碑は湯殿山講の人々によって建てられた碑である。講で湯殿山詣でに行った記念に、あるいは登拝する代わりに建てられることが多かった。山形県は出羽三山のお膝元だけあって、湯殿山碑は県内一円で見ることができる。ちなみにこの碑は昭和33年に建てられたものだった。
お地蔵さんの隣では、象頭山碑が藪に埋もれていた。こちらは交通安全・商売繁盛を祈願するもののようだ。
湯殿山碑から少し進むと、赤い三角屋根の小屋が現れる。どうやら営林署の建物らしいが、現在も使われているかどうかは判らない。道はこの小屋の前で180度のヘアピンを描き、峠へと続いている。
左右に小さな畑を見ながら先へ進む。このあたりはまだ南沢の集落に近い。
畑を過ぎると、続けざまにカーブが現れる。一応カーブミラーもあるが、どれもくもってよく見えない。急な上林で見通しが利かず、しかも道幅が狭いので、通行には十分注意しよう。
カーブ地帯を抜けると林が切れ、水田が現れた。こんな奥でも米が作られているということに、ある種の感動を覚えてしまう。
水田を抜けると、また分岐が現れる。今度は右側が県道だ。南沢から入った場合、途中でこうした小さな分岐がいくつかあるのだが、基本的には広い方を道なりに進めば峠にたどり着ける。
さらに進むと、今度はコンクリートで固められた法面とガードレールが現れた。山奥とはいえ、峠にはあれこれ人の手が入っている。
かつて尾花沢側の大部分は砂利道だったが、2003年頃に舗装化され、未舗装区間は残っていない。ただし飽くまで簡易舗装に過ぎないので、ところどころ穴が開いていたり、砂利が浮いていたりする。単車や自転車で走る場合、油断するとすぐすっ転ぶからご用心。
県道は小さな橋でおそみや川という小川を渡る。水は意外に澄んでいた。下流で名木沢川と合流し、最上川に注いでいる。
ずいぶん山奥なのに電柱がある。電線はさらに峠の方へと延びている。
突如として山奥らしからぬ、新しく立派な建物が現れた。いったい何のために?
謎の施設に続き、今度は石積みの旧い遺構が現れた。年を経た人工物は一見古代遺跡にしか見えない。これぞ福舟峠の歴史を飾る、福舟鉱山の跡だ。
江戸時代、最上藩によって採掘が始まったという説もあるが、史料は残っておらず、鉱山の始まりは詳らかでない。明らかになっているのは、近代的な採掘が始まってからのことだけだ。
昭和13年(1938年)、森通久による探鉱の結果、かの地で銅・亜鉛の鉱体が発見された。当時は日本が戦争に向かっていた時期で、資源の増産は国家の急務となっていた。福舟鉱山の探鉱もその時流と無関係ではないだろう。発見後間もなく本格的な採掘が始められた。開山当初は100人を超える人数がこの山奥で採掘に従事していたというが、10人足らずの従業員で小規模に経営されていたとする史料もある。
昭和17年(1942年)には三菱金属鉱業も経営に参加し、さらなる鉱脈を求めて探鉱が続けられた。ところが戦争の影響か、昭和19年(1944年)に一度休山してしまう。
鉱山に活気が戻ってきたのは、終戦後だった。昭和23年(1948年)に森氏によって探鉱が再開され、翌24年(1949年)に採掘が再開された。昭和29年(1954)には新しい選鉱施設が導入され、生産性も格段に向上した。翌昭和30年(1955年)には福舟鉱山株式会社が設立され、昭和39年(1964年)には尾富鉱業が共同鉱業権に加入している。昭和30年代、鉱山からは年に1000tないし2000tの銅精鉱が産出されたようだ。この頃が鉱山の全盛期である。
しかし、その繁栄も長くは続かなかった。濫掘によって埋蔵量は枯渇しつつあった。昭和41年(1966年)には探鉱を優先し、計画的に採掘する方針が打ち出されたが、鉱況は改善を見なかった。翌昭和42年(1967年)には福舟鉱山株式会社が撤退し、人員も大幅に縮小されることになった。
有力な新鉱床は発見されないまま、間もなく採掘が打ち切られた。鉱滓や鉱山廃水などから銅を取り出す沈殿銅採取のみが細々と続けられたが、昭和47年(1972年)10月、銅の値下がりを受けそれも終了する。そして昭和51年(1976年)1月、尾富鉱業が鉱業権を放棄し、福舟鉱山はその歴史に終止符を打った。
採掘は終了したが、鉱山跡ではその後長年にわたって鉱害防止措置がとられた。電柱はそのために残されているものと思われる。1999年頃には、発破を伴う大規模な鉱害対策工事が施工されている。先ほどの謎の施設は中和処理場。2004年5月に訪れた時は存在していなかったので、それ以降に建てられたことは確実だ。
昭和35年(1960年)、おそみや川流域で、福舟鉱山を原因とする鉱毒被害が問題化している。これを受け昭和43年(1968年)、鉱害防止のため当地に濾過沈殿設備が設けられ、以来被害防止のために監視が続けられているのだという。
そのためか、現在も鉱山跡には何人か人が詰めているようだ。そう大きくない鉱山であるにもかかわらず、閉山から三十余年を経てもなお、人の手を要するということは、福舟鉱山は相当な鉱毒を秘めているのだろう。
2002年5月当時の福舟鉱山跡。かつてはこれぐらい遺構が残っていた。
巨大な遺構は、かつてこの周辺が鉱業で栄えていた頃の夢の跡である。しかし近年多くが取り壊され、いくつかの石積みが残るのみとなってしまった。鉱山の記憶は、時とともに風化しつつある。