世間で最も有名な「軽井沢」は、もちろん中山道、信州碓氷峠の軽井沢だろう。それと同じ名を頂くこの峠は碓氷峠同様、古くから主要道として利用されていた。しかし信州の軽井沢が高級保養地として、今なお全国から人が訪れるのに対し、出羽の軽井沢は廃れ果て、永らく忘却されていた。
今回紹介するのは古道の尾花沢側、天沼を経て、旧番所跡に至る道だ。まずはさっそく峠に行ってみよう。
峠口は上ノ畑林道の奥、銀山川上流岩行沢と沼ノ沢の合流地点付近にある。1/25000地形図では、347m地点の林道分岐から岩行沢に沿う林道に入って本当にすぐのところだ。付近には車が数台停められる余裕がある。ここまでは自動車で来られるので、車があると便利だろう。
取材当時(2008年5月)は入口に「歴史の道仙台街道」の標柱が立っていたので、これが目安となった。この標柱は平成13年(2001年)、地元の歴史保存会が立てたものである。
登り初めは色濃い林の中を進む。現在の地形図に道筋は載っていないが、道跡はよく残っている。このあたりで迷う心配は少ないだろう。
先達が用意したのか、道筋にはリボンが結びつけられ、これが格好の目印になってくれた。地形図に載っていないものの、人の出入りはそこそこあるらしい。
杉林に突入。峠の多くは上の方に行くにつれ、杉、ブナやナラ、低木と植生が変わる。このあたりはまだまだ登りはじめだ。
画像では判りづらいが、道が前方で丁字路になっている。登り口付近には九十九折り状の旧道を串刺しにする場所がいくつかある。少々戸惑うので要注意。
雑木の林。踏み跡こそ付いているが、山形側はあまり整備された道ではない。
灌木の茂みを抜ける。かたわらには先達が付けたリボンがあった。軽井沢越えの道は現在の地形図には載っていないため、踏み跡とこのリボンが頼りとなった。
荒れ気味の古道を進み、再び杉林に突入。杉林の中は厚く積もった杉の葉のおかげで、踏み跡が少し判りづらくて不安になる。
杉林の合間の小さな広場に到着。このあたりから道は中腹にさしかかる。
杉林を抜ける。中腹になると、あたりは杉林から広葉樹や灌木の林に変わる。
灌木のトンネルを進む。中腹も道跡を追うのはそれほど難しくない。ただしよく整備されているというわけでないのはあいかわらず。
笹藪の合間を行く。永年にわたって人が歩いたからか、両脇が切り通しのようになっていた。中腹はこんな感じの場所が多い。
広葉樹の林。そろそろ中腹を抜け、高所に近づく。
中腹の終わりに小さな沼が現れた。これが天沼で、峠口より40分ほどのところにある。希少種モリアオガエルの生息地として知られているが、見物人がいるでもなく、あたりはひっそりと静まりかえっていた。
天沼を抜ければ峠は近い。あたりはブナやナラの爽やかな広葉樹林に変わる。道の状態も非常に良く、歩いて楽しい区間が続く。
天沼より十数分歩くと、「天沼青蛙生息地」の標柱が立つ場所にさしかかる。このあたりが山形と宮城の県境で、軽井沢越えの鞍部ということになる。
近くにはコンクリート製の標柱が。これが県境の目印らしい。
軽井沢越えは、奥羽山脈を越え尾花沢市延沢と加美町漆沢を結ぶ峠である。その始まりは旧く、天平9年(737年)、朝廷の重要拠点、多賀城と出羽柵を結ぶ道として、時の陸奥出羽按察使(むつでわあぜち)、鎮守府将軍大野東人(おおののあずまびと)によって拓かれたとされている。
「続日本紀」によれば、天正9年(737年)2月、東人は陸奥国多賀城より出発、色麻柵(加美町中新田付近)で約6000名の軍を編成して奥羽山脈を越え、出羽国大室駅(尾花沢市玉野付近)に到着、出羽守田辺難破(たなべのなにわ)と合流した。このとき東人が作った道こそ、軽井沢越えだと考えられている。
この時、東人の軍団はたった一日で色麻から大室に到着したことになっている。察するにおそらくそれより前から軽井沢越えは細々と利用されていて、東人軍はそこに手を入れながら進んだのだろう。
標柱を過ぎると、次第に薮が目立ってくる。道跡こそまだはっきりしているが、路肩から笹の葉が張り出し、ところどころ倒木もある。雪解け水のせいか路面には溝が穿たれ、ぬかるところもちらほらと現れた。
流水に削られ分断された路面。溝をまたいで先に進む。
そして溝を跨いだすぐ先のところで、道跡は薮の中に消えてしまった。ここまでは道跡がはっきりしているのだが、道を知らないとここでひとしきり迷うことになるだろう。このあたり、偽分岐もあって非常に道が判りづらい。
あたりの薮を探ることしばらく、薮の向こうにそれらしい道跡が見つかった。
道の真ん中は沢と化し、笹藪や枝、倒木等で非常に荒れている。一歩踏み出せばそのたびにズブズブと足が泥にめりこむ。軽井沢越えではこのあたりが一番道が悪い。ぜひ長靴が欲しいところ。
もうここまで来ると道なんだか沢なんだか。さいわい先達が残していたリボンがあったので、ここが道であることは判った。
ようやくぬかるみ区間を抜ける。最後には小さな沢の徒渉が待っていた。
徒渉後、再び道がはっきりしてきた。沢に沿って道跡を追う。
薮等はないが、道は湿地のようにぬかる。我慢してもう少し進む
徒渉後歩くこと数分、目の前に広い原っぱが現れた。ここが峠一番の見所、軽井沢番所跡である。一見何もない広場だが、小野田町(現加美町)の教育委員会による標柱が建っており、番所があったことを示している。史料によれば出羽国との境まで5丁15間(約570m)。県境からそう遠くない。跡地には屋敷の礎石や石段などが残っている。
東人の事業が礎になったのか、その後軽井沢越えは陸奥と出羽を結ぶ主要道の一つとなった。江戸時代には「最上海道・仙台海道」などと呼ばれ、公儀の街道として認められている。仙台を発した道は宿場町吉岡(現大和町吉岡地区)で奥州街道より別れ、小野田・門沢・漆沢を経て西に進み、軽井沢で奥羽山脈を越える。その後上ノ畑・上柳渡戸を経て、羽州街道の宿場町尾花沢に至った。
最上海道の整備は江戸時代初期の元和元年(1615年)の吉岡宿設置に始まり、寛永年間(1624〜1645)に形が整った。当時は仙台領内で検地が進められた時期でもあり、その一環として宿駅や街道が整備されたものと考えられている。
その要となる軽井沢番所は、寛永5年(1628年)、往来監視のために仙台藩が設けたものである。同16年(1639年)には機能強化のため、峠下の漆沢より足軽5人が移り住み、本格的な運営が始まった。番所や宿駅としての機能が成立したのはこの頃である。
番所は半森山の南麓にある。往時には小さな町程度の規模を誇っていたようだ。屋敷の他には神社もあって、半森山の足元にその石鳥居が倒れたまま残っていたりする。他には墓石なども残っているらしい。奥羽山脈分水嶺からほど遠くない山中に、いきなりだだっ広い広場があることにも驚くが、そこに小さな町があったということにも驚く。
それでも毎年冬になると閉鎖され、番所は東の麓門沢まで待避していたということだから、当地の険しさが偲ばれる。