森はちょうど不動尊のところで途切れていた。これまでとはうってかわり、明るくカーブの少ない道に変わる。道はこのあたりから、白鷹山北麓の高原地帯にさしかかる。
道が富神沢から離れると、大きな人工物がちらほらと現れる。これは資材置き場になっているらしい広場。
野良仕事の物置小屋は、ビニールテープで封鎖されていた。人の出入りがあるのかもしれない。
格納庫とおぼしき小屋。大きさから見て重機が収まっていたようだが、草の茂り様からして、今は使われている気配がない。
お不動さんから1キロほど進んだあたり。右手に見える分岐は林道隔間沼(かくまぬま)線で、荒沼方面に通じている。狐越方面に行くなら分岐せず、道なりにまっすぐ進もう。
隔間沼線分岐点から少し進むと、古びた看板とともに、左手に延びる砂利道が見えてくる。こちらに少し入ると、看板にあるとおりユキツバキとミズバショウの群生地が広がっている。
群生地には遊歩道が設けられており、季節になれば気軽に花が楽しめる。どちらも見頃は五月の連休の頃で、その時に合わせて「雪椿祭り」なる催しも開かれている。
椿峠。小滝方面への連絡路として使われていた歴史ある道。
この群落の南には、白鷹山と高森山の鞍部を越え、小滝街道方面に通じる峠道があるのだが、こちらの道はこのユキツバキの群落にちなみ、「椿峠」と呼ばれている。
道ばたで青い廃バスを発見。かつてはバスが通っていたのかと考えたくなるが、残念ながら、この道がバス通りになったことはない。
今度は朽ち果てて草に埋もれた鳥居がある。
鳥居の傍らを見ると、標柱がやはり草に埋もれていた。よく見ると「虚空蔵道」とおぼしき文字が刻まれてあり、ここが古くの白鷹山登山口であることがわかった。資料によれば明治23年(1890年)に建てられたもののようだが、幾星霜を経たおかげか、二つに折れていた。
左手に集落が見えてきた。ここが峠口の看板にあった大平(おおだいら)地区だ。名前はもちろん、白鷹山麓の高原地帯であることにちなんでいるのだろう。建物はまばらだが、住んでいる方がいるらしい。
大平地内には「日輪兵舎白鷹道場跡」と書かれた標柱がある。現在それらしい建物は残ってないが、大平を知るためには欠かせないものがある。
昭和6年(1931年)の満州事変以来、日本は満州を植民地化し、大規模な移民事業を進めていた。その一環として昭和13年(1938年)、内地に「満蒙開拓青少年義勇軍」が結成されると、茨城県の内原町(現水戸市)に訓練施設が作られることになった。義勇軍は満州移民を志す青少年によって構成され、訓練所にて皇国思想の下、開拓に必要な技術や知識が教え込まれ、満州に送り出されていった。
その訓練所の中心となった建物が「日輪兵舎」である。
日輪兵舎。画像は金山町カムロファームに現存するもの。
大平にあったものとは多少異なるが、どのようなものであったかをうかがうことはできる。
名前のとおり、日輪兵舎は直径約11メートル、高さ5メートル強の円形をした建物で、60人ほどを収容することができた。その形は「日の丸」を表しているのはもちろん、簡素な形状ゆえ建築の素人が開拓地に渡っても、あり合わせの建材で廉価に短期間に、かつそれなりに美しく建てられるという、実用上の理由も備えていた。
内原には終戦までにこうした兵舎が350棟ほど作られ、訓練生の教室として、寝起きや食事をする宿舎として使われた。訓練所の生活は、日輪だけにこの兵舎を中心に廻っていたわけで、それゆえ日輪兵舎は義勇軍の象徴、満州を目指す青少年が集う場所と見なされた。
国策として満蒙移民が進められ、義勇軍の活動が喧伝されると、それにともない日輪兵舎も全国に知られるようになり、随所にこれを模した兵舎が作られるようになった。特に山形では大凶作を背景に、農家の次男・三男の就業先として満州開拓が注目されていたことと、満州開拓の立役者的存在である石原莞爾や加藤完治といった人物と縁が深かったこともあって、県内各地に「日輪兵舎」が作られていた。
白鷹道場ことここ大平の日輪兵舎は、昭和13年9月に柏倉門伝尋常高等小学校の高等科生徒と、青年団の労働奉仕で建てられたもので、県下初の日輪兵舎である。往時は20ヘクタールほどの農地を備え、青少年が寝泊まりしながら耕作に従事し、興亜教育を受けていたと伝わる。地方の日輪兵舎は主に地元の学校や教育会等が建てたもので、青少年の宿泊研修施設として使われることが多かったようだが、もちろんそれが多くの少年を、満州に誘ったことは間違いない。
狐越街道には、軍道としての性格もあったらしい。明治39年(1906年)には、砲兵が通れるよう、道路を二間(約3.6m)以上に拡幅するようにと、東北地方に拠点を置く第八師団の参謀長が、県知事あてに指示したこともあった。
ところが昭和20年(1945年)、太平洋戦争の敗戦により日本が海外の植民地を失うと、義勇軍は自然消滅、その象徴とも言えた日輪兵舎は存在意義を失い、新たに建てられることもなくなった。そして時の流れに朽ち果て、今ではその多くが姿を消している。白鷹道場もその一つということになるのだろう。
明治5年に柏倉村が県勧業掛に提出した地図には、大平の名前は載っていない。大平は終戦後、満州からの引揚げ者が入植して作った集落である。夢破れて満州より戻ってきた引揚げ者らが、日輪兵舎の建つ場所に腰を据えたことは、決して偶然ではあるまい。
大平から再び街道筋に戻る。ここには大平沼なる小さな沼があって、魚の養殖や釣り堀等に使われている。大平沼のあるあたりはちょうど市境となっており、沼を過ぎれば山形市から山辺町へと変わる。
このあたりは白鷹山への入口でもあるので、そこそこ人の姿を見かける。
白鷹山の高原地帯を横断する。大平からはまっすぐな道が続く。
このあたりは県民の森の領域にあたる。そういうわけで周囲にはトレッキングコースやハイキングコースがいくつも整備されており、こんな具合にオリエンテーリング用のポストなんかも建っているわけである。
大平から1キロほど西へ進むと、嶽原に到着する。こちらも明治以降に新しく作られた集落で、狐越街道の整備にともない運送に携わる人々が、北にある山辺町の畑谷地区より移り住んだのがその始まりとされている。
昔はそれなりに人も多く住んでいたようだが、現在は多くが当地を離れたらしい。沿線には土台のみになった住居跡や、塀を残して雑草に埋もれてしまった廃墟等が目立つ。
それでもまだ人は残っているようで、人の手が入っている畑なども見つけることができた。
嶽原からは畑谷に通じる道が延びている。街道からこちらに逸れ、北に600メートル進んだ林の中に、五番御神酒(ごばんみき)なる清水が湧いている。
先ほどから見てきたとおり、狐越街道の界隈には沼や清水がとみに多い。それはこの県民の森の成り立ちと関係がある。
もともと県民の森は、白鷹山が作ったカルデラ盆地である。白鷹山は火山で、新生代の第四紀中、約百万年前に生まれたと考えられているが、当時は現在よりももっと標高の高い大きな山だった。ところが約80万年前、大噴火や地震といった地殻変動により山体が崩壊すると、残った山は馬蹄型のカルデラに、跡地は高原となり、山体をなしていた岩屑は数々の流れ山や窪地を形作ることとなった。
永い時を経て流れ山は緑に覆われ丘や小山となり、窪地には水が溜まって湖沼群となった。これが現在の県民の森で、狐越街道はこのカルデラ地帯南の高原地帯を、東西に横断している。
いみじくも、歌人結城哀草果は、この地形をこう詠んだ。
「羽交いなす 尾根のまなかに峯高く 白鷹山は大空を飛ぶ」
地殻変動の賜物はそれだけではない。水脈が変化したことにより、カルデラ内の随所から地下水が湧きだすようになった。ここ五番御神酒は砂地の底から湧き出る水が泉になっているというもので、太古のカルデラ窪地の名残となっている。
県民の森界隈に数ある清水の中でも、湧出量の多い清水には、一番水から五番水までの名前が与えられた。特にここ五番水はその昔、白鷹山の虚空蔵尊がここでご尊体を洗い清められたという伝説があり、それが「御神酒」の名の由来となっている。荒井が行ったときは虚空蔵尊の代わりか、清冽な水にしか棲めないという小エビを何匹も見ることができた。
県民の森2番目の大きさを誇る荒沼。その水は古くから農業に利用されてきた。
県民の森の湖沼群は、古くから西山形の水源となってきた。大沼や荒沼は、灌漑のため中世に築かれたものだと伝わるが、おそらくその前から水が溜まるような場所は随所にあり、そこに注目した古人が、水溜まりを拡張して、大きな沼にしたのだろう。時を経た今もなお、カルデラに集まった水がふもとの田畑を潤していることは、これまでの道中で、見てきたとおりである。
再び道ばたで廃バスを発見。ちょうどこのあたりが嶽原の出口である。赤色なのは、さっきのバスに対抗したというわけでもなさそうだ。
赤バスを過ぎると、道は沢筋に沿い、大きくカーブを描く。
カーブの出口には、鉄道のコンテナを流用したとおぼしき小屋がある。