檜原峠

檜原峠の位置

 米沢と福島を結ぶ道は数ある。その中でも檜原峠(ひばらとうげ)は最も古く、かつ最も多くの人々が行き交った道だろう。時は流れ、通りも絶えて久しくなった。しかし千年にわたり幾多の足跡を刻まれた道が、容易に消えるはずもない。


松ヶ岬公園

松ヶ岬公園

 檜原峠は「会津街道」の峠である。会津街道は会津若松と米沢を結んだ古道である。街道は松ヶ岬公園(まつがさきこうえん)こと米沢城趾の真ん前、大町上通りにあった「札の辻」を起点にしていた。そのことからも、この道が城下町米沢と会津若松、二つの城下町を結ぶ道だったことがうかがえる。
 街道は米沢中心部より、まっすぐ南に延びている。街道は米沢中心部を出た後、船坂峠、綱木峠を経て、檜原峠を越え、会津に通じていた。米沢城、船坂峠、綱木峠、檜原峠はほぼ一直線上にあり、米沢城趾前から道なりに南に進むだけで、檜原峠付近まで行けてしまう。このことからも、会津街道がどういう道であったかよくわかるだろう。


笹野観音堂

笹野観音堂

 街道が盛んに使われたのは江戸時代だが、もちろんそれ以前から道は存在し、利用されてきた。それを伝えるのが、「おたかぽっぽ」で有名な笹野地区に建つ、笹野観音堂である。
 峠の歴史は古い。小国の子持峠同様、古志族が置賜入りを果たした道の一つで、二井宿峠に次いで拓かれたのが、この檜原峠だったとも考えられている。出羽と岩代の間には吾妻山や飯豊連峰といった高峰が連なり、往来できる場所は数が限られる。ゆえに比較的利用しやすい峠が、自然と道になっていったのだろう。そして道は、やがて人のみならず、様々な文化を運ぶことになった。

 笹野観音堂は、征夷大将軍坂上田村麻呂が創始、平安時代初頭の大同元年(806年)、徳一上人(とくいつしょうにん)が中興開基したと伝わる古刹である。上人は東国に仏教を広めた人物で、会津はその拠点のひとつだった。そして峠越しに隣りあう米沢に建てたのが、この観音堂というわけだ。
 街道沿線には、「笠松」「繰返」なる土地もある。弘法大師が松に笠を掛けてひと休みしたから「笠松」で、その後笠を忘れたことに気付き、そこから引き返すことになったから「繰返」という伝説が残っている。
 他にも沿線には、平安初期の開基と伝わる寺院がいくつか点在している。これら古刹や伝説は、会津街道を介して、置賜に仏教が伝わってきた証と考えられている。


黄壇原

黄壇原

 笹野観音堂の北、現在の興譲館高校があるあたりは、黄壇原(おうだんばら)と呼ばれる。田んぼと高校以外に目立つものはないが、ここも峠を知る上では欠かせない場所である。

 戦国時代になると、数々の武将が会津街道を通っている。その皮切りが、伊達稙宗と晴宗だ。室町時代に長井氏を滅ぼした伊達家は、その後米沢に拠点を移し、置賜を支配していたのだが、天文年間(てんぶんねんかん・1532年〜1554年)になると、十四代当主稙宗と、その息子である十五代当主晴宗との間で家督争いが起こった。領内経営方針の食い違いに端を発する親子の争いは、周辺諸大名を巻き込みつつ、6年にもわたる大乱へと発展した。いわゆる「天文の乱」である。

 当初は有力諸侯を味方に付けていた稙宗が優位に立っていたのだが、会津の蘆名盛氏が稙宗を裏切ったのをきっかけに立場が逆転、そして天文16年(1547年)8月、蘆名盛氏の支援を受けた晴宗は、稙宗と武力衝突することになった。その激戦地となったのが、ここ黄壇原なのである。
 劣勢に立たされた稙宗はそのまま勢力を失い、翌年晴宗と和睦、家督を譲るという形で、天文の乱は一応の終結を見た。

 その後も峠は会津と米沢を結ぶがゆえに、何度か国盗りの舞台となっている。永禄7年(1564年)には、十六代当主伊達輝宗が、この峠から蘆名盛氏を攻めた。同9年(1566年)には綱木地頭遠藤雅楽丞と関地頭遠藤佐馬介が同じく桧原攻めを試み失敗、十七代貞山公政宗の頃には、街道方面の守りを固める動きがいくつかあったことが、記録に残っている。
 戦国時代には軍事的要路として、峠は重視されていた。そんな峠に平和が訪れるのは、天正18年(1590年)、豊臣秀吉の奥州仕置によって政宗が岩出山に移され、代わりに蒲生氏郷が会津に来てからのことである。


綱木

綱木のかやぶき屋根民家

 上杉神社前を発した道は、やがて船坂峠で置賜盆地を出、関より山道を経て、綱木(つなぎ)に着く。綱木はかつての宿場町で、峠下最後の集落となる。
 村は当地に逃れた平家の落人、梅津豊後守・田中和泉守・今野隼人らによって作られたと伝わる。綱木の名は「繋ぎ」に通じるもので、街道の中継地点だった名残となっている。
 蒲生氏は会津と米沢を領地とした。その間にある檜原峠は領内の重要な連絡路と見なされている。蒲生氏による支配は短期間だったが、道の重要性は変わらず、次に入部した上杉氏も、この道の整備を進めている。宿場町としての体裁は、この頃に整えられたものらしい。特に綱木は米沢南の出入り口にあたるため番所も設けられ、道行く人々に目を光らせていた。

 江戸時代の間、綱木は宿場町として栄えた。天保年間(1830年〜1843年)には270人程度の人々が暮らしていた。昭和の初め頃までは、宿場町らしい建物や町並みも数多く残っていたらしい。しかしその後火災や過疎等によって衰退し、今ではその面影もだいぶ失われてしまったようだ。
 それでも道や土台の石積み、わずかに残るかやぶき屋根の家などに、往年の姿がしのばれる。盆の頃に奉納される獅子踊りも有名で、現在でも有志がその芸能を伝えている。


米沢街道檜原峠別

米沢街道檜原峠別

 その後街道は衰退したが、当時の道筋は今でも残っている。まずは福島側から、鞍部を目指す道を紹介しよう。取材当時(2008年6月)、峠付近はほぼ廃道状態で、福島側にかろうじて取り付きが残っており、薮こぎすれば鞍部に行けるという有様だった。

 峠口までは、綱木と桧原湖畔金山を結ぶ峰越え林道を使うことになる。綱木から県境までが百子沢林道で、県境から福島側峠下の金山までが鷹ノ巣林道と呼ばれている。両林道は昭和45年(1970年)に開通したもので、一部旧街道を踏襲しているが、県境付近では旧街道を迂回している。
 鷹ノ巣林道の迷沢橋(まいさわばし)から北東に約1キロほどいったところ、長井川上流が林道と出会う場所が峠口だ。入口にある「米沢街道檜原峠別」の標柱が格好の目印になるだろう。
 「米沢街道」とは、会津街道の会津側での呼び方である。街道は行き先の名で呼ばれることが多いので、同じ道でも土地が変われば、その呼び方も変わるわけである。


湿地帯

薮っぽい小径・ちゃんと峠につながってます

 標柱の先には薮っぽい小径が延びている。本当に峠に行けるのか不安になるが、ここで間違いないので進んでみよう。

ぬかるみとミズバショウ

 峠口付近にはミズバショウが自生し、季節になれば目を楽しませてくれる。そのかわりこのあたりはよくぬかるので、長靴か登山靴は必須である。


薮の小径

ここも道です

 峠口から5分も歩かないうちに、思わずひるんでしまうような薮が出現。道を探りつつ、前進する。

薮の中徒渉中

 沢筋横断。草に隠れて分かりづらいが、沢筋をはさんで道跡が付いているのが認められる。

一見ただの薮

 一見ただの草藪にしか見えないが...

薮の下の道跡

 しゃがんでみると、はっきりした道跡があった。

灌木のトンネル ここにも笹藪

 灌木のトンネル、盛大な笹藪。周囲より少しだけ薮が退けているところが道だろうと見当を付け、慎重に前進。

徒渉地点二つ目

 二度目の徒渉。取材当時は入口の標柱以外に道標となるものがほとんどなく、道跡を追うのはなかなか厄介なことだった。

ブナの木陰

 沢筋の先はブナ林が木陰を作り、薮が退けていた。ここが往年の街道であることを確信できる光景だ。

ブナの大木

 かたわらにはブナの大木。いつからここにあるのだろうか。

蕗繁る小径

 林を抜けたところでは、道中にフキが広がっていた。薮の小径はまだまだ続く。


中腹の広場

中腹の広場

 順調に道跡を追うことができれば、10分足らずで猫の額ほどの広さの広場に着く。ところが取材当時はここも薮だらけで行き先がすっかり隠れており、道跡を探すのに非常に苦労した。

ここも一見ただの薮ですが

 小一時間捜し回った末、ふと北西方面の薮をかきわけてみると...

なんと道でした!(泣)

 待望の道跡発見! 道はここより沢筋を離れ、峠に向かう。


九十九折り地帯

よく残ってる道跡

 広場の先からはブナ林が続く。ここから峠までは基本的に木陰の中を行く。以降の道跡は非常によく残っており、追うのに苦労しなかった。ただし薮漕ぎではもう少し難儀することになった。

九十九折り

 広場の先には8つの九十九折りが現れる。落ち葉を踏みしめながら急坂を登る。廃道になって久しかったにもかかわず、状態がよいところはこれほど状態がよい。

倒木発見

 廃道ではおなじみ倒木と遭遇。薮や茂みに比べれば、通るのははるかに楽。


境界標

境界標 境界標の看板

 九十九折り地帯を抜けたあたりで、林野庁が設置した境界標を発見。「前橋営林局」の看板付きなので、少なくとも同部署が「関東森林管理局」に改称される平成11年(1999年)以前に設けられたものだろう。人の通りが絶えて久しい峠道において、人の出入りを感じさせる数少ない人工物だ。

古の街道

 境界標からは、しばらくまっすぐな道が続く。ブナ林を抜ける道跡は、まさに往年の街道の姿そのもの。


続・薮の小径

また薮突入 とはいえ見通しはよい

 しかしそんな道も長くは続かなかった。九十九折り地帯の先は東側の日当たりがいいせいか、盛大な薮になっていた。もっとも、繁ってはいても胸丈程度なので、見た目以上に道跡は分かりやすい。薮をかきわけ前進する。

中腹のぬかるみ

 沢筋を横断しているのか、路面がぬかるところも。

鞍部直下

 前方に空が開けているのが見える。鞍部はすぐそこだ。


鞍部

東境塚より見る檜原峠鞍部

 かくして鞍部に到着。この時は道を探すのに相当な時間を要してしまったが、迷わなければ峠口から30分ほどの距離で、実はそう遠くない。
 鞍部東側にある盛り土は、境塚と呼ばれている。ここが米沢と会津の国境であることを示すものだ。それは現在も同じで、鞍部は山形と福島の県境になっている。鞍部の東西に一基ずつあるが、訪れた当時西側の塚は薮に埋もれ、どこにあるのかわかりづらくなっていた。

 戦国時代にこの峠を通った人物では、上杉景勝と直江兼続の主従を忘れるわけにはいかない。
 慶長5年(1600年)、山形にて最上義光と上杉景勝が争った。いわゆる長谷堂合戦である。直江兼続率いる上杉軍は狐越で最上領へ侵入、山形西の要害、長谷堂城を脅かした。しかしその陣中に、関ヶ原にて西軍が負けたとの報がもたらされる。
 長谷堂合戦は、関ヶ原合戦の代理戦争でもあった。上杉家は豊臣側こと西軍に与しており、最上家は東軍徳川家康と同盟を組んでいる。西軍が負けてもなお戦うということは、天下取りとなった家康にたてつくことを意味した。
 時代の趨勢を知った上杉軍は、これ以上の戦闘は無意味と軍を引き揚げたが、当然家康に戦の責を問われることになった。その沙汰は会津120万石の没収、上杉藩は兼続の所領米沢30万石のみに減封という厳しいものだった。
 会津を追われた上杉藩は、米沢へと押し込められることになった。その際、景勝をはじめとする上杉の家臣団が米沢入りを果たした道こそ、この檜原峠だったのだ。

東境塚の大木
東側の境塚。峠の主然と、苔むしたブナの大木が据わっている。

 こうして会津と米沢は別の国になったが、それでもこの道が重要な道であることは変わりなかった。峠は米沢と会津を最短距離で結ぶ位置にある。江戸時代初頭、山形に入部していた保科正之が会津に転封する際には、この峠を通っている。その後寛文年間に上杉家がお家断絶の危機に瀕し、会津の保科家に助けを求めたみぎり、重臣達は足繁くこの峠を越え、藩の未来を相談しあったことだろう。

 江戸と往来する時も、板谷峠で福島を経由するより、檜原峠で会津を経由した方が近かった。参勤交代の際には板谷峠が利用されたが、将軍の代が変わるごと各地に派遣された巡検使は、毎度この峠より米沢入りするのが常だった。会津方面から三山詣でに来る行者らも、多くこの峠を越えている。
 江戸時代後期には、様々な人物がこの峠より米沢入りを果たしている。「東遊雑記」等の著書で知られる地理学者古川古松軒。「東海道中膝栗毛」で有名な十返舎一九。日本地図を作り上げた伊能忠敬。幕末には米沢藩士と語り合うため、吉田松陰もこの峠を越えている。板谷峠が米沢藩の「私道」であるならば、檜原峠は「表玄関」だったとも言えるだろう。
 その重要性ゆえか、檜原峠はかつて「大峠」とも呼ばれていた。現在大峠と言えば、八谷街道こと国道121号線のことを指すが、杉並木で知られる日光例幣使街道も同じ国道121号線だったりする。檜原峠が江戸とつながっていたことの名残は、こんなところに形を変えて残っているというわけだ。


その後の福島側

米沢街道別れ2009年の様子

第二徒渉地点はこうなった 広場でも迷いません

すっかり薮が消えました

鞍部の様子2009 東境塚

 荒井が最初に訪れたのは平成20年(2008年)の初夏だったのだが、その後大規模な苅り払いが進み、翌年春に訪れたときにはすっかり通りやすい道になっていた。薮だらけだった頃が嘘のようである。

文頭に戻る目次に戻るトップページに戻る次を読む