峠道は稲子地区の先にも伸びている。稲子からは林の中を進む道がしばらく続く。
道端で小さな滝発見。
滝の少し先に進むと、ガチガチの擁壁工が左手に現れた。
右手を見おろせば険しい渓谷が。この渓谷は峠を源流のひとつとする摺上川(すりかみがわ)の上流、稲子沢。林の次は断崖の中腹をきわどく進む。落石と対向車には十分気をつけましょう。
崖っぷちの道をしばらく行くと、また県境が現れた。道はここで再び福島県に入る。
県境を越えるとすぐ、右手の渓谷に巨岩が見えてくる。通称で「大岩」と呼ばれているらしい。峠が深山を通っていることを改めて感じさせる光景。このへんでは猿が道を歩いていることもしばしばだ。
ここでちょっと寄り道。県境近くから分岐する林道を1.2キロほど遡ったところ、柳沢と中ノ沢が出会う場所に、「亀石」と呼ばれる巨石がある。高さは目測で3mほど。周囲は大人十数人が手を繋いだくらい。一部欠けているが、卵のようなまん丸い形をしている。もともとは「瓶石」と呼ばれていたが、地形図には「亀石」の名で載っている。
宮城の県境は鳩峰峠付近で奇妙な線を描いている。山形と福島の間に稲子が割り込んでいる上、亀石付近のところだけ不自然に飛び出している。
実はこの石、峠界隈のややこしい県境の謎を解く鍵である。
国道399号線と林道の分岐点。亀石にはここから入っていく。
亀石にはこんな話が伝わっている。
その昔は寛文年間(1660年頃)、伊達家二十代目当主綱村公が幼名亀千代丸を名乗っていた頃。あるとき茂庭を見物した際、摺上川上流の山中に見事に丸い巨石があるのを見た亀千代丸は、どうしてもこの石が欲しくなった。しかし大きすぎたのか重すぎたのか、石をその場から動かすことはできなかった。常人ならここで諦めてしまいそうなものなのだが、さすが東北一の大名家はやることが違った。「だったら石を領地にしてしまえ!」。かくして仙台藩は石のところまで領地を拡大し、亀千代丸は念願の大石を手にしたのであった。以後持ち主の名にちなんで大石は「亀石」と、石のそばを流れる沢は「殿様がここの石を盗んだ」ということで「盗人沢」とも呼ばれるようになったとか。
他にも伊達騒動で有名な原田甲斐がこの石を見初め、茂庭と七ヶ宿の境界争いに乗じ、石を手にするため領地を広げただの、貞山政宗公が青葉城の庭石に所望したが動かせなかったかわりに領地をだの、さまざまな伝説がある。これらの真偽はさておき、境がこの付近まで伸びているのは、単に石が欲しいからという理由だけではないように思われる。
実際のところ亀石のあたりは、亀千代丸が生まれる以前から、仙台藩の領地になっていたようだ。
この界隈、米沢と福島信夫地方を結ぶ道には、主要道二井宿峠と板谷峠の他に、鳩峰峠、豪士峠(ごうしとうげ)などがあった。豪士峠は鳩峰峠の南、豪士山を通って高畠と茂庭を結ぶ道、茂庭街道の峠である。鳩峰峠の道は途中で茂庭街道と合流し、茂庭へと続いている。
稲子は鳩峰峠の沿線で、亀石がある場所は茂庭街道の沿線にある。ここを押さえれば、仙台領はちょうど道に割り込む形になり、二井宿峠のみならず、鳩峰峠・豪士峠の往来に干渉できるようになる。つまり稲子や亀石付近を領地にするということは、峠に楔を打つという意味がある。そう考えればこの奇妙な県境にも納得がいく。
七ヶ宿と茂庭は、この方面の山林の利権を巡って、古くから何かと争っていた。特に亀千代丸や原田甲斐が登場した寛文年間には、激しい境界争いを演じている。
寛文7年(1667年)、茂庭村の者が七ヶ宿湯原村の山中に塚を築くなど、新しい境界線を引くような行動を取った。この行動はすぐ仙台藩の知るところとなり、茂庭を厳しく追及したが茂庭側は一歩も譲らない。業を煮やした仙台藩はついに幕府に訴状を送り、この一件は現在の最高裁にあたる幕府評定所で吟味されることになった。
双方の立ち会いによる当該山域の検分や、申し分の調査を経て、寛文9年(1669年)5月に評定開始。勘定奉行・江戸町奉行・寺社奉行ら立ち会いのもと、湯原村と茂庭村が双方の見解を主張した。主張の争点はどちらの境界が正当か。湯原村が現在の県境とほぼ同じ境界を主張するのに対し、茂庭側の主張はそれより北側の白石川と稲子沢の分水界。それぞれ土地利用の記録や古文書等を示しながら、論所の所属を主張した。評定は数度に及んだが、証拠で勝る湯原側有利に進み、同年9月、湯原側の全面的勝訴で結審となった。決め手となったのは、湯原側に残る金山経営に関する証文だった。
評定は決したが、その後も茂庭の住民が境界を越え、この山域に入ってくることが相次いだ。そこで天和元年(1680年)、仙台藩は稲子に足軽屋敷を設け、この地域の警備を強化する羽目になっている。
境界問題が発生した当時は、藩主綱勝の頓死に始まる世継ぎ問題の沙汰で米沢藩が信夫地方を失った直後で、茂庭はさらに米沢領から幕府天領に変わっていた。茂庭側が新しい塚を築いた名目は、幕府の巡検使を迎えるためだったのだが、当地の混乱に乗じて、新しい境界を主張したのかもしれない。
もともと茂庭と七ヶ宿は、同じ伊達家の領地だった。その後伊達政宗の岩出山転封によって上杉家の所領となったが、関ヶ原の戦いに乗じて政宗が七ヶ宿を奪い返し、別々の領地になったという経緯がある。七ヶ宿は仙台藩、茂庭は米沢藩と別々の国の支配に入ったものの、もとは同じ領主の土地だっただけに、それぞれが入り乱れるようにこの山域に出入りし、それぞれが「おらが山」と認識していたのだろう。
先述のとおり、亀石付近は亀千代丸や原田甲斐が現れる以前から仙台藩の領地だったようだ。「仙台の殿様がこの石を盗んでいったんだ。」という言い伝えは、寛文年間の国境裁判に敗れて悔しがった茂庭の村人が言い始めたのかもしれない。
境を巡る争いはその後も末永く、七ヶ宿と茂庭の間の遺恨となった。寛文年間から時代が下ること約200年の明治10年(1877年)、福島と宮城がその県境を決める際、稲子地区の所属が問題となった。明治11年(1878年)4月、太政官布告に従い福島県に繰り入れたところ、「福島になるのはやむを得ずとしても、茂庭と合併だけはしたくない。」と稲子地区の住民から猛反発を受けたため、わずか1年8ヶ月で宮城に戻したという逸話がある。
水系的には、稲子地区は茂庭地区と同じ摺上川に属する。しかし摺上川沿いに茂庭に出るよりも、一山越えてでも湯原や屋代郷に出る方が近かったので、必然的にそちらとの結びつきが強くなったわけである。
林道分岐付近に「摺上山神社」の碑がある。摺上山神社は峠の南東にある摺上山を祀る神社。碑はこれより先が神社の神域であることを示したものらしく、鳩峰峠というよりも、むしろ豪士峠に近しいもののようだ。
銘には碑は昭和10年(1935年)、この辺の県道が改修されたことを記念して建てられたとある。「稲子ヲ経テ高畠町ニ至ル」とも刻まれているので、その時改修された県道は、おそらく現在の国道ルートだと思われる。
大岩を過ぎてしばらく走る。左手に再び大規模な擁壁工が現れた。右手の峡谷は湖になっていた。
そして最後の林を抜けると...
山奥の酷道はいきなり、湖畔の快適な二車線路に一変した。
福島側茂庭付近の国道も、永らく「酷道」のような状態が続いていたそうだ。それが現在やたら整備されているのは、平成になって完成した摺上川ダムゆえである。ダムの建設によって周囲の地勢が大きく変わることになり、付け替え道路として新しい道路が作られたというわけである。この道路建設のため、15世帯の方々が立ち退くことになったそうだ。
摺上川ダムはこれまで辿ってきた摺上川に設けられたダムだ。堤体の高さ105m、総貯水量1億5300万立方mのロックフィルダムで、昭和46年(1971年)に計画が始まり、平成17年(2005年)に竣工した。水道・農業・工業用水の確保、水害防止等の目的で建設され、信達地方の治水に利用されている。新しく生まれたダム湖には「茂庭っ湖(もにわっこ)」という名前が付けられ、周辺は親水空間として様々に整備が進められている。
ダム建設によって周辺の集落がいくつか水没することになり、そのため178戸、約600名の人々が故郷を離れている。湖畔には水没した村から移転した神社や、移転を記念する碑などがいくつか建ち、ダムに沈んだ故郷を偲んでいる。
茂庭地方は伊達家の重臣、茂庭氏の所領だった場所だ。茂庭氏の祖は斉藤監物実良なる武士で、鎌倉時代が始まる頃、この地で悪さをしていた大蛇を退治して村人を救ったと伝わっている。伝説によれば実良は大蛇の胴を三つにぶった切り、その霊を鎮めるため、おのおのを埋めた場所に社を設けた。それが湖畔に移転した御嶽神社や梨平神社のはじまりである。
大蛇退治の伝説とは、治水事業の暗喩なのだという説がある。その流儀ならばダム建設は現代の大蛇退治なのかもしれないが、治水のために造られたダムの底に大蛇伝説の舞台となった村々が沈んでいることに、どこか哀しみを覚える。
(2006年9月/09年6月/11年8月・10月・11月取材・2011年11月記)
場所:
東置賜郡高畠町と福島県福島市の間。龍ヶ岳南麓、豪士山の北。国道399号線。県境。標高780m。大分水嶺。
地理:
1・通行止めゲート,2・上有無川4号砂防ダム,3・鞍部展望地,4・国道標識,5・置賜遠望地, 6・鞍部・むくどりの夢童話碑・共生の碑,7・眺めのよい丘,8・鳩峰牧場事務所跡地, |
9・宮城県境標識,10・稲子地区町道分岐点,11・滝,12・福島県境標識,13・大岩,14・摺上山神社碑, 15・林道分岐点,16・亀石,17・二車線始点 |
所要時間:
高畠町糠野目から鞍部まで自動車で約20分。鞍部から稲子まで同じく約15分。稲子から茂庭っ湖まで同じく約25分。
特記事項:
冬期通行止めあり。毎年11月上旬から5月半ばあたりまで。車両通行制限あり。長さ8m以上の大型車は通行不可。他にも幅が2t車より広い車両、ホイールベースが長い車両、高さ2.5m超の車両、車高が低い車両、牽引している車両も通行不可。連続雨量120mmが越えると峠区間は通行止めになる。全区間舗装済み。鞍部は置賜盆地の展望台として知られているせいか、それなりに車の往来がある。稲子地区より七ヶ宿湯原方面へ離脱可能。摺上川ダムのそばにもにわの湯、国道を福島側に下った先には飯坂温泉がある。1/25000地形図「稲子」「関」「中茂庭」。同1/50000「関」。
「置賜酪農の歩み」 置賜酪農業協同組合 1980年
「高畠町史 上巻」 高畠町史編集委員会 1972年
「みやぎの峠」 小野寺寅雄 河北新報社 1999年
「山形県歴史の道調査報告書 茂庭街道」 山形県教育委員会 1982年
摺上川ダム関連小冊子各種 摺上川ダム管理所他
「福島大学学術機関リポジトリ
『明治初年における伊達刈田郡界更画一件の歴史地理的背景』」 安田初雄 1998年
URI:http://ir.lib.fukushima-u.ac.jp/dspace/handle/10270/1977
「高倉淳の宮城郷土史・分室」 高倉淳様 URI:http://www42.tok2.com/home/kaidoumiyagi/