亀割峠

 最上峡から新庄・小国川を経て鳴子に至る線は源義経主従逃避行の道として知られており、沿線にはいくつもの伝説が残っている。亀割峠(かめわりとうげ)は、そんな義経伝説の舞台のひとつである。


休場と判官神社

休場

 亀割峠は最上小国川北岸にそびえる亀割山を越え、新庄市と最上町瀬見を結ぶ峠である。新庄側の峠下にあたる休場(やすんば)地区にも義経伝説が残っており、峠を前に、さっそく主従の足跡に触れられる。

 文治3年(1187年)、九郎判官義経は源平合戦での華々しい活躍により、かえって兄源頼朝より疎んぜられ、追われる身となっていた。義経は武蔵坊弁慶、常陸坊海尊(ひたちぼうかいそん)、愛人北の方といったわずかな家来とともに京の都を脱出し、奥州へと落ち延びていった。目指すは平泉、奥州藤原氏の本拠地である。当時藤原氏は中央も一目置くほどの勢力を誇っており、頼朝といえども容易に手出しはできなかった。また、義経は少年期に三代目当主の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)に保護され、かわいがられていたことがある。義経は恩人秀衡の庇護のもと捲土重来を期そうと、逃避行を試みたわけである。
 鼠ヶ関より出羽にやってきた一行は、追っ手を避けるように笠取峠・由良峠を越え、最上川を上り、新庄へとたどり着く。そして奥羽越えを前に亀割山のふもとで休憩した。それにちなんで一行がひと休みした場所は「休場」と呼ばれるようになり、その名が現在に伝わっているのだという。

休場の判官神社

 実際のところ休場の地名は、山仕事に携わる人々がここでひと休みしたことにちなんだと考えられているが、一方で義経由来の説も広く人々に親しまれている。それは休場に義経を祀る判官神社があることに、端的に示されている。ちなみに神社は義経の指の跡が付いたという石をご神体として祀っている。この近辺、こうした義経伝説には事欠かない。


峠口

曲川林道 休場側亀割峠登山道入り口

 峠道は亀割山の登山道となっており、現在でも登れるようになっている。今回紹介するのはこの亀割山登山道だ。峠口は休場から新田川に沿ってさらに上流、曲沢林道を1.8キロほど奥に入ったところにある。

亀割峠登山道の看板

 峠口には「亀割峠遊歩道」の看板があるので、一目でそれとわかる。ここまでは自動車でもやってこられる(むしろ自動車の方が行きやすい)が、峠道は当然のように自動車通行不可なので、ここで車を降り、峠へは歩いて登っていくことになる。


登り道の様子

登山口付近の上り坂 のっけから急な登り

 登山道はのっけから急である。新庄側は細かな稲妻形を描くような道が、ひたすら峠まで続く。道自体は踏み跡もしっかりしているので、迷うことはまずなかろう。

三角山遠望

 登っていくと、やがて北側に三角山が見えてくる。山頂のテレビ塔も、ここまで来ればだいぶ大きく見える。


案内標識

中腹にさしかかる

 中腹にさしかかる。薮や杉がちな植生が変わり、広葉樹が目立ってくる。

案内標識

 標識を発見。山頂までの距離を記したものらしいが、風化が進み何が書いてあるかは判然としなかった。ここを過ぎると本格的な登りにさしかかる。


崖っぷちを渡る

崖っぷちを行く

 道はさらに急になる。一歩踏み外せば即崖っぷちという、気の抜けない難所が続く。

崩落箇所間際を渡る

 谷側が大きくえぐれた箇所に遭遇。過去に地すべりでもあったのか。

ひたすら急坂が続きます

 立ちはだかる急坂。新庄側は尾根道なので、こんな急坂が続く。こりゃ北の方がにわかに産気づくのも無理はない。
 ちなみに取材に行ったのは30℃を超す真夏の某日。猛暑に体力を削られる苦しい峠行となった。道中、すれ違った人はひとりも無し。こんな時に好きこのんで里山に行く奴はなかなかいないらしい(泣)。


山頂まで500m

山頂まで500m

 延々と続く急坂を登るうち、再び標識が現れた。山頂まで500mの表示に少々気が楽になる。

でもやっぱり急坂です どれだけ登れば気が済むの

 でもやっぱり、急な登りが待っていることに変わりはない。


日向の薮

日向に茂るヤブ

 ひたすらひたすら登っていくと、薮で道が埋もれているところに遭遇。あまり人が来ないのをいいことに、日当たりのいい場所を選んでこれだけ薮が茂ったものらしい。道を見失う心配は少ないが、やはり踏み跡が見えないと不安になる。


山頂間近

ヤブを抜けたところ

 薮はほんの少しで途切れた。踏み跡を見てほっとする。

トンネルの先に青空が

 鞍部目指して緑のトンネルをつき進む。木の隙間からはかすかに青空が見え、峠が近いことを感じさせる。

山頂間近

 とうとう林が途切れた。目の前には待望の青空が。


鞍部

亀割峠鞍部

 ついに鞍部に到着。登山口からは一時間ほどの登り。周辺には高い木もなく、草もきれいに苅り払われており、峠は開放的な雰囲気である。

無線中継局

 峠には国土交通省の無線中継局がある。鞍部は新庄市と最上町の境になっている。両方に展望が開ける峠ゆえ、互いに電波をとばすにはうってつけなのだろう。
 亀割峠は新庄と最上町を最短で結ぶ道である。現在峠下を通っている国道47号線亀割バイパスはその地の利に注目して作られたものだが、その計画にまつわるこんな笑い話がある。
 昭和30年(1955年)頃、当時の新庄市長木田清は、新庄と最上町を結ぶ新しい自動車道の候補地として亀割峠に注目し、県や国に陳情を繰り返していた。そんなある日県の担当課長を招き、休場から瀬見まで歩いて亀割峠を越えてみようということになった。
 木田は最上町の出身で、小さい頃には小学校の遠足で亀割峠を徒歩で往復したことがある。その思い出があるせいか、簡単に歩けるものだろうと服装も改めず、軽装で峠越えを決行したのだが、そのおかげで大変な難儀を強いられた。瀬見にたどり着く頃にはすっかり夜遅く、ひどい目に遭わされた課長は当然カンカンになって市長に文句を言ったが、ところが市長も市長なもんで「亀割峠はもともとこういう道なんだ!」と笑い過ごしたそうな。
 課長が怒ってしまったせいかは知らないが、市長の計画が実現したのは、だいぶ時代が下った平成4年(1992年)のことである。亀割の名こそ付いているが、バイパスは峠の相当南西側にあり、厳密には亀割峠を通っているわけではない。最短であっても、やはり亀割峠は急すぎて、自動車道を作るのは難しかったようだ。

瀬見遠望 松原橋と長沢遠望
峠からの展望。左が瀬見で右が長沢。

 鞍部からは南方の展望がよい。南西には舟形町の長沢と国道47号線の松原橋が、南東には瀬見の集落が見える。義経一行も峠からの光景に心慰められたのだろうか。

大焼黒山

 真南には大焼黒山(おおやきぐろやま)が大きく見える。亀割山と大焼黒山のなす谷間には、最上小国川が流れている。最上町がかつて小国郷と呼ばれていたことはたびたび述べてきたが、小国の名は川の名前として残っているわけだ。

 亀割山の名前のいわれとして、こんな伝説がある。
 その昔、小国郷は大きな湖だった。湖には大蛇と大亀が棲み、我こそ湖の主と言い張っていた。ある日ばったり出くわした二匹は、自分こそ主であるとどちらも譲らず、とうとう争いになってしまった。二匹は水煙を上げ渦を巻きながら激しくぶつかりあい、いつ果てるともなく争い続けたが、やがて大蛇の勢いが大亀を押していった。
 負けそうになった大亀は、悔し紛れに「主の座はお前にくれてやる。そのかわり湖の水は俺の物だから全部もらっていくぞ!」と大蛇に言い放つや、湖の西にそびえる山を突き破り、そこから逃げ出した。大亀によって湖は決壊し、水は残らず外へ流れ出してしまった。かくて湖が干上がった跡には地面が現れ、後の小国郷となった。そして故事にちなんで大亀と大蛇が争った場所は「戦沢(たたかいざわ)」、亀が壊した山は「亀割山」と呼ばれるようになったのだという。小国川はさしづめ亀が逃げた跡である。

 亀割山は向町カルデラ西の果ての峡谷、小国川が舟形町へと流れ出すあたりにあって、大焼黒山と向かい合い、水門のようにそびえている。小国川は亀割山を過ぎると舟形の盆地を潤しながら町を東西に貫流し、最上川へと注いでいる。
 ついでに小国川の亀割山から最上川に至る区間では、よく鮎が獲れる。特に舟形町ではこの鮎を町の売りとしており、毎年夏になると鮎目当ての太公望らが釣り糸を垂れている光景があちこちで見られる。


亀割山山頂

亀割山山頂

 無線中継所の脇からさらに登り道が延びていて、こちらを3分ほど登り詰めると、亀割山の山頂に着く。標高は539.9m。追っ手を気にする道中でもなし、ついでに寄れる距離なので、峠に来たらぜひ山頂にも登っておこう。比較的気軽に登れる山なので、今でもそれなりに人が来るようだ。

杢蔵山と八森山

 山頂からは北に神室連峰が望める。特に目の前には、杢蔵山(左)と八森山(右)の頂が二つ並んで間近に見える。この日は天気が良かったので、東には向町や花立峠さえ望むことができた。

三角山とテレビ塔

 杢蔵山の左には、来るときにも見た三角山。テレビ塔がさらに大きく見えている。

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