トンネルのすぐ目と鼻の先には、県道5号線こと主要地方道山形南陽線との分岐がある。道をこちらに折れれば、熊野大社がある南陽市宮内方面へ抜けられる。
もともと小滝街道は南陽経由で米沢と山形を繋ぐ道として発展している。現在の国道348号線は白鷹町経由で長井市につながっているが、こちらの県道の方が、本来の小滝街道である。
江戸時代、山形と米沢を結ぶ主要道として使われていたのは、現在の国道13号線に匹敵する羽州街道・米沢街道と、今回紹介している小滝街道だった。米沢街道は公儀の道という側面が強かったが、小滝街道はそれに対する脇街道で、通商路としての側面が強かった。特にこの道を経由して、置賜や周辺諸村におびただしい量の塩や俵物がもたらされている。そのため羽州街道筋の宿場町とのいさかいもあったとか。
小滝街道は山形の船町(食肉センターがあるあたり)にあった須川の船着き場に近く、また上り下りもきつくないため、水揚げされた荷物を置賜に運ぶにはこちらの方が便利がよかった。また、「生活の道」ゆえこちらの方が通りやすく、親しみやすかったという事情もあるのだろう。山形米沢双方にとってなくてはならない道だったようで、羽州街道筋の宿場町が小滝街道経由の駄送を禁じるよう藩に訴え出たときも、藩ではこの訴えを退けている。
小滝に口留番所が置かれていたことが、何よりこの道が藩も認めた街道だったことの証だろう。小滝街道は「商いの道」としての性格も、少なからず備えていたのだ。
境小滝トンネルより白鷹トンネル(別名細野トンネル)に向かう途中、国道より南方にそれ、吉野川の上流に向かってしばらく奥に入っていくと、くぐり滝がある。沢が岩を突き破ってできた穴から流れ落ちているという滝で、街道周辺随一の奇勝となっている。もともと「小滝」の名は、くぐり滝を初めとして、吉野川に九つの滝があったことに由来している。
くぐり滝は、ある意味聖地である。吉野川は置賜の水源の一つで、滝の周囲の森は水源涵養林として重視されていた。江戸時代初期の万治年間(1658年〜1660年)には、米沢藩が当地に「水林」なる集落を設けて山守を住まわせ、森の保護にあたらせている。
水林の集落は昭和50年代に放棄され廃村となったが、くぐり滝は周囲の遊歩道が整備され、現在でも気軽に見物できるようになっている。
小滝街道は宮内に通じているが、現在の国道348号線は白鷹町経由で長井市に通じている。小滝峠の西方、白鷹トンネルの旧道区間には小滝越えなる峠があるので、こちらの方も走ってみよう。旧道へはトンネルの真ん前という、非常にわかりやすい場所から入っていける。
国道348号線は昭和49年(1974年)、いくつかの県道を昇格させて生まれた国道だ。該当する区間は大正時代より、漸次郡道や県道に指定されていたのだが、近代的な道になったのは遅く、昭和30年代(1955年〜)より自動車が通れるよう部分的に改修された他は、さほど整備の手が入ることがなかったらしい。
トンネルを含む現在の道は、山形で開かれたべにばな国体に合わせ、冬期通行可能な道路として新造・整備されたもので、平成4年(1992年)に開通している。それまでの国道は冬になれば2mもの積雪があり、通行止めを余儀なくされるような道だったと伝わっている。西置賜と村山を短距離で結ぶルートでありながら、このように、大量の自動車通行に適した道でなかったことも、新道建設の一因となっている。
トンネル開通にともない、それまでの国道は旧道になったわけだが、トンネル災害時にはこちらが迂回路となるため、今でも通れるようにはなっている。
旧道入口付近には崩れかけた金毘羅碑と、平成になってから建てられた新しめの草木塔が建っている。草木塔とは伐採した樹木や草に感謝し、供養するため建てられる碑で、置賜一円で見ることができる。
江戸時代後期、上杉鷹山公の頃から建てられるようになったと言われているが、近年自然を大切にするというその思想が見直され、今でもこんなふうにちょくちょく建てられていたりする。
どこか明るい小滝峠と違い、小滝越えの旧道はうら寂しい道が続く。民家の類は一つもない。
この冬の雪のおかげか、倒れた杉が道をふさいでいたようだ。しかしさっそく手が入れられたようで、すっかり伐採されて通れるようになっていた。
入口から300メートルほど進むと分岐が現れた。旧道はここで左折して橋を渡るのだが、そのまま直進すれば白鷹山の登山口に行けるようだ。
生活の道、商いの道である他、小滝街道には「信仰の道」としての側面がある。小滝街道は南に熊野大社があり、北には虚空蔵尊を頂く白鷹山が控えている。街道はこれら聖地に行くための道でもあった。さっきのくぐり滝も、熊野大社や白鷹山に詣でる行者が水垢離をした場所だと伝わっている。
おそらく小滝街道は、山間に住む人々や行者らが足繁く行き交うことによって生まれ、育っていった道なのだろう。藩政期から近代にかけての改修記録は見あたらないが、米沢・山形の両藩や近隣の山里に住む人々が、徐々に整備していったものと考えられている。そしてそれは小滝越えも同じだったに違いない。
今回は旧道を走るのが目的なので、左折して先へ進む。橋には「ながはらはし」の銘があるのだが、どんな漢字をあてるのかはよく判らなかった。
急なカーブを登っていく。路面には杉の落ち葉が散らばる。
フェンスの編み目からは、崩れてきた倒木の枝が張り出す。
カーブを登り切り、杉林をだらだらと走っていく。路肩には倒木の切れっ端や枝が置きっぱなしで、小滝峠よりも荒れた印象を受ける。
あるカーブにさしかかると、落石注意の標識とともに、すっかり痛みきった「白鷹町」の標識が現れた。ここが小滝越えの鞍部で、南陽市と白鷹町の境にあたる。標高約610m。鞍部近くに集落がある小滝峠と違い、小滝越え沿線にはほとんど民家がない。あたりの木はまだ葉を付けていなかったが、峠からはあまり見晴らしが利かなかった。
傍らには倒れた「南陽市」の標識があった。峠を境に道は南陽市から白鷹町に変わる。
小滝越えは白鷹町から小滝街道に連絡する道である。白鷹方面の人々が小滝街道に出る必要上、必然的にできたのだろう。
鞍部から少し下ると、残雪で道幅か狭くなったところに折れた幹が垂れ下がり、道をふさいでいた。路面の落ち葉はいよいよ厚く積もり、ますます寂れた印象を強くさせる。
旧いおにぎりを発見。旧道がかつての国道だった証である。
落石転がる崖の脇を通る。このあたりは数年前に崖崩れがあった場所で、法面を見ればその跡が残っているのがよく判る。
小滝越えの区間に民家の類はないが、人の出入りはあるようだ。路肩に山仕事に使われているとおぼしき重機と、切りそろえられた薪が置かれてあった。
少し下ると畑が現れる。この辺までは頻繁に人の出入りがあるのだろう。
旧道出口付近にはかぶと松と呼ばれる古木がある。樹高約10メートル、樹齢は数百年と推定されている。その昔、米沢藩の殿様が白鷹山の虚空蔵尊に参拝したその帰り、当地で休憩した際、この松の兜を伏せたような樹容を褒め称え、以後、それが松の名前になったと伝わる。小滝越えが、古くから白鷹山に向かう道としても利用されてきたことを示す逸話でもある。
ちなみにさっきの鷹山公の号が、白鷹山にちなんでいることはよく知られている。鷹山公もこの道を通って、白鷹山に登っていたのかもしれない。
かぶと松を過ぎれば終点はもうすぐ。目の前には朝日連峰とともに、現在の国道が見えてきた。
再び国道に合流。小滝越えの旧道区間はここまで。白鷹トンネルから1キロほど離れたところに出られる。
(2006年4月/08年10月/09年7月取材・09年8月記)
場所:上山市小白府・南陽市小滝・西置賜郡白鷹町細野の間。国道348号線およびその旧道区間。小滝峠標高519m。同小滝越え約610m。
所要時間:
小滝峠旧道区間自動車で約10分。同小滝越え約20分。
特記事項:
国道348号線は通年通行可能だが、小滝越え旧道区間は冬になると通れなくなる模様。小滝峠は冬期通行可。旧道区間は大型車通行不可。国道348号線は荒天時、通行止めになることがある。国土地理院1/25000地形図「白鷹山」。同1/50000「荒砥」。
「一般国道348号線道路工事誌」 山形県土木部 1993年
「山形県歴史の道調査報告書 小滝街道」 山形県教育委員会 1982年
「山形県歴史の道調査報告書 総集編」 山形県教育委員会 1982年
「やまがた地名伝説 第一巻」 山形新聞社編 山形新聞社 2003年
「やまがた地名伝説 第五巻」 山形新聞社編 山形新聞社 2009年
「山びこ学校」 無着成恭編 岩波書店 1995年