捨て子沼

たぶんこのあたり

 最上側の峠口となる古口には、捨て子沼の伝説が残っている。曰く、かつて飢饉があった際、行き場を失った庄内の百姓が板敷越えで最上に遁走し、古口を目前にしたところで困窮のあまり我が子を沼に投げ捨て、その死骸を踏み越えていったのだと。伝説の真偽は例によって定かでないが、道の険しさを思えばさもありなんという気がしてくる。

板敷越え東端に至る山道

 その後沼は埋め立てられ、畑にされたという。捨て子沼があったのは別当屋敷と呼ばれる界隈で、ちょうど峠の入口にあたる場所だった。以前は戸沢村の教育委員会が建てた看板などもあったようなのだが、現在それらしいものはなくなっており、どこなのかは判らなくなっていた。
 画像はその別当屋敷にある峠入口とおぼしきところで、あたりは畑になっている。この薮っぽい小径を追っていけば板敷越えがあった尾根筋の東端に出られるのだが、そこで道は消えていた。


磐根新道

磐根新道・古口の国道47号線

 水運の代替路としてそれなりに命脈を保ってきた板敷越えも、明治初頭の磐根新道(いわねしんどう)の建設により、廃れることになる。磐根新道は現在の国道47号線、最上峡区間の元となる道で、手がけたのはおなじみ三島通庸だ。

 板敷越えは途中に数々の難所を抱え、車も通れず、舟以上に通行に時間を要する。最上峡に容易かつ安定して通れる陸路を作ることは、古口住民永年の悲願でもあった。明治7年(1874年)には、鮭川の名士荒木伊左衛門らが中心となって最上峡に道を造ったが、この時できたのはようやく牛馬が通れる程度のものだった。
 この事業が下敷きとなって、明治10年(1877年)7月、三島通庸による近代的な新道建設が始まった。ダイナマイトなどの最新技術も投入されたが、峻険な上、多くの沢が流れこむ最上峡に橋や隧道を造り、道を刻むのは一仕事だったと伝わる。それでも伊左衛門や地元住民らの熱心な働きかけや協力もあって新道はわずか1年で竣工し、三島により「磐根新道」と名付けられた。その名はこの事業が岩の根を削るような難工事だったことにちなんでいる。

猪ノ鼻付近の岩肌

 古口を出て猪ノ鼻に至る区間では、山手のところどころに荒々しい岩肌が覗いているのが見られる。これが新道工事の所産であるかは不明だが、「磐根新道」の由縁を垣間見ることはできるだろう。

猪ノ鼻高架橋下

 現在は猪ノ鼻高架橋が架かっている三ノ滝沢付近でも、同様の岩肌が見られる。昭和53年(1978年)に高架橋ができる以前の旧道は、ここを通っていたものと思われる。

猪ノ鼻三ノ滝

 こちらは三ノ滝。高架橋のすぐ南にある滝で、国道47号線からでも眺められる。


腹巻岩

腹巻岩

 最上峡の出口付近、戸沢村と庄内町の境界にあたる場所に、腹巻岩と呼ばれる難所がある。急な崖が最上川に突き出ており、古くは舟乗りたちに恐れられていた。崖に腹巻きのごとし帯状の侵食痕がついていたことがその名の由来だが、その後の保護工事によって大部分がコンクリートで固められ、現在その侵食痕はあまり目立たない。国道47号線はこの中腹をスノーシェッドで通過し、庄内平野に出ている。

 腹巻岩は戊辰戦争では戦場の一つとなっている。慶応4年(1868年)、庄内藩を討つべく官軍は新庄方面より進軍、舟で古口に上陸し板敷越えを越え、夜明け前に腹巻岩にたどり着いた。この襲撃には庄内軍も慌てたが、そこは奥羽列藩同盟きっての精鋭だけに程なく陣を立て、反撃準備を整えた。
 これに対し官軍が次の手を打とうとしたところ、突如背後から鬨の声が上がった。庄内藩に加勢すべく、狩川の農民兵が斬り込んできたのだ。予想だにしない急襲に慌てふためいた官軍は退路を断たれることを恐れ、そそくさと引き揚げてしまった。これが「清川口の戦い」だ。

 三島が磐根新道を重視したのは、もちろん板敷越えに代わる交通路を確保しようとしただけではない。庄内は同盟軍の重鎮庄内藩のお膝元。新政府に対しては様々な感情や軋轢が渦巻いていた。そこで三崎峠同様、連絡が容易な陸路を建設しておけば、火種くすぶる庄内を牽制できると考えたのだ。

 ちなみに三島の「鬼県令」ぶりを皮肉った「人の嘆きを横目に三島それで通庸なるものか」の狂歌は、この工事に参加した庄内の人夫が作ったと伝わっている。


草薙神社と磐根新道碑

草薙地区

 名瀑白糸の滝の対岸、ドライブ・インが建ち、温泉が湧く草薙地区は、磐根新道開鑿によって発展した場所である。
 新道工事の最中、当地で冷鉱泉が見つかった。これをきっかけに工事に携わった者の一部が当地に住み着いたというのが地区の始まりで、草薙の名は三島によるものだ。工事に際し、三島はその成功を最上川右岸の外川(とがわ)に建つ仙人堂に祈願して、「草も木も なぎ払いつつ陸奥の みち踏み分けし かみそ此の神ぞ」の句を詠んだ。岩を削る難工事を、仙人堂の祭神である日本武尊の活躍になぞらえたようで、それが名前の由来となっている。温泉地に神社を建ててしまうあたり、いかにも温泉好きだった三島らしい。

草薙神社

 草薙神社は新道建設を記念して、三島が仙人堂のご神体を勧請して建てた神社である。草薙温泉の向かい側、杉林の間にひっそりと建っており、行くためには陸羽西線を横断することになる。

左側の磐根新道碑 右側の磐根新道碑

 境内には新道開鑿を記念する碑が二つ並んで立っている。
 磐根新道は馬車も通れる近代的な道として完成し、これによって最上地方は、庄内との大量輸送に耐えうる輸送路を得ることになった。最上の人々はこのことに大いに感謝し、三島が山形県令を辞し福島に転出する際、斜子織二匹と感謝の書簡を送っている。
 磐根新道の建設費用は当時の価格で2万6千円ほどだが、そのほとんどは地元負担という厳しいものだった。にもかかわらずこれほど感謝されるということは、それだけ新しい道が待ち望まれていたということでもあろう。
 報恩の念はそれだけに留まらなかった。三島は後年地元の人々によりその功を讃えられ、草薙神社に合祀されている。「鬼県令」はついに神になったというわけだ。

黒杉入口付近から見る最上峡
高屋の黒杉入口から見る最上川の図。その険しさゆえ、最上峡は河川・道路・鉄道がほぼ併走している。

 三島らが手がけた新道はその後国道47号線に昇格し、今なお庄内最上間交通の要路として活躍している。その一方で従来の板敷越えは衰退を迎えた。そして時を経た現在、地元でもその存在は忘れられつつある。


荒木伊左衛門頌徳碑

鮭川の荒木伊左衛門頌徳碑

 あまり知られていないが、三島と並ぶ磐根新道建設の立役者、伊左衛門を顕彰する碑も残っている。碑は伊左衛門の故郷、鮭川村の役場脇にひっそりと立っており、痛みも激しいが、そのかわり、隣に碑文を丸写しした御影石製の碑が建っており、その内容を知ることができる。
 それによれば若い頃には農業指導者より農学を学び地元農業の発展に尽くし、後年には県会議員として活躍、齢71で没したとある。碑に記述はないが、磐根新道も伊左衛門の功績の一つと言えるだろう。


高屋の黒杉と幻想の森

高屋の黒杉

 その後板敷越えの旧道は忘れられ自然に還りつつあるが、以前とは違った形で、板敷越えの森は人々に注目されつつある。

 河童淵を過ぎたあたり、JR陸羽西線高屋駅の手前、案内看板に従い国道脇から小径を数分登っていったところに杉の巨木がある。樹高約20m、幹回りは約15mある。樹齢は1000年と推定され、黒々とした樹皮ゆえ「高屋の黒杉」「土湯の黒杉」と呼ばれている。

幻想の森の幻想大杉

 また、白糸の滝ドライブインのすぐ近く、土湯集落から延びる林道を2キロ強走っていくと、杉の巨木が並ぶ森にたどり着く。どの杉も杉らしからぬ奇木ゆえ、この森は「幻想の森」と呼ばれている。

 この界隈に生える杉の奇木巨木は、土地の名を取って「土湯杉」と呼ばれる。当地の気候ゆえこのような姿になったと考えられているが、詳しい理由は定かでない。ともあれ独特な樹容の土湯杉は、当地の自然を象徴するものとして捉えられている。
 最上峡はその険しさゆえ、豊かな自然を育んでいる。近年、この界隈から日本最大級の巨木がいくつも発見され、ここが日本有数の巨木の森であることが判明し、世に知られることになったのだ。

 急峻な山と巨木の深い森。それゆえ板敷越えは難所となり、それゆえ忘却されることになった。そしてそれゆえに、人々を惹きつけているわけである。

(2006年6月/08年4月/09年4月・5月・6月取材・09年7月記)


案内

場所:最上郡戸沢村と東田川郡庄内町の間。土湯山南。標高629.6m。郡界。

所要時間:
 熊谷神社から山頂まで徒歩で約2時間半。

特記事項:
 稜線に沿う形で東北電力の送電線古口線が併走しているためその管理道が設けられており、これが登山道代わりになる。行くなら雪解け直後から新緑の頃がおすすめだが、残雪期にかんじきや山スキーで歩いても面白いかもしれない。荒井は確認していないが、戸沢村側から登ることも可能な模様。その場合は栃台林道(三ツ沢林道)より、古口線の管理道に取り付くことになる。登山ガイド等に情報が載っていないマイナーな山なので、地形図を準備しておくのが無難だろう。
 旧板敷越えは失われて久しいため、歩くには相当の登山経験が必要な模様。国土地理院1/25000地形図「木の沢」「古口」。同1/50000「清川」。

参考文献

「栗子峠にみる道づくりの歴史」 吉越治雄 社団法人東北建設協会 1999年

「立川町史 上巻」 立川町 2000年

「立川町の歴史と文化」 立川町史編纂委員会 1961年

「戸沢村史 −その自然と人・人」 戸沢村史編集委員会 1971年

「戸沢村史 上下巻」 戸沢村 1988年

「三島通庸と高橋由一に見る東北の道路今昔」 建設省東北地方建設局 1989年

「山形県神社誌」 山形県神社庁 2000年

「やまがた地名伝説 第二巻」 山形新聞社編 山形新聞社 2003年

「やまがた地名伝説 第三巻」 山形新聞社編 山形新聞社 2006年

「山形の国道をゆく みちづくりと沿道の歴史をたずねて」 野村和正 東北建設協会 1989年

「やまがたの峠」 読売新聞山形支局編 高陽堂書店 1978年

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