8号鉄塔で急な登りは終わり、あとはなだらかな尾根が続く。次の鉄塔までは全く平らな地形なのが一目でわかる。
左手には葉っぱを落としたブナの森。
このまま山頂まで行ければいいのだが、やっぱりそうは問屋が卸さない。古口線は9号鉄塔のすぐ先で深い谷を横切り向こう側に渡ってしまう。ここから次の鉄塔までの区間は、送電線を頼みにできないのだ。
次の鉄塔に行くにはさっき見たブナの森を通り、谷筋を迂回しなければならない。下手すると森の中で迷いかねないので、往くか退くか、ちょっとした決断を迫られる。
思い切って左手のブナの森に飛び込む。さいわい葉っぱが落ちているおかげで見通しが利き、次の鉄塔の位置を見定めることができた。
ブナ林と杉林の境界を進む。この境界が格好の道代わりになってくれる。
新緑の時期にはまだ早かったが、美しいブナ林が広がる。
10号鉄塔が見えてきた。無事森を通り抜けて一安心。
やっぱりこの区間にも、非常に判りやすい夏道が存在する。残雪期にこわごわ通り抜けた森は、5月になれば新緑を堪能できる楽しい区間となる。
10号鉄塔にたどり着ければ、あとは再び送電線を追いながら山頂を目指すだけとなる。特に迷う心配はないが、油断せず進もう。
このあたりで北を見れば土湯山越しに鳥海山が、南には間近に月山が望める。
そして11号鉄塔に到着。次の鉄塔のある場所が山頂だが、最後の最後で小さな谷筋が立ちはだかった。山頂に行くためにはここで一度数メートル下まで下り、目の前の斜面を登ることになる。画像では少々判りづらいが、意外に急な上残雪の踏み抜きもありなかなか厄介だった。
もちろんここにも夏道があって、雪がなければ容易に越えられるようになっている。
そうこうしてついに板敷山の山頂に到着。標高629.6m。取り付きからここまで2時間半ほどかかったが、夏なら2時間ほどでたどり着けるだろう。
山頂には12号鉄塔と、国土地理院による二等三角点があり、ちょうどそこのところだけ雪が消えていた。
東を見やれば三ツ沢川のなす谷と、その向こうに神室連峰が見えた。山頂を境に庄内町から戸沢村、郡も東田川郡から最上郡へと変わる。
管理道はこの先にも続いていて、送電線に沿って山頂を下り、戸沢村の三ツ沢川上流に出られるようだ。画像を見れば、送電線のところだけ見事に森が伐り拓かれているのがわかっていただけるだろう。
最上峡は新庄戸沢藩と庄内酒井藩の境であり、そこを通る板敷越えもまた、藩の境として認識されていたらしい。道の途中には一里塚も築かれていたと資料は伝える。
最上側の峠口となる古口は、最上川舟運と板敷越え陸運の要所として発達した集落である。古くは最上地方西の要として楯が築かれ、江戸自体には戸沢藩の舟番所が設けられている。旧立川町の清川も船着き場として栄えた土地であり、峠口に近い松の木には庄内藩の口留番所が置かれている。
江戸時代の旧い地図には最上峡の区間に「板敷越」と記されたものもある。この道を越え、庄内藩の御用荷が運ばれることもあったというから、重視される道ではあったようだ。
これまで登ってきた管理道は、厳密には板敷越えとは異なるのだが、往年の板敷越えもこのような道だったのだろうかと思わせるものがある。
山頂付近の尾根から土湯山方面を眺めると、板敷越えがあったという尾根が見えるが、そのあたりはすっかりブナの森に埋もれている。中腹やてっぺんには茶屋などもあったというが、今となってはその場所を探ることもできない。
実はこれまで挙げた二つ以外にも、山頂に至る道がある。
熊谷神社の北の方、庄内町の町営バス停「板敷橋」があるあたり、ちょうど板敷沢が立谷沢川に流れ込むところから延びる小倉山林道の途中に、古口線管理道の入口がある。これを使えばブナの森を抜け、9号鉄塔と10号鉄塔の間に出られる。山頂に行くだけだったらこの林道と管理道を使うのがもっとも手早いだろう。
管理道の途中には、明治38年(1905年)に建てられた山神碑がある。どうやらこの道は、その頃からあるもののようだ。
文献によれば板敷越えの旧道は、清川から肝煎を経由して松の木で立谷沢川を渡り、板敷沢を右下に見ながら尾根に出て、土湯山の南を通り、三ツ沢川に沿って古口に下ったのだという。それに従えば、この小倉山林道を経由する道が、往時の板敷越えに最も近いルートということになる。
9号鉄塔と10号鉄塔の間にある合流地点。小倉山林道経由で登ってくるとここに出る。
板敷越えは、最上川舟運の代替路としての性格があった。最上峡は強風や氷結によって、舟が出せないことがある。そのような時にこの板敷越えが利用されたというが、急峻な尾根を上り下りするのはもちろん、時間も要したため、駄賃は舟より相当に高く付いた。特に冬場は雪のため一日で移動することもできず、途中で一泊することもあったそうだ。それでも人足や助郷にしてみれば引き合わない料金だったようで、駄賃引き上げ要求もたびたびだった。
こうした理由から、道は飽くまで緊急用の代替路という性格が強かったのだろう。それが後の衰退の一因になったものと思われる。
板敷山から見えた土湯山にも登ることができる。旧国設最上川スキー場より、無線中継アンテナのところまで作業道が通じており、これをたどれば山頂に行ける。
山頂付近は見事なブナの森が広がる。板敷越えは名を同じくする板敷山よりも、むしろ土湯山に近いルートを通っていた。往年の街道はこんな森の中を通っていたのだろうなと、ここでも旧い道を偲ぶことができる。