銀山温泉と延沢銀山跡

銀山温泉入口

 番所跡を見たところで、周辺の史跡を見てみよう。峠のはるか手前には銀山温泉がある。「大正ロマン」でその名を全国に知らしめる名所だが、ここも軽井沢越えと大いに関係がある場所だ。

 もともと「銀山」の名前は、ここに延沢銀山なる銀山があったことに由来する。
 康正2年(1456年)、加賀の儀賀市郎左衛門という人物が三山詣を志して陸奥に来た。その折、夢で天啓を得て軽井沢の山中に分け入ったところ、銀の鉱脈を発見した。以来当地で銀が掘られるようになったというのが、延沢銀山の開山縁起である。「銀山」とはもともと、この延沢銀山のことを指している。
 延沢銀山の採掘は、戦国時代末期より本格的に始まった。野辺沢氏、山形藩の手を経て江戸時代初期に幕府の手に渡り、寛永年間に最盛期を迎えている。坑道内で火を焚き、鉱床に亀裂を入れて鉱石を取り出す「焼き堀り」なる方法で銀は採掘されたのだが、その時火で焦げた跡が今でも坑道に残っている。廃坑道は現在史跡として整備され、見学できるようになっている。
 銀山は幕府の財源の一つとなり、軽井沢越えは採掘された銀や、米や炭など鉱山で使う物資の通り道になった。それゆえ銀山との連絡路となる軽井沢越えには随所に番所が置かれ、人や物の出入りは厳しく監視されることになった。軽井沢越えは寛永年間に整備が進んでいるが、それは銀山の繁栄とも大きく関わっている。
 しかし年を経るうちに産出量は減少し、慶安年間(1648年〜1652年)には最盛期の半分にまで落ちた。新しい鉱脈の発見もなく、戦国時代末期の採掘開始から100年ほどで鉱脈が枯渇し、銀山の繁栄はそれきりとなった。最盛期には11あった番所も、衰退後は軽井沢・上野・上ノ畑の三つにまで減った。ところが探鉱の副産物か、今度は近くに温泉が湧き、山は湯治場として知られるようになった。これが山形屈指の観光地として知られる銀山温泉である。

延沢銀山坑道入り口 焼き掘りの痕
延沢銀山跡。広い間歩(坑道)の天井には焼き堀りの焦げ跡が見られる。

 銀山こそ廃れたが、軽井沢越えが重要な奥羽越えの道であることは変わらず、その後も往来が絶えることはなかった。元禄年間(1688年〜1703年)の「曽良日記」によれば、松尾芭蕉一行は「おくのほそ道」の旅で、尾花沢への道として軽井沢越えに注目している。
 その頃には、この峠は物流の道へと変わりつつあった。特に最上川有数の船町大石田に近いこともあり、西回り航路で出羽に入ってきた多くの品々が、この峠より仙台領にもたらされるようになった。日本海側からは塩や綿織物といった日用品が運ばれ、太平洋側からは魚などの生鮮品が入ってきた。
 また、市郎左衛門の逸話に見えるように、峠は三山詣での行者の通り道でもあった。宮城側の街道沿いには、至るところに「湯殿山」と刻まれた碑が残っている。信州碓氷峠の軽井沢同様、みちのくの軽井沢が栄えた時代もあったというわけだ。


上ノ畑集落跡

上ノ畑廃村

 銀山温泉から峠口に至る途中、銀山川と高倉沢が合流する場所に、上ノ畑の廃村がある。銀山衰退後も残った数少ない番所で、軽井沢越え峠前最後の宿場町にあたる。
 村の始まりは定かでない。言い伝えによれば戦国時代、当地を支配した野辺沢氏が、道の守りを固めるため、家臣団を当地に派遣し住まわせたという。記録では寛永19年にはすでに村ができていたというので、延沢銀山の隆盛や仙台領の街道整備にともない、上ノ畑も発達していったものと思われる。
 尾花沢側からの荷物は上ノ畑までは馬等で運ばれたが、ここから先は道が険しく馬では通れないため、ここで牛や人の背に載せ替えられ、峠を越えていた。

取り残された壁 風呂場か流し台の跡
上ノ畑の遺構。コンクリート造りの壁や水場が残る。

 一応宿場町ではあったがその規模は小さく、運営には苦心していたようだ。近場に銀山温泉があるためか、そちらに三山詣での宿泊客が流れることもしばしばだった。江戸時代後半の宝暦年間(1751年〜1763年)には、旅客が街道から外れた銀山に泊まらないよう、尾花沢の代官所に訴え出たこともある。
 現代の感覚ならば、わざわざ山形までやってきて、道中近くに温泉宿があるならば、温泉につられてそちらに泊まっていこうと思うのは至極当然なことだろうし、誰も咎めはしないだろう。しかし江戸時代の場合、事はそう単純ではなかった。宿駅制は当時の流通の要となる制度であり、公儀によって保護されていた。宿場町は往来する人々から取り立てる継立料金や宿泊料で成り立っている。本来宿場町にもたらされるべき収入が、街道筋にない温泉街に流れてしまうことは大問題で、公儀が取り締まって然るべきことだったのである。
 一方、経営が厳しいのは温泉宿も同じで、宿泊者数の減少は温泉宿にとっても大問題だった。この時は温泉宿への宿泊を許すかわり、宿泊者数に応じた刎銭を、銀山側が上ノ畑に納めるということで落着したが、その後も上ノ畑と銀山温泉は長期間にわたり、旅客の扱いを巡って争っている。

崩れた祠

 公儀の街道ゆえ権益を巡り、周囲の街道や町々が争うことはたびたびだった。あるときは羽州街道筋の宿場町が、軽井沢越え筋の宿場町に対し、競合する背炙り峠越えの駄送を禁じるよう訴えたこともある。
 宿場町にとって、往来が減ることは死活問題だった。負担の重さに対して駄賃が安すぎるだの、利用者が少なく引き合わないだのといった悩みは、多くの宿場町が抱えていた。それは江戸期後半の経済・流通の変化を、既存の流通形態が支えきれなくなっていた歪みの現れでもあったのだが、それはさておきここ軽井沢越えでも、事情は同じだったわけである。

上ノ畑の石鳥居 長野佐市墓
笠木を失った石鳥居と陶工長野佐市の墓。かつてここに村があった証。

 興業のため幕末の一時期、上ノ畑で窯業が営まれたことがあった。天保年間(1830年〜1843年)、当時上ノ畑を治めていた東根の長瀞藩が、大阪より招いた陶工等を当地に住まわせ、焼物を始めたのだ。しかし開始早々天保の飢饉や職人の急死といった災難に見舞われ、さらに資金難で経営が行き詰まり、十数年で廃業してしまった。
 上ノ畑焼の痕跡は今でも残っていて、廃村の片隅には陶工の一人、長野佐市の墓がある。また、当地からは焼き損じた陶器の破片等も多く出土している。

 近代以降、軽井沢越えが衰退すると、上ノ畑は宿場町としての機能を失い、山間の農村集落として、細々と人々が暮らし続けることになった。しかしそれも戦後まで。昭和36年(1961年)頃より離村が進み、昭和42年に全戸離村、無住の地となった。それから時が経って久しいが、住宅の土台や古い石鳥居など、人が住んでいた痕跡が今でも残っていたりする。
 ちなみに上ノ畑焼は一度断絶こそしたものの、昭和50年代地元陶芸家によりその技法が復元され、今に伝わっている。


十分一番所跡

十分一番所跡と上ノ畑焼の看板

 尾花沢側に十分一番所の跡が残っているが、これはもちろん往来する荷に十分一の役銀が課されたことに由来している。延沢銀山が操業していた頃、物資の出入りは厳しく取り締まられ、十分一番所は監視の任にあたっていた。
 現在はもちろん番所はなくなったがそのかわり、復活した上ノ畑焼の窯元があり、焼物の新たな拠点となっている。


中羽前街道新道開通碑

中羽前街道新道開通碑

 峠を宮城側にだいぶ下ったところ、国道347号線沿い門沢水力発電所の脇に、軽井沢越え衰退にまつわる史跡がある。明治33年(1900年)に建てられた、中羽前街道の開通記念碑だ。

 明治になり日本が近代化の道を歩み始めると、軽井沢越えは一気に衰退を迎える。物流の主力が太平洋岸の汽船航路に変わったことにより、最上川舟運と連絡する必要性が薄まり、往来が少なくなってしまったのだ。往時は牛馬が一日平均50頭、旅人も4〜500人を下らない往来があったにもかかわらず、明治初頭には人の姿は絶え、廃道になってしまったと記録には残る。
 この衰退を目前に明治8年(1875年)、沿線加美郡の住民らは新道開鑿の道を探り、翌9年(1876年)に宮城県知事に改修の請願を出している。それに呼応して山形側の沿線となる村々の住民も山形県に改修請願を提出。県や住民の間で軽井沢方面に近代的な道を作ろうという気運が高まり、明治11年(1878年)には宮城側の測量が完了、新道建設計画は着々と具体化していった。
 当時は宮城では野蒜築港こと、鳴瀬川河口に汽船の基地となり得る新港を作る計画が進められていた。これに対応して太平洋側と日本海側の物流を担う道が必要とされ、様々な路線が候補に挙がっていたのだが、軽井沢越え改修の請願は、これを受けてのものである。
 関山峠の新道建設によって先送りにされたが、その後も計画は進み、明治19年(1886年)、ついに新道建設に着工する。だが近隣自治体の協議の末、新道の路線として選ばれたのは軽井沢越えではなく、その一つ北にある鍋越峠だった。
 そして明治25年(1892年)、鍋越峠を越える道、中羽前街道が開通する。これにより奈良時代から1000年にわたり人々が行き交った軽井沢越えはその役目を終えた。
 時代が下るにつれ、中羽前街道が県道中新田尾花沢線、国道347号線へと昇格し、整備される一方で、かつての主要道軽井沢越えは忘れ去られ、薮に埋もれていった。昭和時代、新たな奥羽山脈横断道として軽井沢越えに新しい道路を作ろうという意見もあったようだが、実現していない。

 道として利用されることはほとんど無くなったが、古道は現在、トレッキングコースとして注目されている。特に宮城側は周辺自治体や有志等によって整備されているようで、古道を歩く催しもたびたび開かれている。永年忘れ去られていたが、その歴史的価値は見直されつつある。近い将来、みちのくの軽井沢が再びその名を知らしめる日が来るかもしれない。

(2008年5月/09年5月/11年5月取材・2012年1月記)


案内

場所:
尾花沢市銀山新畑と宮城県加美町(旧小野田町)漆沢の間。半森山の南。県境。標高600m。大分水嶺。

地理:

軽井沢越え概略図
1・銀山温泉街,2・林道入口,3・延沢銀山間歩跡,4・上ノ畑跡,5・石鳥居・長野佐市の墓,
6・古道入口,7・天沼,8・廃道区間,9・軽井沢番所跡

所要時間:
銀山温泉から峠口まで自動車約10分。峠口より天沼まで徒歩約30分。天沼より県境まで同約10分。県境より軽井沢番所跡まで同約15分。

特記事項:
 峠口までは林道が通じており、自動車で来られる。そこから先は車を降りて歩くことになる。古道は道跡こそ残っているが、地形図には載っていない。それでも尾花沢側から登る場合、天沼・県境付近までは比較的容易に行ける。県境から軽井沢番所跡までは廃道同然。道が悪くわかりづらいところもある。できれば案内がいた方が安心だろう。雪解け直後か降雪前のヤブの少ない時期を狙うと歩きやすい。尾花沢側峠下に銀山温泉。1/25000地形図「銀山温泉」。同1/50000「薬莱山」。

参考文献

「東北の街道」 渡辺信夫・監修 無明舎出版 1998年

「宮城県文化財調査報告書六十六集 歴史の道調査報告書」 宮城県教委 1980年

「山形県歴史の道調査報告書 仙台街道」 山形県教委 1982年

「山形県交通史」 長井政太郎 不二出版 1976年

「やまがた地名伝説 第三巻」 山形新聞社編 山形新聞社 2006年

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