十分一峠

十分一峠鞍部

 葉山林道入り口を尻目にほんの400メートルほど進むと、路肩が広くなったところが現れる。ここが十分一峠の鞍部である。標高874m、肘折からは約18Km。展望はまったく開けず、ゆるい坂道になっているので鞍部という感じはないが、それは現在の道ができたゆえだろう。古い道は一念寺から大師峠と永松を経てこの十分一峠に至るが、その場合は確かにここがピークにあたる。
 藩政期、永松に出入りする物資には、通行料として荷物の十分の一の税が課せられた。ゆえにこの峠は十分一と呼ばれるようになった。尾花沢と仙台を結んだ軽井沢越えにも十分一の名が見られるが、それも同じ理由であるらしい。どうやら鉱山と縁が深い名のようだ。

峠の標識

 道の脇にはくさぐさの標識が立っている。しかしいつ来てもどれとしててんてんばらばらの方向を向いている。峠は大蔵村と寒河江市の境界で、最上郡と西村山の境界でもある。

外永松の山神碑

 傍らにはひっそりと、山神の碑がある。これは外永松の山神を祀ったもので、大正時代に築かれた。永松銅山では、山の恵みをもたらす存在として神を篤く祀っていた。この山神碑はそうした神のひとつである。


永松鉱山跡

赤沢付近から見る永松鉱山跡

 鞍部からは林道が一本延びている。これが古い峠道で、ここを6キロほど下っていったところ、銅山川のほとりに永松鉱山跡がある。
 永松林道は現在永松に至る唯一の道である。平成22年(2010年)頃までは、治山ダム建設のため大型車が通れる程度に整備されていたが、ダム完成後にほぼ放棄され、廃道化が著しい。倒木が入り口をふさいでいるのを初めとして、随所が激しく傷んでおり、車での通行は困難な状態である。

旧赤沢第二集落跡 赤沢の清水跡

 林道を下っていくと、銅山川と支流赤沢が合流する場所に出る。このあたりは「長屋」こと鉱員住宅が建ち並ぶ居住区だったところだ。坑道を初めとする銅山の主要施設は銅山川を渡った対岸の、大切と呼ばれる場所にあった。
 林道がまだ車で通れた頃には縁者有志の出入りがあって、このあたりの草刈りなどされていた。花壇や湧き水も整えられていたのだが、今や誰も手入れすることもなく、すっかり荒れ放題になっていた。

2005年当時の赤沢の清水の様子

 同じところの平成17年(2005)の様子。このときはまだ草刈りも行き届いていて、水も湧いていた。この水はまだここに人が住んでいた頃、飲み水として使われていたものだった。

吊り橋の橋脚 対岸のズリ山

 藪をかき分けて川に出てみると、居住区と大切を結んだ吊り橋の橋脚が残っている。本体はとうの昔に崩れ落ち、ここから対岸に渡ることはできない。川向こうに見える黒や赤茶の礫はズリ山で、露出した山肌は、精錬の煙害の痕らしい。
 山深く水量豊かな銅山川は渓流魚の宝庫で、子供たちの格好の遊び場でもあった。永松で育った古老の方々は、夜にカーバイドランプを点けヤス(銛)を片手によくイワナ突きに行ったとか、学校の先生も一緒になって夢中でイワナつかみをしたとか、手づかみで大物を捕まえたものだよと、川遊びの思い出をさも楽しそうに語ってくれる。今も銅山川は知る人ぞ知る渓流釣りの名所で、アングラーの憧れを集めているらしい。

沈殿池のコンクリート遺構

精錬所遺構

精錬所跡から赤沢を見下ろすのた図

 川の向こうには、沈殿槽や精錬所の跡など、銅山施設の土台がいくつか残っていたりする。晩秋にもなれば、退けた藪や草木の下からかつての遺構が現れる。半ば朽ち果てたコンクリートの残骸を眼前にすると、時の流れの無情さと人の世の無常さに言葉を失うよりほかにない。ここに大鉱山があったことの、はかなくも確かな証拠である。


寒河江側の快走路

寒河江側鞍部直下の様子

 峠を越えれば寒河江市に入る。寒河江側は完全舗装路で、路面状態はすこぶる良い。大蔵側ではあまり見なかったガードレールもある。

山並みの向こうにわずかに見える西村山の盆地

 鞍部直下には、藪が開けてわずかに西村山の盆地が見えるところもある。十分一峠に里が望める場所はほとんどない。

寒河江側の快走路 コレまでの未舗装区間が嘘のよう

 カーブこそ多いが、これまで走ってきた道に比べればまったくの快走路。実は峠に行くだけだったら、寒河江側から登ってきた方が断然早い。寒河江の方が整備が進んでいるのには、距離的に肘折より寒河江の方が近いことはもちろん、索道や鉄道が西村山側にあったという歴史的事情も関係しているのだろう。

めおと沢橋

 めおと沢橋なる小さな橋を渡る。橋そのものは昭和36年(1961年)にできたものだが、平成24年(2012年)に補強工事を受けている。


育種実験林

育種実験林

 右手に森林管理署の実験林の看板が現れた。ブナやケヤキなどを植えているらしい。公的に管理された森らしいのだが、人の手が入っているというかんじはあまりしなかった。


すごいカーブ

寒河江側180度のヘアピンカーブその1

その1に続くヘアピンカーブその2

 ひたすら舗装路を下っていくと、180度のヘアピンカーブが現れた。一度目のカーブをクリアすると、道はこの先で再び180度のカーブを描く。
 峠を境に、銅山川の水系から、熊野川(ゆうのがわ)に変わる。二つ目のカーブの谷底は、熊野川の上流にあたる。


最初のおにぎり

国道458号線の標識出現

 峠を越えて寒河江側にだいぶ下ってきたところで、ようやく「458号線」の標識を発見。改めて言っておくが、十分一峠はれっきとした国道である。


最後の林道

最後の林道

 寒河江側に下って以来ほぼ快走路が続いていたが、ここに来ていきなり荒れ路面が現れた。かつてはこの付近から未舗装区間が3キロばかり続いていたが、21世紀になった頃にすっかり舗装され、寒河江側の未舗装区間はほぼ姿を消した。
 距離にして数十メートル程度なのだが、舗装化された以降も、なぜかここだけろくに舗装もされず、荒れ路面のままになっていた。


湯殿山碑

銅山橋手前のカーブ 幕末の湯殿山碑

 道はあっけなく舗装路に戻る。あるカーブにさしかかると湯殿山碑が見えてきた。幸生銅山の隆盛を願い、幕末の嘉永年間に建てられたものらしい。ついでに明治維新の頃には、戊辰戦争で敗れた桑名藩士がこの峠を通って寒河江に逃れたという話が残っている。

銅山橋 どこから入れるか分からない垂水歩道入口

 銅山橋なる小さな橋で熊野川を渡る。橋を渡った先には「垂水歩道入口」なる標柱があるが、人が歩いて行けそうな道は見つからなかった。

幸生銅山手前の様子

 コンクリート柵で山側が保護されたカーブを行く。橋を渡ると国道は熊野川を見下ろしながら進むようになる。

幸生側ゲート

 カーブの出口にはゲートがある。ここが通行止め区間の出口にあたるようだ。


幸生銅山跡

幸生銅山跡

 ゲートの先には小さな広場がある。このあたりが、かつての幸生銅山である。永松とともに経営されていた山だ。現在は川の向こうにわずかに遺構を望める程度だが、往時には永松同様長屋や小学校なども建ち、大規模に操業されていた。
 幸生銅山の歴史は天和2年(1682年)、地元の名主才三郎が、当地に銅鉱脈を発見したことに始まる。大阪商人泉屋吉左衛門のもとで17年間操業された後、鉱害に苦しむ地元百姓らの要望により一度閉山、100年ほどの沈黙の後、寛政年間に幕府直轄の銅山として復活する。以後休山と操業をくり返しながら採掘が続けられたが、本格的な繁栄をみるのはやはり明治期、古河市兵衛の手に渡ってからだ。市兵衛が幸生銅山を経営するようになったのは明治8年(1875年)のことで、永松よりも先である。
 永松が古河の傘下に入ると、やがて幸生は永松の支山として運営されるようになった。両山の一体経営は昭和36年(1961年)まで続き、幸生も永松とともに閉山となった。永松同様、寒河江近辺にはかつて幸生銅山に住んでいたという方や、家族が銅山で働いていたという方がけっこういる。

「幸生銅山回想」看板

 片隅には「幸生銅山回想」の大きな看板が建っている。2010年(平成22年)頃、地元幸生地区によって設けられたもので、往年の操業時の写真と共に、幸生銅山の沿革が記されている。

藪に埋もれる幸生銅山共同墓地

 広場の反対側の道端は墓地で、小さな石塔が多数立ち並んでいる。ここにはかつて幸生銅山で働いた名も無き人々が眠っている。

いつもはこれくらい刈り払いされてます

 取材時は藪の茂みに埋もれていたが、定期的に刈り払いなどもされ、今でも供養祭が開かれている。刈り払われていると石塔がずらりと並んでいるのがよくわかる。

幸生銅山中和用沈殿池

 川を隔てた対岸にコンクリート製のプールが見える。これは鉱毒中和用の沈殿池。現在でも中和処理が、ひっそりと続けられているという。
 幸生銅山跡は基本的に立ち入り禁止である。橋を渡って対岸に行ったり、無断で鉱山跡を探索するのはやめよう。


熊野川

昔はこのへんも未舗装路でした

 銅山からは熊野川に沿いながら峠道を下っていく。このあたりは細くて見通しの利かない区間が続く。

柴倉澤橋

 何度か小さな橋で川を渡る。多くは昭和40年代に架けられたものだが、どれも平成20年代に補修されていた。

杉林を行く 熊野川と併走

 下るうちあたりには杉の木が目立ってくる。植生のせいか沢が近いせいか、このあたりの道はずいぶん暗い印象を受ける。

川端のお堂

杉林の合間の川端に、小さなお堂を発見。資料や近くの橋の名前から察するに、不動明王を祀っているものと思われる。

国道112号まで10Km

 「国道112号まで10Km」の標識と遭遇。ここまで来れば里は近い。


砂防ダム

峠出口の砂防ダム 冬季閉鎖区間の案内標識

 やがて左方面の林が切れて、小さな砂防ダムが見えてくる。ダムの脇には通行止め区間を示す標識が建っている。ここを過ぎれば民家が現れ、うら寂しい峠道は終わりを告げる。


追分碑

宮内の追分碑

 最後にこの道が昔からあることを示す石碑を紹介して終わりにしよう。寒河江市宮内地区の、国道458号線が国道112号線と合流するところに、追分碑が建っている。以前は少し南の旧六十里越街道沿いにあったものだが、それを当地に移転したものらしい。刻まれた文字は「これより右 はやまさちう村道 左 湯殿山庄内道」。これは月山を越えて西村山と庄内を結ぶ六十里越街道と、十分一峠の分岐を示している。

 一年の半分以上が雪に閉ざされる山奥の峠道であっても、開通すれば待ってましたと訪れる人々がいる。信仰の山、日本最後のダート国道、日本屈指の大鉱山の名残。今なおそこを人が通るのには、そうなるだけの理由がある。

(2005年6月/2009年6月・10月/2011年10月/2012年7月・10月/2015年6月・7月取材・2016年5月記)


案内:

場所:
最上郡大蔵村肘折と寒河江市幸生の間。国道458号線。鞍部標高874m。郡界。

地理:

所要時間:
肘折側ゲートから鞍部まで自動車で約40分。鞍部から幸生側ゲートまで約20分。鞍部から永松銅山跡まで徒歩約1時間半。

特記事項:
 冬期通行止め区間通行規制あり。連続雨量が150mm到達時通行止め。11月上旬頃から冬季通行止め。毎年6月頃に冬季通行止めは解除されるが、雪崩や崩落等ですぐには通れないことが多い。開通している時でも工事などの手が入っていることがある。
 一部未舗装区間あり。峠区間に民家や商店の類いはない。全体的に見通しの悪い隘路が続くので、通るならそれなりに準備してから臨むこと。国土地理院2万5000分の1地形図「肘折」「葉山」「海味」、同5万分の1「月山」「左沢」

参考文献:

「大蔵村村史 通史編・集落編」 大蔵村史編さん委員会 1999年

「永松銅山・幸生銅山図録」 寒河江市教育委員会 2010年

「永松物語 ―銅山への鎮魂賦―」 大友義助 2012年

「山形県鉱山誌」 山形県商工労働部商工課 1977年

「山形県歴史の道調査報告書 六十里越街道」 山形県教育委員会 1980年

「やまがたの峠」 読売新聞山形支局編 高陽堂書店 1978年

「永松通信」各号 永松の会

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