加茂坂峠は、県下有数の漁港、鶴岡市の加茂地区と、米どころ大山地区を結ぶ峠である。現在はよく整備された新道とトンネルで快適に往来できるが、その上の旧い道を訪ねてみると、道が現在の姿になるまで、先人たちが様々な努力を重ねてきた歴史が見えてくる。
まずは道端にある石碑に注目しよう。大山から国道112号線を逸れ、曲がりくねった道を少し登ればここに着く。碑の文字「鐵門海」とは、この峠の始まりに名を残す人物、行者鉄門海上人のことである。
加茂は入り江にひらけた良港で、天正15年(1587年)の武将最上義光による整備以来、商業港として栄えることになった。北には県下随一の港町酒田が、東には城下町鶴岡が控えている。酒田に船が入れない時には避難港として、ここで取引されることも多かった。
取引される荷物は大山経由で出入りするのだが、そのためには大山と加茂を隔てる高館山南麓の急坂を上り下りしなければならなかった。急峻な坂道ゆえ、荷物は人の背で運ぶより他ない。人々が重い荷を担ぎ苦心しながら坂を登る様を見て、峠の改修を思い立ったのが、碑に名を残す鉄門海上人だった。
上人は加茂、大山、湯野浜の人々に働きかけて費用や人手を集めるとともに、自ら現場に立って工事の陣頭指揮にあたった。工事は文化7年(1810年)に始まり、同9年(1812年)に竣工した。その二年間、上人は一日も休むことなく指揮にあたったという。上人は他にも庄内各地で寺院の再建や建設を手がけており、その功徳を讃える碑が随所に残っている。この碑もそうした石碑の一つである。
碑には「文化十年酉仲秋」(1813年9月)の日付と「加茂権現講中」の銘がある。工事には上人の徳を慕う人々も参加し、手を貸していた。碑は工事に参加した加茂の人々が、竣工後、上人の偉業を讃えるために建てたものと思われる。
その後上人は文政12年(1829年)、即身仏行に入り、七五三掛の注連寺で入定した。上人は即身仏として、今でも注連寺に鎮座している。
上人入定から約40年経った明治4年(1871年)には、孫弟子の鉄竜海上人がその遺志を継ぎ、改修工事にあたっている。この時の工事は一日200〜300人もの人々が集まり、当時珍しかった「地雷花」(ダイナマイト)も用いられる大規模なものだったようだ。両上人の事業が、後の隧道開削につながっていく。
鉄門海碑の他にも、馬頭観音碑などが建っている。馬頭観音は商業に従事する人々が、往来の安全を期して建てることが多かったそうで、この峠が物流の道であったことを彷彿させる。
最近まで使われていた隧道に行ってみる。もともと国道だったところなので、ここまでは車で簡単に来られる。
隧道は明治10年代、時の山形県令三島通庸によって計画され、同17年(1884年)に着工、同19年(1886年)に竣工した(同24年竣工説もある)。開削にあたっては、大幅に道がよくなることで失業を恐れた荷運び人足たちが団結して計画に反対し、なかなか受け入れ態勢が整わなかったと伝わっている。道がよくなって車馬が運送の中心になれば、人力で荷を運ぶ人足はお払い箱になると心配したわけだ。
銘板には昭和14年(1939年)12月と刻まれている。隧道は昭和14年に大きな改修を受けている。刻まれているのはその日時。このときの改修によって自動車が通れるようになった。扁額は当時の物らしく、右から左に読むようになっている。
大山側の壁面には虎の彫像が飾られてある。隧道開削当時、宮内(現南陽市)の石工、吉田善之助親子が作ったと伝わる。かつては加茂側の隧道入り口に龍の像、大山側にこの像が飾られ、道行く人の安全を見守っていた。
虎の像は昭和14年の改修時にこの場所に移され、このように現在も残っているが、片割れの龍の像はその時に外されて以来、行方不明となっている。
ついでに、この隧道については「隧道ができた時、その名前を決めるべく、大山と加茂がそれぞれ大蛇と山猫を連れてきて戦わせ、加茂の山猫が勝ったので隧道は『加茂隧道』と名付けられ、その証として大山側に山猫の石像を飾った。」とか「隧道出口で猫の幻を見ると事故に遭う。」といった噂がある。おそらくは虎の像に尾ひれが付いた結果、生まれたものなのだろう。
最初の開削以来、21世紀になるまで実に120年にわたって利用されたが、加茂坂トンネル開通にともない、隧道は通行止めになった。現在は金網で完全に封鎖され、車でも徒歩でも通り抜けできない。告知の看板には、加茂坂トンネル開通の日付がある。
大山側にある廃墟。屋根は落ち、もはや瓦礫と化している。何に使われていたのかもわからない。ちなみに隧道付近はそこそこ知られた心霊スポット。年季の入った石碑や隧道の雰囲気に気圧されたゆえと思われる。これを見て、何か化けて出てきそうだと思う方もいるのだろうか。
隧道大山口の傍らにある慰霊碑。背面には何か刻まれているようだったが、風化しており読み取れなかった。峠で行き倒れになった人や、工事の犠牲者の霊を慰めるものだろうか。
このあたりには他にも石碑が数多く残っている。それだけ多くの人が行き交ったのだろう。
峠には旧い道跡が残っており、実際に歩いて越えることもできる。鉄門海碑から50メートルほど離れた場所が、大山側の登り口となる。一本だけ立っている電柱が目印だ。
登り始めるとすぐ、やけに広い道筋に合流する。基本的にはこの道筋に沿って進むことになる。山中にいきなり幅3メートルはある道の跡があることにまずは驚く。これをほぼ人力で作っていたわけだから、先人の努力には頭が下がる。
杉林が切れたあたりから、道はつづら折りになる。道筋がしっかりしているので迷う心配は少ないが、そのかわり倒木や藪が多い。道の真ん中に木が生えている場所もしばしば。いったい夏になったらどうなることやら。
道中やたら見かけた若木。高さ50センチほどで、道筋のあちこちに生えている。茱萸(ぐみ)かどんぐりのような実が付いているのだが、何という木なんだろう。
こんな木まで倒れている。道そのものはわかりやすいのだが、ある程度の藪こぎは覚悟しよう。
つづら折りを抜けるとここに着く。人為的に作ったような土手があり、ここが旧い道であることが察せられる。
ここからは月山や庄内平野がよく見える。風景を見ながら小休止といこう。
15分ほど登ると鞍部に着く。高さ2メートルほどの切り通しになっていて、やはり人の手が入った道であることがうかがえる。このあたりだけ立木も倒木もなく、往時の姿を偲ぶことができる。切り通しの上に登れば立木越しに日本海が見え、ここが峠であることを改めて感じさせる。
地形図によれば鞍部は標高約100m。道路開削以前は150mのところを行き来していたというから、道が整備されたことによって、相当往来しやすくなったはずである。