みちのくに ちかきいではの板敷の 山に年へて 住まれぞわびしき
詠み人知らず 夫木集
新庄市の本合海から庄内町の清川まで、ちょうど最上川が新庄盆地を出て庄内平野に流れる区間は険しい峡谷をなしており、最上峡と呼ばれている。古くは舟運が栄え、現在は国道47号線による陸運が盛んで、昔より最上地方と庄内地方を結ぶ主要道として利用されている。
かつてここにはもう一つ、「板敷越え(いたじきごえ)」なる古道があった。
板敷越えは戸沢村古口と庄内町(旧立川町)肝煎(きもいり)を結ぶ古道である。最上川と三ツ沢川に挟まれた尾根を通っていたと考えられている。途中には「やかん転がし」「大徳寺泣かせ」といった難所があって板を敷いて登ったからとか、「痛みつく」ようにして登らざるを得ないほど難儀な道だったから、この名があるとまことしやかに語られている。「板敷」の名は、松尾芭蕉の「おくのほそ道」にも現れるので、それなりに知られていたようだ。
板敷山はその板敷越えがあったとされる尾根の南にある低山だ。山の名が道の名になったのか、道の名が山の名になったのかは判らない。ただ確かなのは、平安時代の昔にはすでにこの山域を渡る道があり、山そのものも、鎌倉時代には歌枕として知られていたということだ。
道は忘却されて久しいが、山は現在でも比較的容易に登ることができる。今回は板敷山を紹介しつつ、板敷越えを偲んでみよう。
板敷山に登る道はいくつかあるが、今回は庄内町中村地区檜沢から、板敷山の稜線を辿り、山頂を目指すルートを登ってみた。
登り口となる檜沢には、熊谷神社なる神社がある。平安時代末、源頼義によって建立され、戦国時代末期には最上義光も祈祷を捧げたというが、もとは不動明王を祀ったお堂であったらしい。
「熊谷」の名はその不動祠の堂守だった行者、熊谷三郎兵衛にちなんでいる。三郎兵衛は江戸時代初期の倒幕事件、慶安の変(慶安4年・1651年)で由井正雪に加担した人物だ。事件発覚後、庄内に逃れた三郎兵衛は行者として人々に尽くし、最期は当地で即身仏往生を遂げたと伝わっており、その最期の地が、この神社のある場所だったのだという。
神社は正式には御瀧神社というのだが、三郎兵衛没後もその遺徳が慕われ、いつしかその名字が神社の名となった。ついでに神社はコシヒカリやササニシキの先祖にあたる稲の品種、亀ノ尾が生まれるきっかけとなった場所でもある。
神社は現在でも広く地元の人々の崇敬を集めており、結構広い駐車場もある。車で来たならここに車を置かせてもらおう。
駐車場の片隅には、大正2年に建てられた「右くまがい左やまみち」の道標がある。場所からして板敷越えとは別の道かと思われるが、古くは山中を越え古口に至る道があったことを示している。
熊谷神社から東に500メートルほど林道を進むと、右手に砂防ダムが見えてくる。このあたりがちょうど板敷山の西の果てになっており、ここから尾根に取り付ける。左手の法面をよく見ると、かすかにジグザグ状の踏み跡があるので、これを辿って尾根に取り付こう。
この板敷山、地形図には登山道が全く載っていない上、登山ガイドでも紹介されることがほとんど無いので、情報集めで苦労することになるだろう。
稜線上に出たら、後はひたすら尾根を東へ進むことになる。少々薮に埋もれているが、尾根の林には、ちょうど人一人分ぐらいの幅の隙間が残っている。これを道代わりに進もう。
取材に訪れたのは4月上旬なので、画像では薮もそれほどひどくはないが、これが一月も経つと草が茂りだし、薮こぎで少々難儀することになる。
薮もさることながら、直登するため勾配が少々きつい。それとこのあたりの尾根は痩せているので、滑落にも要注意。
急な尾根を登っていると、やがて左手に送電線が見えてくる。板敷山に登るときは、これが格好の目印になってくれる。
急な登りが終わると、目の前に杉林が現れる。踏み跡はここで途切れるが、送電線を目印にしながら構わず突っ切ろう。
杉林のそばには5号鉄塔がある。杉林の中からでも見えるので、林の中で迷ったらここを目指そう。
そして杉林を抜けると、これまでとはうってかわって、非常にはっきりとした山道が現れた。道は尾根に沿いながら小さなピークを越え、向こうまで続いているようだ。
これは先ほども見た送電線こと古口線の巡検路で、山頂を経由して戸沢村に出られるようになっている。ここからはこの道を追いながら山頂を目指すことになる。
実は西の果ての他にも、尾根に登れる道がある。
今度は件の砂防ダムからさらに500メートルほど奥に入ったところで鉄骨を掛け渡しただけの橋を渡り、さらに数百メートルほど林道を進むと、鉄塔管理道への入口がある。ここから管理道をたどっていけば、なんと薮こぎをすることもなく、尾根まで登れてしまうのだ。
こちらの方が道の状態がいい上判りやすい。薮こぎや急登が嫌な方はこちらを利用しよう。この道を使えば5号鉄塔と6号鉄塔の間に出られる。
入口は杉林に紛れて少々判りづらいが、少し手前に小さな植林記念碑があるので、これを目安にしよう。
尾根上の道はきれいに苅り払われ、歩くのに不自由は全くない。鉄塔の管理道だからか、まめに人の手が入っているようだ。
ところによっては階段まで設けられてある。
尾根に出てから数分程度の歩きで、次の鉄塔の元に到着。一定間隔で立つ鉄塔が、ちょうどよい道標となっている。
尾根に出てからここまでは労せず歩いてこられたが、6号鉄塔を過ぎると程なく、頼みの管理道は残雪に埋もれ、消えてしまった。
やむを得ず、薮っぽい尾根筋をたどって次の鉄塔を目指す。
次なる鉄塔は目の前だがその前は急な登りで、さらに残雪と灌木の薮が立ちはだかった。いつものことながら、どうやって登れと?
結局無理無理薮をこぎ、強引に7号鉄塔に到着。しかしその先にはまた残雪と鉄塔が待っていた。
今回は残雪のおかげで予想外の難儀を強いられたが、時期を選べば薮こぎをする必要はない。完全に雪が解ければその下から夏道が現れるので、こちらを利用できる。
夏道は灌木のトンネルで尾根の北側斜面を巻き、7号鉄塔の足元に出られるようになっている。当然のことながら、薮に比べたらこっちの方が格段に歩きやすい。
7号鉄塔からはまた管理道が現れていたので、これをたどりながら次を目指す。
程なく残雪に埋もれてしまったが、この程度ならまだ楽勝。
このあたりで北の方に目をやれば、土湯山の山頂無線中継アンテナが見えてくる。
尾根筋は杉林をかすめ、急な登りにさしかかる。管理道は再び残雪に埋もれ、また強引に尾根筋を追うことになった。今度は薮はないものの、倒木の上に積もった残雪は踏み抜きがひどくて、登るのに苦労した。
踏み抜き地帯を脱し、管理道に合流。急斜面にかろうじて伐られてあるだけなので、踏み外さないよう気をつけながら登る。
ようやく8号鉄塔の足元に到着。
このあたりまで来ると展望が開けてくる。西の方には庄内平野や立谷沢川を見下ろし、天気に恵まれれば、北西に鳥海山を望むこともできる。
もちろん雪が解ければ、この杉林のそばにも夏道が現れ、踏み抜きに悩むことなく登れるようになる。この山、雪がすっかり解けてからの方が登りやすい。