狐越

 「狐越」(きつねごえ)とは、いかにも狐につままれたような名前の峠だが、狐ではなく、人間が盛んに行き交う道だった。
 狐越街道は白鷹山の北麓を越え、山形市と西置賜郡白鷹町を結ぶ道で、現在の県道17号線・主要地方道山形白鷹線に匹敵する。それよりも「県民の森」に至る道路といった方が、山形県民にはなじみが深いかもしれない。
 狐越はその狐越街道の峠で、県道17号線の間道となっている林道狐越線に存在する。


富神山

富神山

 峠口は山形市西部の荻ノ窪(おぎのくぼ)地区にあるのだが、そこまでは県道17号線を利用することになる。
 県道17号線は山形市の中心部から発し、西を目指して市街地を抜け、山形市西部の門伝(もんでん)より、村山と西置賜を隔てる白鷹丘陵を登っていくのだが、富神山(とかみやま)は、ちょうどその入口にある里山だ。標高402mほどの低山だが、東に開けた地形ゆえ、山頂は格好の展望台となっている。
 ふもとには古墳や環状列石といった遺跡が点在しており、古くは死者の霊が天に昇る「端山」と見なされていた。そのピラミッドのような山容ゆえか、山は古くから霊地として崇められていたと考えられている。


山王の常夜灯

山王の常夜灯

 県道17号線の登り口にあたる山形市山王地区には、現在の県道ができる以前の旧道が残っている。こちらに見逃せないものがあるので、峠に行く前に寄り道してみよう。江戸時代の庚申塔と山神碑、明治時代に建てられた常夜灯だ。

 この街道の前身となる、狐越経由で山形と西置賜を結ぶ道、通称「狐越道」は、古くから細々と利用されていた。しかし飽くまで「薮道」扱いで、歴史の表舞台に出てきたことはあまりない。むしろ抜け荷のために利用されていた程で、江戸時代の末期には近隣街道筋の村人が、狐越道で商荷を運ぼうとした荷主を妨害したという記録もいくつか残っている。時には小滝街道筋狸森の村人大勢が、狐越道まで出張ってきて、商荷を強奪したことさえあったそうで、「狐」と「狸」の化かし合いと言えないこともない。
 「狐越街道」という名前は近代以降、慣例的にそう呼ばれるようになったものであり、それまでは「狐越道」と呼ばれることはあっても、口留番所の類が置かれたことはなく、江戸期にはいわゆる「街道」とは見なされていなかった。
 そんな「裏街道」が一転、「表街道」として生まれ変わることになったのは、明治になってからのことである。

 近代的な道としての狐越街道の歴史は、明治5年(1872年)、富神山南麓の柏倉村が、狐越道の改修を県の勧業掛に要望したことに始まる。この請願により狐越道は、牛馬が通りやすい道として整備されることになった。
 狐越道は山形と西置賜を結ぶ最短径路であり、比較的緩やかで難所も少なく、数ある白鷹丘陵越えの道の中では最も通りやすい。それゆえに抜け荷に利用されたわけだが、明治になってそれまでの継立制度が廃止されれば、この通りやすい道を整備しようという声が出てくるのは、当然のことだったのかもしれない。
 この事業を受け、明治18年(1885年)には東村山・南村山・西置賜郡268町村連合会が、狐越道の全面改修を決定、翌19年(1886年)11月から同20年(1887年)10月までの1年がかりの工事の末、狐越道は荷馬車が通れる新しい道、「狐越新道」として生まれ変わった。そして明治21年(1888年)には県道に指定され、狐越の道は名実ともに表街道として繁栄することになる。ここに「狐越街道」が誕生したのだ。

明治の旧道と昭和の県道

 この石碑群に至る道は、その時作られたものである。庚申塔は安永2年(1773年)、山神碑は弘化3年(1864年)に建てられたもので、付近にあったものを後年当地に移設したものと考えられている。常夜灯とは現在で言う街灯で、灯台のような道標を兼ねていた。明治32年(1899年)に設置されたもので、まさに狐越街道が大いに栄えていた頃に建てられている。これら石碑群からは、江戸時代の末期には狐越道がそれなりに利用されており、明治の半ばには昼夜の別なく人々が行き交っていたことがうかがえる。

七ツ松の開道碑

 この旧道を道なりに進むと七ツ松地区に出られるが、集落の入口にあたる場所にも記念碑が建っている。これは件の大改修時に建てられたもので、七ツ松と狐越新道を結ぶ取り付け道路の開通を記念したものである。


大平入口

大平入口

 今回紹介するのは山形市荻ノ窪から白鷹町中山に至るまでの区間である。県道17号線をひた進み県民の森の手前、具体的には狐一巡り街道20番カーブにさしかかると、ヘアピンの頂点から細い道が延びているのが見えてくるが、ここが今回の峠口である。入口には「ミズバショウとユキツバキの里大平」の看板があるので、これを目印にしよう。というか拙稿白鷹山の記事で紹介した大平入口です。
 ちなみに取材したのは2008年秋。その夏の大雨による土砂崩れで一部区間が車両通行止めになっており、入口はゲートで封鎖されていた。


礫石の古道

礫石の古道

 ついでに、山形市少年自然の家入口にあたる山形市礫石(つぶていし)地区には、わずかながら、大改修以前の道筋が残っていて、実際に歩くこともできる。近年地元有志が整備したもので、こちらは入口にある「狐越街道」の標識が目印となる。


狐につままれたような

薄暗い林の道

 さておき、峠目指して県道より細道に入る。道は薄暗い林の中を心細く通っており、今にも狐が出てきそうなほど人気がない。
 今通っている道は明治の大改修によって整備され、かつて県道として使われていた区間の一部だが、現在は県道の座を山形白鷹線に譲り、山形市道三軒屋嶽原線および林道狐越線となっている。


水道小屋

荻ノ窪水道組合の小屋

 人気のない道ばたに、これまた人気のない小屋が建っている。どうやら荻ノ窪地区に水を供給する水道小屋であるらしい。


市道三軒屋嶽原線

市道三軒屋嶽原線 路面状態の悪いところ

 路面は舗装されており、自動車でも余裕で通行できる程度だが、ところどころヒビがあったり、落ち葉がそのままになっていたり、苔むしていたりと、状態はそれほどよくもない。

市道のカーブミラー

 現在は市道になっているからか、カーブミラーには山形市の銘がある。入口からしばらくは見通しの悪い狭隘路が続く。例によって、走るときは十分注意しよう。

寂れた小屋

 入口から600メートルほど入ったところで、また人気のない小屋を発見。中途半端なあばら屋加減で、現在でも使われているのか、うち捨てられたのかは定かでない。


不穏な気配

流れてきた土砂

 さらに進むと、路面に赤っぽい土砂が目立ってきた。どうやら先の方から流れ出してきたらしい。


土砂崩れ現場

土砂崩れ現場

 原因登場。さっきの土砂はここから流れ出てきたものらしい。この夏の大雨で山側の斜面が派手に崩れ、土砂が道路を塞いでいた。なるほど、これなら通行止めになるのも無理はない。

けっこう厚く積もってます

 もったりとした土砂が厚く路面に積もっている。徒歩で突破したがズブズブぬかって、おかげで靴がドロドロになりました(泣)

2009年秋復旧後の様子

 ちなみに翌年秋の様子。土砂はあらかた片付けられ、再び車で通れるようになっていたが、前まではなかった土砂止めが増えていた。

苔むした石積み

 谷の方を見てみると苔むした古い石積みが見える。明治期のものだろうか?


展望地帯

土砂崩れ地帯脱出

 土砂崩れ現場の先は、特に何の問題もなく通れる状態だった。このあたりは谷側の森が開けているせいか、さっきまでに比べるとだいぶ明るい。

南側の山並み

 あるカーブにさしかかると南側の山並みが見えた。見えているのはたぶん鷹取山か檜沢山。全線がおおむね山間か林の中を通っているこの峠で、数少ない展望が得られる地点だ。


丁字路

丁字路

 土砂崩れ現場から400メートルほど進むと丁字路に出る。右の道は山形市少年自然の家がある荒沼(あれぬま)方面に通じている。左の道が狐越街道だ。バリケードが置いてあるのは、もちろん土砂崩れを受けてのもの。


水道施設ふたたび

礫石と荻ノ窪の水道施設

 丁字路を左折して進むと、簡素な作りの柵が見えてきた。看板によればこれも地元の水道施設のようだった。

荒れ気味の路面

 丁字路の先も道の状態はあまり変わりがない。森はあいかわらず薄暗く、路面の舗装も荒れ気味だ。

荻ノ窪水道小屋再び

 またまた年季の入った小屋発見。こちらも荻ノ窪地区の水道小屋らしい。


欄干遺構

謎の欄干

 小屋から100メートルほど進んだところで、道ばたにコンクリート造りの小さな欄干が埋もれているのを発見。銘板がはめ込まれていたようだが、すっかり抜け落ち、名前もわからなくなっていた。


森の小径を行く

森の中を行く

 森の小径はまだ続く。現在でこそ一応舗装されているが、少なくとも昭和50年代までは、このあたりはまだまだ未舗装路だったらしい。

森の出口

 目の前に小さな鳥居とバリケードが見えてきた。


菅谷大聖不動明王

菅谷大聖不動明王

 さっきの鳥居のところには、小さなお不動さんがある。ここの不動尊は菅谷大聖不動明王と呼ばれており、明治31年(1898年)当地に建立された。足繁く街道を行き交う人々が、通行の安全のために建てたのだろうか。
 不動尊は滝に祀られていることが多いが、こちらのお不動さんは湧き水に祀られている。湧き水は水量豊富なようで、樋から勢いよく流れている。ここまで水を汲みに来る人も多いようだ。

お不動さん向かいの導水管

 脇の小川は富神山の南を流れる富神沢(とかざ)の上流で、導水管とおぼしきパイプが掛け渡されてある。数々の水道小屋といい、狐越街道は水に恵まれている。

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