ほどなく沢筋を離れ急カーブを曲がると、道は妙に整った直線になった。一見何もなさそうなところだが、このあたりが峠道の中間地点にあたる。かつては一念寺と呼ばれる寺があって、峠の要地となっていた。
例の急カーブをよく見ると、分岐のようなものが伸びている。今はすっかり藪に埋もれているが、古くはこれが峠に至る道だった。
道の南側の茂みをかき分けてみると小さな池がある。周囲を固める石積みで、人為的に作られたものであることがわかる。
この池は上葛掛沢付近にあった製材工場の貯木場だったらしい。現在はすっかり自然に還ってしまい、あたりの木の枝々には、モリアオガエルの卵塊がぶら下がっていた。
道路の北側にも枝道が延びている場所がある。これが件の一念寺に通じる道。寺はここを2〜300メートルほど進んだところにあったという。寺院付属の墓石なども残っているらしいが、行ったときは夏場ゆえすっかり藪に埋もれており、どこにあるのかわからなかった。
一念寺を出るとすぐに「床屋沢」なる場所が現れる。別にこのへんに床屋があったということではないらしい。このへんは秋になると紅葉が見事である。
これが秋の様子。十分一峠は知る人ぞ知る紅葉の名所でもある。十月のよく晴れた日など、開通しているとけっこうな数の車が行き交っていたりする。
埋もれかけた小さなコンクリート橋を渡る。ここから峠は後半に入る。
床屋沢を出るとほどなく、道は深い谷と併走する。対岸には山々が連なり、深山に入ってきた感を強くさせる。
この谷は源内沢という。その名は峠の歴史に名を残す人物から取られたものである。
路面は深山であることが信じられないほどきれいに舗装され、法面もコンクリートできっちり固められていたりする。しかしガードレールなんてものは設置されていないため、道を踏み外したら谷底まで真っ逆さまだ。通行にはくれぐれも注意しよう。
例によって秋の様子。このへんの山々も秋になると真っ赤に紅葉する。
源内沢の一番奥まったところは葉山の登山口になっている。カーブのところは車が何台か駐められる広場になっていて、入り口を示す標柱も立っている。
傍らの茂みをかき分けてみると水場もあったりする。
登山口を過ぎると急にカーブが増え、勾配も少しきつくなる。あいかわらずガードレールのない道が続くので気をつけよう。
このあたりからは鳥海山が見えることもある。本当に天気に恵まれたときでないと見えないので、見られたらかなり運がいいと喜ぼう。
かくて山道を進むうち、「大師峠」の標識が現れた。標高は880mほど。肘折から約12.5kmほどの地点である。
大師峠の名は、慈覚大師がここを通ったことに由来するという。もともとは中小屋から十分一峠に向かう道―さっき一念寺で見たカーブから伸びる古道―の途中にある峠の名で、国土地理院の地形図では、そちらの方にその名が記されている。
現在の峠は旧大師峠の南東方向、旧峠に連なる尾根筋が国道と交わるところにある。現在の道ができるに従って、その名が遷ったものらしい。現在一念寺から十分一峠に至る区間は、昭和41年(1966年)から同56年(1981年)にかけ、自衛隊の協力のもと建設されたものである。現在の道は古道の南側を通っている。昭和48年(1973)に寒河江市幸生から葉山地内までが開通し、同56年(1981)に肘折までの全線が開通した。
国道458号線は、山形で最も新しい国道である。昭和末期から平成初頭にかけ、大蔵村を初めとする県内で国道が通っていない自治体が中心となり、運動を進めた結果、数本の県道をつなぎあわせて昇格させるという形で、平成5年(1993年)に誕生した。
峠区間はもともと主要地方道新庄大江線こと県道の一部だったのだが(記録によれば県道指定は昭和29年(1954)のことらしい)、そういう経緯で日本屈指の「酷道」となった。
大師峠は90度にカーブした切り通しとなっている。カーブを曲がると、すぐに月山が見えてくる。道はいよいよ深部に近づく。
大師峠から200メートル程進むと舗装が途切れ、道は再び未舗装路へと変わる。峠の未舗装区間は大きく二つ残っているが、二つ目の区間はここから始まる。
こちらの未舗装区間は簡易舗装もされておらず、まさに路面に小石が転がる砂利道だ。とはいえガレているわけでもなく、比較的状態の良いフラットダートである。
国道458号線の未舗装区間は、その筋の愛好家にはその名を轟かせる名所だ。なぜか県外ナンバー車との遭遇率も高い。わざわざ走りに来るという人も多いようだ。
こんなヘアピンカーブもいくつか存在する。フラットダートとはいえ、幅員はそれなりに狭く、見通しの利かないカーブも多い。酷道であることに違いはないので、走行には十分気をつけよう。
北の方を見ると、二つの小山が並んでいるのが見えた。小山の鞍部が旧大師峠らしい。近くには古い石碑なども眠っているそうだが、藪がひどいため、近づくのは現在至難の業である模様。その昔大師峠には、古狸が化けたという六尺の一つ目入道が出没したというが、今となっては確かめるのも大変そうだ。
それはさておき未舗装路はまだ続く。進むうち路面が荒れた箇所もちらほらと。
「この先段差あり」の看板と遭遇。看板の先で道は少し細くなり、路肩には申し訳程度にガードレールが設置されている。取材当時、未舗装区間はこのあたりが一番荒れていた。
看板を過ぎるとすぐ、再び立派な舗装路に変わった。二つ目の未舗装区間はここまで。距離にして3キロ少々。酷道マニアにはたまらない区間だが、カーナビなどで連れ込まれた一般ドライバーにはたまったものではない区間でもある。
立派な舗装路を進むうち、林野庁の看板が立つカーブにさしかかった。向こうには月山がよく見える。ここは峠でもっとも展望が良い場所で、「見晴台」と呼ばれる。
月山の手前に広がる緑の谷は永松と呼ばれる場所である。谷底には峠の入り口で見た銅山川が流れているが、緑が深くてここからは見えない。
「銅山川」の名のとおり、かつてこの谷間には日本有数の銅山「永松銅山」があった。
銅山の始まりは江戸時代初頭にさかのぼる。慶長16年(1611年)、白岩領間沢村(現在の西川町間沢のあたり)の住人、荒木源内が烏川奥・永松の地に銅鉱脈を発見した。永松一帯の山林の権利を持っていた阿吽院の許可のもと、源内は採掘を開始。新たに新庄に入部してきた戸沢藩も、有望な銅山として開発を奨励した。源内沢の名は、もちろんこの荒木源内にちなんでいる。中小屋は銅山で使う物資の中継所で、一念寺は銅山で働く人々の菩提寺となっていた。「床屋沢」の名前もおそらく、銅山があったことに由来するのだろう。
銅山はその後何度かの事業主交代や休山を経ながらも操業され、藩政期を通じて、重要な財源として戸沢藩の台所を支え続けた。最盛期には3000人もの人々が住み、元禄年間(17世紀末)には、日本三位の産出量を記録したという。山中には至るところに人が住み、銅山で使う炭を焼くため炭窯も多数築かれた。銅山に至る道は冬でさえ踏み固められ、かんじきを履く必要も無かったとか。採掘された銅は清水河岸まで運ばれた後最上川舟運で酒田まで運ばれ、さらにそこから日本海西廻り航路で大坂に運ばれていった。
しかし銅山が本格的な繁栄を迎えるのは明治以降になってからである。明治24年(1891年)、永松銅山はすぐ南の幸生銅山とともに、古河市兵衛の経営下に入った。古河により様々な技術や最新設備が導入され、銅山は一気に近代化した。周囲には経営や採掘に従事する人々、その家族が多数住まうようになり、この山奥に、かつてない活況が訪れる。
古河市兵衛は明治期の鉱山王で、後の古河グループの創業者、古河財閥の基礎を築いた豪傑である。財閥の中核をなす古河鉱業(現・古河機械金属株式会社)は、草倉・足尾といった大鉱山を傘下に抱えていた。いわば当時の超一流企業である。幹部はエリート揃いで、そんな人材が中央より続々と銅山に送り込まれてきた。
彼らが洗練された都会の文化を持ち込んだおかげで、銅山は近代都市のような有様だったという。山形でもいち早く電化され、県庁所在地でも封切られていない最新の映画が無料で観られた。町でさえあまり見かけることのないケチャップやソースといった調味料も使われていたという。山奥でありながら、望めば新鮮な刺身も食べられた。
古河鉱業の福利厚生は手厚く、子女の教育にも力が入れられていた。明治33年(1900)にはさっそく小学校が設けられている。生徒の成績は優秀で県下トップクラス、野球チームは立派な用具やユニフォームを備え、スキーチームは強豪として鳴らしていた。銅山の腕利き技術者たちはスキー板を自作して、そのできばえを競い合っていたと聞く。
銅山の暮らしを支えていたのは索道だ。大正6年(1917年)に完成したもので、幸生銅山を経由して寒河江市白岩と永松を結んだ。大型機械から日用品に至るまで、山で使う資材一般の輸送を担っていた。
秋晴れの月山。月山が3回白くなると峠に雪が降り、永松も長い冬を迎えるという。
とはいえ永松は葉山と月山の間の山奥にあり、里へは遠い。冬になれば大雪に閉ざされ、猛吹雪で一歩も外に出られないということもたびたびだった。そんな場所で人々は常に命の危険と隣り合わせの過酷な鉱山労働に従事していた。銅山で働く人々は、「友子」と呼ばれる独特の互助制度によって結束し、暮らしを営んでいた。そんな彼らの結束がうかがえるのが各種行事で、特に盆踊りや運動会は山を挙げて盛り上がっていた。
銅山には悲しい歴史もある。採掘中の事故で命を落とした人々は数知れない。冬の永松は雪崩の巣で、これに巻き込まれて人が死ぬということもあった。雪崩を避けるため、冬の間だけ、子供たちは作業用のトンネルを通って学校に通っていたという。また、古くは銅山川は「烏川」と呼ばれていた。「永松物語」では、カラスのように黒い鉱毒水が流れる川だったのではないかと、ここも鉱害と無縁でなかったことをほのめかしている。
忘れてならないのは朝鮮人の強制労働だ。昭和から戦時にかけて増産が急務となり、大陸から数多くの朝鮮人が連れてこられた。課せられた激務に堪えかね、脱走を図る者も多かったという。地元村人が追っ手から脱走者をかくまったとか、終戦時には朝鮮人らが広場に飛び出して喜んだという話も伝わる。
ひところは都市のような様相を呈した永松にも、やがて衰退の時が訪れる。戦後、鉱脈の枯渇にともない産出量が減少し、徐々に操業を縮小していく。そして昭和36年(1961年)、ついに閉山。それまで銅山で暮らしていた人々は、全員が山を離れることになった。
閉山直前の冬。当地にあった永松小中学校校舎が火災で焼失するという事件が起きた。原因は不明。それは住民にとって、銅山の終わりをまざまざと感じさせるできごとだったに違いない。
燃え尽きる迄は立ち去らぬ村人の目にカラカラと風速計見ゆ
元永松中学校教諭 安孫子誼
そして山には誰もいなくなった。主を失った建物は半年も峠を覆い尽くす豪雪によりことごとく潰れ、遺構は藪に埋もれた。かつての山上都市はこうして姿を消していったのだが、それでも住んだ人々の思いは消しがたく、峠が開通しているときなど、見晴台から故郷を望む人の姿を見かけることがしばしばある。
見晴台の脇からは藪っぽい小径が延びている。注意深くたどっていくと、妙に黒っぽい砂利の山の上に出る。ここは「゚坂(カラミざか)」と呼ばれており、永松銅山から出た「゚」(カラミ=ズリ・鉱石滓)が積もってできた場所らしい。地形図にぱ坂を経由して永松銅山跡に至る道が記されているが、途中で藪に埋もれて通行できなくなっている。
見晴台を出てからも快走路は続く。法面の土砂が少し崩れている箇所もあったが、このあたりはおおむね程度が良い。
峠に近づいたあたりに大きな分岐点がある。これは葉山に通じる林道だ。4キロほど進んだ先には葉山への登山口がある。通称十分一峠コース、葉山山頂への最短経路として知られている。このときは林道が激しく傷んでいたらしく全線通行止めで、補修工事の大型ダンプが出入りしていた。
十分一峠には葉山登山道への取り付きとしての性格があるので、通れるようにしておく必要があるのだろう。