白鷹山嶽原登山口

白鷹山嶽原登山口

 ちょうどカーブを出たところで南側を見ると、真っ赤な鳥居がある。ここは以前にも紹介した、白鷹山の登山口だ。ここから一時間少々登山道を登っていけば、白鷹山の山頂に行ける。
 白鷹山の名は、その山容を翼を広げた鷹になぞらえたとも、行基が当地を訪れたみぎり、山上に白鷹が舞ったので、その名があるとも言われている。また、その行基の開基と伝わる山頂の虚空蔵尊にちなみ、「虚空蔵山」(こくぞうやま)とも呼ばれている。狐越には、虚空蔵尊への登拝路として発達したところもあるのだろう。

登山口入口の厠と駐車場

 登山口隣にはトイレや駐車場などもある。昔このあたりには茶屋があって、道行く人々の休憩所となっていたそうだが、現在ではこんな具合に登山客の便宜を図っているというわけだ。

いよいよ峠へ

 登山口を過ぎれば、沿線は再び鬱蒼とした杉林に。


狐越

狐越

 登山口を過ぎ、程なく鞍部に到着。峠口からここまで5.7キロほど。標高705メートルで、地形的には白鷹火山カルデラ外輪山の鞍部ということになる。狐越とはこの鞍部のことで、ここを越える道だから「狐越道」や「狐越街道」といった名称があるわけである。
 あたりは薄暗い杉木立で展望はなく、傾斜もゆるいので、非常に地味な印象を受ける。

林道狐越線標識 白鷹町標識

 峠は林道の終点になっており、道の両脇には「民有林林道狐越線」「白鷹町」の標識がある。ここを境に今度は山辺町から白鷹町へ、東村山郡から西置賜郡へと変わる。

 明治期の大改修により「表街道」となった狐越街道は、商業の道として繁栄することになった。中でもこの道を行き交ったのは、桑の葉だった。

 かつて桑は養蚕の飼料として、身近に栽培される植物だった。それはこの界隈でも同じだったのだが、白鷹山の西と東では、桑の葉の開く時期に一週間ほどの差がある。そこで白鷹方面の養蚕家の間では、開葉が早い富神山東麓より桑の葉を買い入れるということが、明治以前からしばしばあったらしい。西置賜では養蚕が盛んだったようで、白鷹町には「蚕桑(こぐわ)」という古地名が残っているほどである。

 明治の到来とともに、養蚕の追い風となる出来事が起こった。「五郎治早生(ごろうじわせ)」の発見である。
 五郎治早生とは桑の一品種である。明治元年(1868年)、下柏倉の名主伊藤五郎治がより抜いたので、この名がある。抜群に早い開葉、寒さ・病害虫・胴枯病(細菌により幹が枯れる病気)への強さ、葉質の良さ等々、五郎治早生は様々な長所を備えていた。
 時は近代、製糸は一大産業になりつつあった。折しも微粒子病(蚕が死ぬ病気)の流行で養蚕に大打撃を受けていたヨーロッパでは、健康な蚕種を海外に求める動きがあり、それに応える形で、日本は養蚕ブームを迎えていた。
 絹糸を作るためには膨大な数の繭が必要で、その蚕を育てるためにはそれ以上に膨大な量の桑が必要となる。五郎治早生が富神山のふもとで栽培されるようになると、養蚕地西置賜でこれに対する需要が爆発的に高まり、膨大な量の五郎治早生が白鷹山を越え、山形から西置賜へともたらされることになった。その通り道となったのが他でもない、狐越街道だったのである。

 山形と西置賜を最短距離で結ぶ狐越街道は、五郎治早生絶好の移出路となり、その改修は、移出にますます拍車をかけた。桑は「ダツ」と呼ばれる藁むしろ製の入れ物に詰め込まれ、主に牛馬によって運ばれた。ダツ一つに20貫(約75kg)ほどの桑がぎゅうぎゅう詰めにされるので、運ぶうち熱をもって蒸れてくる。そこで途中、白鷹山登山口の茶屋で一度ダツを解き、風をあてたり水をかけたりして熱を取った後、再びダツに詰め込んで、白鷹山を越えていった。往時は毎日140〜150人ほどの人間が、この道で五郎治早生を売りに行き、白鷹の中心部、荒砥(あらと)の桑市場には2町(約220メートル)にわたり、峠越えしたダツが並んだものと伝わる。中には富神山のふもとと荒砥の間を、一日二往復する猛者もいたそうな。
 街道の隆盛にともない、峠口となる門伝には宿屋はもちろん、銭湯や遊女屋、芝居小屋まで建ったという。さっき見た常夜灯やお不動さんは、まさに街道全盛期に建てられたものだ。沿線には通行客を当て込んでいくつか茶屋も建ち、移り住んだ人々は嶽原の集落を生み出している。五郎治早生の生みの親、伊藤五郎治もこの活況で大いに潤ったとか。狐の妖術でもないが、桑の葉がお金に化けたのかもしれない。

 こんな話もある。
 大正5年(1916年)の末、山形師範学校に通う西置賜出身の学生ら9人が、狐越街道を越えての里帰りを敢行した。昼前に師範学校を出発し、午後2時に峠口に到着。茶屋で持参した「遠行食」ことおにぎりを取り出し昼食にして、いよいよ峠越えにとりかかった。
 しかし折悪しく天気は猛吹雪となった。夕闇迫る中視界も利かず、山も見えなければ道か畑かもわからないという有様、一行は手探り状態で前進し、ついには日も暮れてしまった。見渡す限りの真っ暗闇、わずかばかりの雪明かりを頼りに一行はその後も歩き続ける。さすがに疲労の色も濃く、学生の一人が橋から落っこちるというアクシデントに見舞われもしたが、さいわい大事には至らず、遭難しかけながらも午後11時半、一行はようやく嶽原に到着、ある農家の家に転がりこみ事なきを得た。深夜だったにもかかわらず、一行はそこで温かいお茶と夕食にありつくことができたという。
 そして年改まり新学期、その時一行を率いた上級生がこの「帰省冒険譚」を他の生徒に披露すると、大いに校内の話題になったそうな。若者らしい無茶な武勇伝だが、逆に言えば冬場に無茶をしても「狐に化かされずに」済んだほど、沿線には人が住んでいたということだ。

 ところが「表街道」の繁栄も、やがて終わりの時が来る。大正12年(1923年)、鉄道長井線(現山形鉄道フラワー長井線)が全線開通した。長井線は赤湯で奥羽本線より分岐し、梨郷(りんごう)、長井を経由して荒砥へと至る鉄道である。この開通により荒砥から鉄道で奥羽本線と連絡できるようになると、もっぱらこちらが利用されるようになり、狐越街道の往来は減っていった。これに対し、街道を車道として改修する案も出されたが、結局実現せず、狐の術が解けたかのごとく、街道は衰退していった。
 街道の繁栄を支えた五郎治早生も、養蚕技術の変化によって大正中期には需要が減り、萎縮病(細菌によって葉が縮む病気)への罹りやすさもあって、次第に栽培されなくなっていった。
 大改修から鉄道開通までの三十数年間。狐越街道の全盛期は、五郎治早生が人気を博した時期でもあった。五郎治早生の繁栄は狐越街道の繁栄であり、その逆もまた然りだったのかもしれない。


狐越林道

狐越線の様子

 林道区間は全線舗装で幅は4メートルほど。現在の林道は昭和50年(1975年)より3ヶ年計画で整備されたものだが、舗装されたのは近年のことのようだ。整備される以前、峠付近は通る者も少ない山道で、降った雨水が路面に深い轍を刻み、往年の表街道の面影もないほど荒れ果てていたという。

見通せないカーブ

 まっすぐな道が続いた高原からうってかわって、再び見通しの利かないカーブが続く。

道の状態はよいです

 目立った痛みもなく、市道区間以上に状態はよいが、展望もない単調な道が続く。

蕎麦畑

 どんどん下っていくと、左手の林が切れ、蕎麦畑が見えてきた。

ため池

 今度は左手の茂みの向こうにため池が見える。このあたりまで来れば出口はもうすぐ。


林道出口

狐越線出口

 そして再び県道17号線に合流。峠区間はここまで。出口には林道起点を示す看板が立っている。鞍部からここまで2.5キロほどである。


改修記念碑

一本木峠の道路改修記念碑

 もともと白鷹山越えの道は狐越以外にも、山辺町簗沢(やなざわ)から西黒森山の北を回りこみ、白鷹町中山へ至る簗沢道、畑谷から西黒森南部の山中を通り、朝日町摂待(せったい)に至る中越道といった道があり、それぞれ競合しながら、古くから利用されてきた。
 後に「狐越街道」の呼び名は狐越道のみならず、これらの道を含めた、白鷹山越えの総称として使われるようになった。それを受けた形で現在「狐越街道」と言えば、多くの場合、主要地方道山形白鷹線こと、県道17号線を指す。

 狐越街道の衰退後は、これらの道があれこれと整備され、現在に至っている。西黒森山北麓の県道17号線、古くの簗沢道にあたる一本木峠と呼ばれる場所には、昭和初期の改修記念碑が建っている。この碑によれば、このあたりの道は昭和7年(1932年)より同10年(1935年)にかけ、2万1372円を費やし、改修されているらしい。
 他にも同時期には、県道登り口にあたる山王から荻ノ窪に至る区間が改修されている。この頃にはこうした土木工事が盛んだったが、それは世界恐慌に起因する大不況と、東北を襲った大凶作に対する救済事業として企画されたもが多い。狐越ではなく、一本木峠が改修されたのは、おそらく大作・畑谷・簗沢からなる中山間農業地域、作谷沢の振興という目的もあったのでないかと思われる。

 戦後の昭和25年(1950年)には、この畑谷を廻る道がバス通りとして整備され、バスが行き交うようになった。そして昭和47年(1972年)には主要地方道山形白鷹線に指定された。平成4年(1992年)に国道348号線小滝街道が大改修されるまでは、西置賜と山形を結ぶほぼ唯一の幹線道路であり、文字どおり、主要道として利用されていた。
 昭和50年代初頭のある年の秋、作家司馬遼太郎は「街道をゆく」取材のため、狐越街道を訪れている。米沢から長井経由で上山に向かう際、県道17号線を通り道にしているのだが、それには当時のこうした道路事情もあったというわけである。


馬牽原と鐙坂

馬牽原展望台駐車場 鐙坂

 狐越街道にまつわる逸話では、慶長出羽合戦こと、長谷堂合戦も忘れてはいけない。長谷堂合戦は慶長5 年(1600年)に起きた、村山地方の覇権を巡る大名上杉景勝と最上義光の争いである。特に関ヶ原の合戦の代理戦争でもあったため、「東北の関ヶ原」とも呼ばれている。
 長谷堂合戦では、上杉配下の武将直江兼続の活躍がとみに有名だが、その直江兼続軍の本隊が、米沢より山形に攻め上る際に通ったのが、狐越道だと考えられている。
 直江軍は山形への途上、最上家の要所畑谷城を攻めるべく、この辺一帯に軍を展開しており、その時の遺構が随所に残っているという。県道17号線沿いには「馬牽原(まびきばら)」、「鐙坂(あぶみざか)」といった、馬にちなむ地名があり、合戦との関係を感じさせる。


畑谷城趾

畑谷城本丸跡

 畑谷城は長谷堂合戦の激戦地のひとつで、畑谷地区を通過する県道17号線にほど近い、館山なる里山にある。ここを守っていたのは最上配下の武将江口五兵衛光清(えぐちごひょうえあききよ)だ。
 光清は文武両道に通じた才人で、義光からの信頼も篤かった。西置賜と村山の郡界である狐越の界隈は、ちょうど最上家と上杉家の境にあたり、畑谷は山形藩国境の集落となっている。それゆえ光清は当地の防衛を任されていたのだが、上杉家にとっては、ここを攻め落とさぬ限り山形に行けないという場所でもあった。
 光清の兵力は約500人に対し、兼続率いる上杉軍は2万人。兼続が攻めてきた際、義光は光清に、山形城まで撤退し、合流して戦うよう命令したのだが、「敵を目前にして退くは武士の名折れ」とこれを拒み、また、光清の才を惜しんだ兼続が投降を呼びかけても肯んぜず、戦いは避け得なくなった。
 光清率いる軍勢は懸命に戦ったが、多勢に無勢、間もなく畑谷城は陥落してしまった。一族郎党は皆殺し、光清も自害して果てた。しかし武士の意地と忠義を貫き通したその最期は、もののふの生き様を示すものとして、今なお語りぐさとなっている。

 城の本丸だった場所には、光清を慕う地元の人々が、様々な石碑を建てている。中央にある大きな石碑は、長谷堂合戦300年後にあたる明治32年(1899年)のものである。

畑谷城東部大空濠跡

 畑谷城は典型的な山城で、東黒森山と鵜川にはさまれた館山の地形を巧く利用して作られている。陥落後城は放棄され、城として使われることはなくなったが、そのおかげか、かえって城郭や虎口などの構造がよく残ることとなった。特に東側の空濠は、この城が相当に大規模な工事で築かれただろうことをうかがわせる。

江口光清の墓と弔敬詩碑

噫江月公ああ江月公

江公忠義貫心肝
闔族散華守谷関
萬古白鷹山上月
清光凛々逼人寒

江公の忠義 心肝を貫き
闔族(こうぞく)散華 谷関を守る
万古 白鷹山上の月
清光凛々 人に迫りて寒し

敬弔江月公 静松東貫江月公を敬い弔う 静松東貫

(読み下し文およびふりがなは荒井が追加)

 城のふもとにある江口家の菩提寺長松寺には、光清の墓がある。五輪塔の形をした墓は、平成11年(1999年)合戦400年を記念して建てられたもので、その脇にある小さな祠が、本来の墓である。脇にある詩碑は昭和54年(1979年)のもので、山形市静松寺の当時の住職、平澤東貫氏による光清を讃える漢詩「噫江月公」が刻まれてある。
 合戦から400年以上の時を経た今もなお、畑谷城が荒れずに残っているのは、このように地元畑谷の人々が、永年にわたって光清を慕い続けるゆえなのかもしれない。


御楯稲荷神社

荒砥の御楯稲荷神社

 峠をずっと下っていった先には、荒砥の町があるのだが、そこにある御楯稲荷神社には、狐越の由来に関する逸話が伝わっている。
 神社は八乙女八幡神社の境内に末社として祀られているのだが、その八乙女八幡はもともと荒砥城なる上杉家の出城の一つだった。御楯稲荷は城郭南の鎮守の神として、兼続も篤く崇敬していたようで、城の補修に際しては社殿を修理し、いざ山形へ出陣というときには、この神社で戦勝祈願したと伝わっている。
 ところがその兼続、あろうことか、進軍途中で道に迷ってしまった。どちらに行くかもわからず進みあぐねていたところ、思いがけず目の前に白狐が現れ、行く先を示してくれた。白狐の正体はここ御楯稲荷の神の使いだった。そのおかげで兼続は道を見失うことなく進軍し、畑谷城を落とすことができた。それにちなんで、兼続が進んだ道は「狐越」と呼ばれるようになったとか。
 もっとも、兼続ほどの人物が道のわからないところを、先達も立てずに進軍するはずもなかろうから、この伝説は、おそらく後世の創作だろう。しかし、それだけ昔から荒砥と狐越にはつながりがあり、峠を越えての交流があっただろうことは十分うかがえる。


ふれあい展望台

村木沢ふれあい展望台

 最後に、県道沿線のちょっとした名所をご紹介。
 礫石集落を過ぎ、山形市少年自然の家に至る分岐を見送り、県道17号線を道なりにちょっと進むと、東の谷側に開けたところに木製の展望台が見えてくる。展望台は平成16年(2004年)頃に作られたもので、ふれあい展望台と呼ばれている。

 山形自動車道蔵王インターからひたすら西に道なりに走れば、作谷沢で一回右折するだけで、そのまま文翔館前を通って再び蔵王インターに戻ってこられる。この県道17号線と県道49号線を主とする西山形一周ルートを、「狐越街道」にちなんで「狐一巡り街道」と銘打ち、近年、沿線の住民が様々な村おこしに取り組んでいる。この展望台も、その一環として設けられたものだ。展望台からは東に山形市の町並みと笹谷峠や雁戸山、蔵王を見事に一望でき、新しい観光スポットとなっている。

 狐が導き、狸と化かし合い、桑の葉で栄えた往年の街道は、豊かな自然が売りの道となった。その名を受け継いだ道も、小滝街道の大改修により第一線こそ退いたが、県民の森への通路として今なお欠かせず、どちらも県民に親しまれている。

 「狐越街道とよばれるのは、この人間とのかかわりの濃い動物がかつて多く棲んでいたのか、それとも狐に化かされるハナシが多発した山道だったのか、ともかくも街道の名称としてはわるくない。」

〜司馬遼太郎「街道をゆく」より

(2008年9月/09年9月取材・09年10月記)


案内

場所:
 山形市門伝荻ノ窪・東村山郡山辺町畑谷・西置賜郡白鷹町中山の間。山形市道三軒屋嶽原線および民有林林道狐越線。標高705メートル。郡界。

所要時間:
 大平入口から鞍部まで自動車で約15分。同じく鞍部から狐越林道起点まで約7分。

特記事項:
 一部区間冬期通行止めあり。狐越林道は降雪期になると通り抜けができなくなる。交通量は少ないが、近辺に県民の森散策コースや白鷹山登山口があるため、それなりに人の出入りがある。通行の際は要注意。並行する県道17号・主要地方道山形白鷹線は通年通行可。国土地理院1/25000地形図「白鷹山」。同1/50000「荒砥」。

参考文献

「街道をゆく 十」 司馬遼太郎 朝日新聞社 昭和53年

「白鷹町史 下巻」 白鷹町 1977年

「畑谷城攻防戦」 山辺町ふるさと資料館 2008年

「分県登山ガイド5 山形県の山」 奥田博・高橋金雄 山と渓谷社 2003年

「門伝の歴史」 結城義吉 1988年

「山形県交通史」 長井政太郎 不二出版 1976年

「やまがたの峠」 読売新聞山形支局編 高陽堂書店 1978年

「山形県歴史の道調査報告書 狐越街道」 山形県教育委員会 1982年

「山辺町史 上巻」 山辺町 2004年

「山辺町史 下巻」 山辺町 2005年

「山辺町史資料集別冊2 旧山辺町報 上巻」 山辺町 2003年

「六稜の青春」 渡辺宏 中央企画社 1972年

小冊子「慶長出羽合戦における畑谷城攻防戦」 山辺観光協会

小冊子「なぞなぞ歴史探検案内」 山形市少年自然の家 1996年

山形市少年自然の家作成の小冊子各種

参考サイト

「ゆうキャンパスリポジトリ」
『満蒙開拓の痕跡をたずねて-山形県にあった「日輪兵舎」〔序章〕-』 松山薫 2004年
URI:http://repo.lib.yamagata-u.ac.jp/handle/123456789/2626

「株式会社荘銀総合研究所」
機関誌FutureSIGHT第36号 『歴史を語る建物たち第5回 日輪舎 』 松山薫 2007年
URI:http://www.sfsi.co.jp/fs/200704/200704.htm

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