峠の名は、旅の夫婦がここで産気づき、子供を産んだことに由来するという。一風変わった名前の峠は、たどった運命も数奇なものだった。
子持峠は山形県の南西部、西置賜郡小国町大滝地区と同町市野々・叶水(かのみず)地区を結ぶ峠である。
小国町は最上川とは水系を異にしており、同じ山形県でも文字どおり「一つの小国」といった趣がある。事実、平成の大合併によって新・鶴岡市が誕生するまでは、県下の自治体で最大の面積を誇っていた。町の大部分は急峻な山林で、その谷間には横川・荒川・玉川といった河川が入り乱れるようにして流れている。集落はその合間の平地に散在しており、それらを結ぶ道として発達したのか、町内には多くの峠道がある。子持峠はそうした小国に数ある峠の一つである。
大滝の古四王神社。杉林に囲まれた小高い丘の上にある。社殿は北を向いている。
峠の歴史は意外に古い。朝廷の支配がまだ東北地方に及ぶ以前の上古の時代、「越族(こしぞく)」がこの峠を越えて置賜に入ってきたというのだ。
越族とは古代日本に存在した一族で、一説には大陸から渡ってきたツングース系民族の血を引いていたと言われている。北陸一帯の広い範囲に勢力を誇り、その版図は「越の国」と呼ばれていた。しかし朝廷の進出によって勢力範囲を狭められ、ついには歴史の狭間に消え去ったと考えられているが、その業績をとどめた文献が残っていないため、彼らが何者でどこから来てどこへ行ったかの詳細は定かでない。
謎の多い越族だが、その名前は「越後」や「山古志」といった地名として残っている。そうした今に残る痕跡の一つに「越王神社」がある。
「腰王」「古四王」「胡四王」等々様々に綴られるが、どれも「こしおう」と読む。越族には祖霊が宿るという石を祀る風習があって、彼らは新天地に移ると北向きにその石を祀り、大陸の故地を偲んだのだという。時代が下ると石は神社として祀られるようになり、それが各地の越王神社になったという。越王神社は東北地方の日本海側各地に点在しており、それらを結ぶ線は、越族が東北に入ってきた道筋だと考えられている。
峠口の大滝にはその古四王神社があり、越族がこの峠から置賜に入ってきた証拠とされている。それだけ昔から小国には人が住み、同じくらい昔から峠には人々が行き交っていたのだ。
今回紹介するのは、現在の県道8号・主要地方道川西小国線が開通する前の山道である。まずはその県道で大滝から峠口に向かう。
大滝から峠口に至るまでの区間には、現在の県道と平行してかつての道が少し残っている。見比べればその差は歴然。
途中にはこんな標識も。
大滝と叶水を結ぶ県道の途中、ゲドロク沢に架かる来夢橋の袂が峠への入り口だ。
橋の手前で旧道に折れる。入り口こそ舗装されているが、程なくそれも途切れる。
道は林の中へ。未舗装だが自動車が余裕で通れるほどの状態だ。
しばらく進むと舗装された分岐が現れた。舗装されている左の方に進みたくなるが、峠につながっているのは目の前の細道だ。峠は送電線の通り道にもなっているため、随所に鉄塔管理道との分岐がある。
これが鉄塔。この峠道、どこからでも鉄塔や送電線がよく見える。
鉄塔の管理道路として必要なのか、道はそんなに荒れていない。分岐に気をつけるぐらいで、進むのに全く苦労しなかった。
子持峠を経由して小国と米沢を結ぶ道は「中津川街道」とも呼ばれた。中津川とは現在の飯豊町南部一帯を指す地名で、子持峠の周辺は津川と呼ばれていた。近代にはそれぞれ中津川村、津川村という村になっていたのだが、昭和30年代にそれぞれ飯豊町・小国町と合併し、地図上からは消えている。
小国の主要道は現在の国道113号線の前身、「十三峠」こと米沢と越後を結ぶ越後街道であり、中津川街道はその間道という位置づけだった。しかし津川の人々にとっては、中津川街道は越後街道以上に身近な存在だったようだ。
市野々・下叶水の歴史をつづった冊子「ふるさとへの想ひ」では、下叶水の古老が子持峠の北にある黒沢峠を「上杉様が通った道」と呼んでいる。黒沢峠は「十三峠」の一つに含まれる峠で、江戸時代には米沢藩が公道として重視していた。米沢藩は峠を通じて他国から塩や鉄を買い入れ、名産の青苧(あおそ・織物の材料)等を移出していた。越後街道は米沢藩と他国の通商路としての性格が強かった。
一方で中津川街道は村人が日常で通る生活道路としての性格が強かったようだ。津川の人々が小国本村と往来するときに通ったのはこの峠であり、近隣の村人が管理にあたっていた。道の維持には欠かせない草刈りも、峠下にある大滝・下叶水・種沢の人々が手分けしてやっていた。
峠には人が歩く道の他、牛馬が歩く道もあったという。牛馬の道は人の歩く道を縫うように設けられており、歩きやすいように幅は広く九十九折りで緩やかに登れるようになっていたそうだ。黒沢峠はその有名な石畳ゆえ蹄が滑って歩きづらく、牛馬を連れて歩く分には若干遠回りになっても、かえって子持峠の方が便利がよかったという話も、「ふるさとへの想ひ」に収められている。
荒井もその牛馬の道を探してみたが、今やすっかり草に埋もれ、どこにあるのかわからなくなっていた。
進むうち、道は再び舗装路に変わった。
送電線を見ながら峠を目指す。送電線や鉄塔が格好の目印になるので、道中分岐が多くても迷う心配はあまりないと思うが、地図や磁針でしっかり方向を確かめながら進もう。
林の合間に古道とおぼしき道跡を発見。地図を見る限り、道跡は種沢地区まで続いているらしい。
記録に寄れば、子持峠は鞍部近くで大滝へ下る道と種沢に下る道とに分かれていた。分岐点には二坪ほどの休み場と清水があったと伝わるが、一見した限り、それらしい物は見つからなかった。後世の工事で失われたのかもしれないし、別の場所なのかもしれない。
本道はあいかわらずの舗装路。緩やかに峠に近づく。
またまた鉄塔との分岐に出くわした。地図で確認すると、この子持峠、峠に行くまで実に五回も送電線を横断する。
だいぶ奥まで進んできた。峠に数ある分岐地点もここが最後。
左の方の舗装路がさらに上に続いているので登ってみる。地形図上ではこのすぐ先で道が途切れている。
道の果てには紅白二色の鉄塔が建っていた。ここまでは自動車でも余裕で来られる。
鉄塔の付近はそこそこに展望が開ける。眼下には新しい県道が見えた。
鉄塔のかたわらには立派な百合の花が咲き、趣を添えていた。地形図によれば最後の分岐地点に「子持峠」の表示があるのだが、この鉄塔がある地点を子持峠と呼んでも差し支えはないだろう。
長らく人々の生活道路として利用されてきた子持峠も、近代になると衰退を迎える。周辺の道路が整備され、人々がそちらに流れるようになっていったのだ。特に昭和初期の鉄道米坂線と、津川の最寄り駅・伊佐領駅との連絡道路となる仙野街道の開通は峠に大きな打撃を与えた。それでも昭和30年代までは細々と利用されていたようだが、自動車が本格的に普及してくると時代の流れにはあらがえず、子持峠は本格的に廃れ、周辺の人々がやっていた草刈りも、いつしか途絶えてしまった。
それでも子持峠が細々と命脈をつないでいたのは、峠に鉄塔が建てられたからだろう。これまで見てきたとおり、峠は送電線の通り道になっており、鉄塔がいくつか建っている。峠の鉄塔まで車道が通じているのもそれゆえだろう。