のどかなその名前のとおり、鳩峰峠は牧歌的な風景が売りの峠だ。峠は古くから「まほろばの里」と「福島の奥座敷」を結び、穏やかに見守ってきた。
峠は現在国道399号線の指定を受けている。今回紹介するのは高畠町から宮城県七ヶ宿町稲子を経て福島県福島市茂庭に至る、国道399号線峠越え区間だ。
同国道は福島県いわき市と高畠町を結んでいるが、ダラダラとした田舎道が続く国道として、その手のマニアには「酷道」として知られている。そのためか高畠町には「国道399号線を改修しよう!」なんて動きもあるようだ。
峠へは高畠町の中心部糠野目地区から登っていく。国道に従って町はずれにさしかかると、峠の案内標識が目立ってくる。峠は町の名所の一つなので、それなりに出入りがある。このあたりには峠の状況を示した看板が出ていることも多いので、注目しておこう。
町外れからは直線的な道が続く。杉林を眺めつつ峠口に近づく。
通行止めゲートに到着。本格的な峠道はここから始まる。山形の多くの峠の例に漏れず、冬期間や荒天時には通行止めとなる。
鳩峰峠も九十九折りが多い。道は幾重にも折りたたまれ、鞍部まで30近いヘアピンカーブが現れる。幅は狭くて見通しも悪い。けっこう車が走っているので、十分気をつけながら登っていこう。
道端にはこんなえげつない標識も。
あるカーブで砂防ダムを発見。ダムは峠を源流とする下有無川に設けられたもの。道はこの下有無川が作る谷を登って鞍部を目指す。このダムを過ぎると、そろそろ中腹にさしかかる。
中腹は比較的ゆるいカーブが続く。しかし気が抜けない道であることに変わりは無い。
コンパクトに折りたたまれた峠道。見るからに急そうだ。
ゆるゆると曲がりつつ先を目指す。
前方の山肌に、折りたたまれた峠道が刻まれているのが見える。あのあたりが峠のてっぺん。
鞍部が近づくと、鋭いヘアピンカーブが続けざまに現れる。
狭隘路をゆく途中、思い出したように現れた国道399号線のおにぎり。ここはれっきとした国道なのだ。
だいぶ上まで登ってきた。林が切れたところから、峠の谷越しに置賜盆地が見える。
さっき見上げた鞍部はもう間近。ここまで来ればもうひと息。
最後のヘアピンカーブ手前にさしかかる。ここを登りきればてっぺんだ。
険しい登り道の末鞍部に到着。峠は山形と福島の県境となっている。「うつくしま、福島。」の案内標識と、法面に設けられた山形県章が出迎えてくれる。鞍部のところは道が広くなっていて、車が数台停められるようになっている。
鞍部には小高い丘があり、ここから見る置賜盆地の展望が素晴らしい。鳩峰峠は置賜の展望台として有名で、「東北の十国峠」と称されることもあるそうな。峠の周辺は山形の県南自然公園に指定されている。
丘から北を見れば、龍ヶ岳がどっしりと据わっている。別名「鳩峰山」で、これが峠の名のゆえんとなっている。
鳩峰峠は北にある二井宿峠の間道として、同じくらい古くから利用されていたと考えられている。地形図によれば現在の道筋は、大正時代にはすで存在していた。昭和29年(1954年)主要地方道福島赤湯線に指定され、昭和30年(1955年)に山形側の県道が完成している。国道に昇格したのは昭和57年(1982年)のことである。
むくどりの夢のかあさん白い鳥 さめて見るかれ葉の上の白い雪 古稀ひろすけ
鞍部には二つ石碑がある。ひとつは「むくどりの碑」こと、浜田廣介の詩碑だ。
廣介は高畠町が輩出した童話作家である。大正時代から昭和にかけ、「泣いた赤鬼」等々、数々の名作をものにした。その詩情あふれ人生の機微をとらえた作品群は「ひろすけ童話」として今も多くの人々に親しまれている。
碑文は廣介の代表作のひとつ「むくどりの夢」にちなんだ詩である。廣介生誕70年を記念して昭和39年(1964年)5月、故郷高畠を見おろす当地に建てられたもので、意外と昔からここにある。「鳩」の峰なのに「むくどり」の碑があるのはそういうわけだ。休日などは誰かしら前に立って記念撮影していたりする、峠の人気スポットとなっている。
むくどりの碑から見る鞍部の様子。鞍部周辺は絶好の景勝地だ。
小川流れど山は荒れ 冬来たれば糧はなし
ひとの社会の領域あれど 食なければ徳も危うし
いま森の復活を喜び 永遠の共生を
この碑に刻む
もう一つの石碑は、峠で営まれていた牛の放牧事業を記念して建てられたものである。こちらは平成18年(2006年)に建てられたもので、丘のふもとにある。
丘の周辺には高原状の草地が広がる。ここにはかつて鳩峰牧場という牧場があり、戦後から平成にかけ、牛の放牧が営まれていた。
丘の上から福島側を見る。目に見える一帯が牧場となっていた。管理棟があったのは鉄塔があるあたり。往時には売店や食堂も併設されていたらしく、乳製品を買ったりジンギスカンを食うこともできたそうだ。
山形県内でも高畠では、早くから酪農が盛んに営まれてきた。その歴史は明治15年(1882年)、町内に牛乳屋が開業したことに始まる。高畠町は「おしどりミルクケーキ」で県民になじみの深い日本製乳の拠点だが、それにはこんな理由があるわけだ。
昭和の終戦直後、町内酪農家の間で共同放牧場の開設を望む声が高まった。それを承けて置賜酪農業協同組合は鳩峰峠の国有林に着目し、そこに牧場を作ることを計画した。昭和24年(1949年)、福島営林署に林野の借り入れを申請、翌25年(1950年)9月に許可が下りると、同年10月3日にさっそく着工、10月27日に草木の苅り払いや道路開設、牛舎建設等々、約40ヘクタールの敷地の半分ほどの整備が終わり、放牧準備が整った。
そして一冬が開けた26年(1951年)6月、待望の放牧が始まる。6月に牛を放し、10月に里に戻す夏山冬里式で、放牧されたのは生後6ヶ月以上の若牛21頭。1頭が毒草を食べて死ぬという出来事もあったが、それ以外の経過はおおむね良好で、初年から好成果を収めた。
その後草地改良や土壌改善、植栽等々の整備が続けられ、昭和27年(1952年)には24頭、翌28年(1953年)は33頭と、放牧の規模は拡大していった。昭和30年代はじめには県道完成に伴い電気牧柵を導入し、昭和40年代には管理棟や牛舎を改築している。その頃になると、年50頭以上を放牧していた。
しかし平成6年(1994年)に牧場は閉鎖され、敷地は営林署に返還された。当時の建物は残っていない。現在は有志による植林が進められている。
鞍部から福島側に下る。福島側も全線舗装路である。鳩峰峠は大分水嶺でもあり、峠を境に日本海側の最上川水系から、太平洋側の阿武隈川水系に変わる。
ところどころには土嚢が積まれてある。線形ゆえに土砂災害には弱そうだ。実際過去に崩れたのを対策したのか、新しいフェンスができている場所もあった。
九十九折りの山形側とは打ってかわって、福島側は長大なカーブで緩やかに下っていく。西側が急で東側が緩やかなのは奥羽山脈の峠の特徴だが、それはここ鳩峰峠も同じである。
福島側に下るうち、今度は宮城県の看板が現れた。ここから5キロ強ほどの区間は宮城県となる。
国道は一部宮城県七ヶ宿町を通過している。むしろ道の一部に宮城県が割り込んでいると言った方が的確だ。
県境を越え宮城側を少し走ると、小さな集落が見えてくる。ここが峠区間唯一の集落、七ヶ宿町稲子(いねご)地区である。入口の看板には「仙台藩山守足軽村」の文字がある。
江戸時代、このあたりは仙台藩の領地だった。稲子は仙台藩南西の果てにあたり、足軽がここに移り住み、国境や山林の警備にあたっていた。四周を山に囲まれたすり鉢の底のような土地でありながら集落があるのは、そういうわけである。
扶持をもらって暮らしていた足軽集落だから、耕作は発達しなかったらしい。仙台藩の支配が終わった近代以降、村人は炭焼きや木の細工で生計を支えていたという。昭和の頃には小学校の分校が建つ程度に人が住んでいたが、人口の減少により昭和48年(1973年)閉校、現在は過疎化と高齢化が相当に進んでいる。
町道を示す案内標識と稲子峠。冬期通行止めになる国道と違って通年通行が可能だ。
稲子には国道399号線の他、七ヶ宿の主要道・国道113号線に至る町道が一本通じている。冬期通行止めとなる国道に対し町道は除雪され、一年を通じて町と集落を結ぶ生命線となっている。逆に言えばこの道がなければ、集落は陸の孤島となる。
現在は件の町道が「稲子峠」と呼ばれているが、旧い地形図や書籍等には、鳩峰峠が「稲子峠」として記載されてある。峠の西麓を流れる稲子川やその岸辺にある稲子原の地名にちなんだのかもしれないが、おそらく鳩峰峠は古くから、稲子地区に至る道として認識されていたのだろう。