峠の風景をひととおり楽しんだところで、瀬見側へと降りていく。瀬見側も道跡ははっきりしている。
斜面の重力に負けたのか、根っこから派手に倒れた木と遭遇。瀬見側は急斜面を横断する場所が多いので、足を踏み外さないよう気をつけよう。
今度は杉の倒木が道にかぶさり門になっていた。腰をかがめて通り抜ける。
鞍部から20分ほど下っていくと、小さな沢と交差する。沢水は十分飲めるほど澄んでおり、水場として利用できる。取材した日は特に暑かったが沢水はぬるみもせず、酷暑にやられた身には非常にありがたかった。
新庄側から峠越えを試みる場合、ここが最初の水場となるので、水は充分に用意しておこう。また、瀬見側から登ってくる場合、ここが最後の水場となる。
水場を出ると程なく、苔むした石が並ぶ広場こと「奥の院」と呼ばれる場所に出る。義経主従の亀割越え伝説は、ここで山場を迎えている。
もともと義経一行は、新庄から羽州街道で舟形に出て、そこから小国を目指すつもりだった。ところが羽州街道と小国川が交わるあたりに「一の関」なる地があることを知った一行は、関所の存在を予期して急遽別の道を探すことにした。そこで一行が選んだのが、他でもない亀割峠の道だった。亀割峠は急峻だったが、他に通れそうな道はない。一行はやむをえず、亀割峠を通ることになったというわけだ。
特に北の方は義経の子を身ごもっており、身重の体でのきつい峠越えを余儀なくされた。そのためか峠越えの最中に産気づき、山中でお産をすることになったのだ。
心許ない山中ではあったが、大木の下の広場に皮を敷いて急ごしらえの産屋とし、北の方は無事若君を出産する。若君は当地にちなんで「亀若丸」と名付けられた。
その北の方お産の舞台となったのが、この奥の院なのだという。奥の院には亀若丸を寝かしたという子枕石や、弁慶が記念に植えたという弁慶杉が残っているが、例によって伝説がどれほど真実を伝えているかは定かでない。もともと山中にあった広場に、後世の人間が悲劇の英雄を慕い、伝説を当てはめたというのが妥当だろう。
一角には石造りの観音様や小さな祠、それに伝説を記念した石碑なども建っており、人々が義経に寄せた憧れや判官贔屓の心が読みとれる。
奥の院を出ると、道は整った森の中を下る。
奥の院から少し下ると、二つ目の沢と交差する。さっきの沢より大きいが、こちらの沢も水場として使える。この峠、新庄側では全く水が得られないが、一転して瀬見側では潤沢に得られるので、往復する場合には非常に助かる。
水場を出発して程なく、道の幅だけ切り取られた倒木と遭遇。ここからしばらく、道は緩やかな下りとなる。
よく整った杉林。峠からだいぶ下りてきたようだ。
穏やかな平場。これまで険しい道のりが続いただけにほっと一息。
「山頂まで1500m」と書かれた標識を発見。ふもとまではもうすぐだが...
瀬見に近づいたと喜ぶのもつかの間、難関は最後にまとめてやってきた。峠道は瀬見の直前で激しい九十九折りを繰り返し、急に高度を下げていく。
さらに林が切れたところには、激しく薮が茂っていた。本当に瀬見の直前かよ!
しかし薮の切れ間からふもとを見れば、国道47号線と弁慶大橋がしっかり見えた。
背の丈ほどの薮が行く手をふさぐ。薮と九十九折りの混成攻撃に危うく道を見失いかける。
薮をかきわけだましだまし前進すると、再び道らしい道に出た。
そして程なく最後の関門が現れる。峠道を横切るのは鉄道陸羽東線だ。「あぶない!せんろにはいってはいけません!!」の看板があるものの、進むためにはイヤでも線路を横切る羽目になる。十分に注意しながら渡りましょう。
線路を渡り、民家の裏手を進む。ここまで来れば出口は目の前。
かくして瀬見に到着。亀割峠は新庄と瀬見を結ぶ道では最も距離が短いので、こうして歩いて瀬見まで来られるのはもちろん、ちょっと足に覚えがあれば、新庄との日帰り往復も余裕でできる。
瀬見側の峠口には子安観音堂が建っている。観音堂は大蛇と争った大亀を祀っており、北の方の伝説にちなんで安産や子宝に御利益があると謳っている。
亀割山にはもうひとつ、北の方のお産にまつわる伝説がある。北の方のお産に際し、水を得るため弁慶は携えていた法螺貝を地面に突き立て祈願した。すると水が湧きだし、法螺貝は子安貝になった。その後山中でときおり見つかる子安貝は弁慶由来のものとされ、安産のお守りとして珍重されるようになったそうな。
峠下の瀬見は、温泉地として知られている。小国川に臨む一角には温泉宿や共同湯が立ち並び、古くから湯治場として利用されてきた。この瀬見温泉の始まりにも、義経伝説が関わっている。
若君が生まれるというので、産湯が必要になった。湯を求めて弁慶が亀割山を下っていくと、小国川のほとりから湯気が立ち上っているのを見つける。もしやと愛用の薙刀であたりの岩を断ち割ると、果たして岩の割れ目から、勢いよく湯が噴き出した。弁慶が発見した温泉で若君は無事産湯を使い、一行も当地にしばらく滞在し、北の方の回復を待って再び平泉へと旅立っていった。
このとき弁慶が湯を見つけた土地は、愛用の薙刀「蝉丸」にちなんで「瀬見」と呼ばれるようになり、温泉は地元在郷の人々に広く親しまれるようになったというのが、瀬見温泉の開湯伝説だ。
共同浴場の裏手から小国川に下っていったところにある「薬研の湯(やげんのゆ)」は、弁慶が見つけたとされる露天湯だ。湯船が浅く湯はかなり熱い。何より記念碑としての意味が強いため、こちらは見るだけに留めておこう。
休場や瀬見の他にも、ようやく敵地を脱した安堵で亀若丸がはじめて泣き声を上げた地だから「鳴子」だとか、北の方が用を足した場所だから「尿前」だとか、義経主従逃避行の道となった小国川沿線には、実にこうした伝説が多い。これら伝説は、土着の人々の中央に対する反感が、悲劇の英雄への同情や憧れと結びついて生まれたものと考えられている。
もともと東北は「蝦夷の土地」だった。ところが豊かな資源を誇る未開の地「みちのく」は相当に魅力的な場所だったようで、律令制の昔から、時の中央政権は東北支配を試みてきた。軍事侵攻はもちろん、支配拠点「柵」の建設、道路整備、仏教による教化等々、長い時間をかけあの手この手を尽くしている。こうした過去があるおかげか、東北の人々には、中央に対する恨みつらみそねみやっかみといった感情が、強く残っているわけである。
中央に帰順した蝦夷は「柵養の蝦夷」「俘囚(ふしゅう)」などと呼ばれ、その有力者にはみちのくの治安維持の役割が託されたのだが、やがて俘囚の有力者らは、東北平定の名目で「俘囚の長」の座を巡り争いあった。その結果のしあがったのが奥州藤原氏の祖である藤原清衡(ふじわらのきよひら)で、やがて平泉を拠点に一大王国を築くのである。
中央に比肩しうる文化と勢力を築きあげた奥州藤原氏の繁栄とは、ある意味蝦夷の王国の再臨でもあった。義経が平泉を目指したのは、その力を借りて頼朝に対抗しようとしたからでもある。
ところがその夢は叶うこともなく頓挫してしまった。義経が平泉に着いて程なく、庇護者である秀衡がこの世を去ったのだ。秀衡は息子たちに義経を盛り立てるよう遺言していたのだが結局その遺言は守られず、文治5年(1189年)、秀衡の息子泰衡(やすひら)に攻められた義経は衣川で自害、弁慶や北の方、亀若丸も運命をともにする。そして義経をかくまったかどで頼朝は奥州藤原氏の征伐を決定、頼朝によって藤原氏は滅ぼされ、三代百年にわたる「蝦夷の王国」はあっけなく幕を閉じた。
瀬見で見つけた看板と標識。永い時を経てもなお「弁慶」の名が今に残る。
滅びた蝦夷の王国と、志半ばで果てた悲劇の英雄。みちのくの人々はそこに歴史の「もし」を思ったのだろう。もし義経が生きていたら、奥州藤原氏を率いて頼朝に対抗していたら、頼朝に代わり天下に号令していたら。あり得たかもしれない歴史を思うやりきれなさは判官贔屓の心情となり、人々に染みとおっていったのだ。
そして人々は数々の伝説を作ることでおらが村と義経と結びつけ、それを村の自慢や誇りとしたのだろう。それは義経と縁のあった土地に限らず、義経が行っていないはずの平泉以北や北海道にさえ「義経北行伝説」が残っていることにもうかがえる。中央にひねり潰された英雄の姿には、中央に虐げられたみちのくと重なるものがあったのかもしれない。
そういえば頼朝の官位は「征夷大将軍」だった。
共同湯併設の瀬見公民館と湯前神社。瀬見は身近な温泉地。
さておき、判官贔屓というわけでもなかろうが、義経ゆかりの峠と温泉は、その後も人々に親しまれた。亀割峠は急峻だが新庄と小国郷を最短で結ぶゆえ重視され、それなりに維持管理が図られた。瀬見温泉は地元の湯治場として利用されていたが、江戸時代になると新庄戸沢藩御成湯の指定を受け、たびたび殿様も入りに来るようになった。
近代になると他の道や鉄道が整備され、いくつかの山越え道が廃れていったが、その中で亀割峠が今でも残っているのは、義経伝説を留めていることはもちろん、新庄瀬見間最短通路であり、かつ峠下に温泉があるという理由も大きいと思われる。峠の無線中継所は地の利を活かしてのことだろうし、何より気軽に楽しめる山だから、峠には今でも人がやってくる。
新庄の殿様が瀬見温泉に通っていたことは先述のとおりだが、中でも三代目藩主正庸公の逸話が面白い。殿様も健脚だったようで、瀬見への行き帰りには自らの足で亀割峠を往復していたのだ。当時もっと通りやすい別の道があったにもかかわらず、あえてこの道を選んだあたり、殿様は当時からすでに、峠と温泉を―そしておそらくは義経伝説も―楽しんでいたのだろう。
(2007年8月取材・2008年2月記)
場所:新庄市休場と最上郡最上町瀬見の間。町境。亀割山標高539.9m。県道310号瀬見新庄線に匹敵するが、峠区間に車道は開通していない。
所要時間:
新庄側峠口から鞍部まで徒歩約1時間。鞍部から山頂まで同3分。鞍部から奥の院まで同約30分。奥の院から瀬見峠口まで同約40分。
特記事項:
案内書では初心者向けの登山道とされているが、急峻で崖っぷちを渡るような場所が続出するので油断は禁物。峠へは休場側と瀬見側双方から登っていけるが、峠口への行きやすさと水場の存在を考えると、瀬見からの方が登りやすいだろう。足に自信があるのなら、徒歩での日帰り往復も十分可能。最上町側峠下に瀬見温泉。共同浴場もあるので峠の行き帰りにはうってつけ。国土地理院1/25000地形図「瀬見」。同1/50000地形図「新庄」。
「最上地域史 第27号」 最上地域史研究会 2005年
「最上町史 上」 最上町 1984年
「最上町史 下」 最上町 1985年
「山形県歴史の道調査報告書 最上小国街道」 山形県教育委員会 1982年
「やまがた地名伝説 第一巻」 山形新聞社編 山形新聞社 2003年
「やまがた地名伝説 第二巻」 山形新聞社編 山形新聞社 2003年
「やまがた地名伝説 第四巻」 山形新聞社編 山形新聞社 2007年
「やまがたの峠」 読売新聞山形支社 高陽堂書店 1978年