甑峠は山形と秋田にまたがる丁(ひのと)山地の双耳峰(そうじほう)、女甑山(めこしきやま)と男甑山(おごしきやま)の北麓を越す峠である。江戸時代には由利地方と最上地方を結ぶ「矢島街道」の峠として利用されていたが、近代になると自動車の普及や近隣の国道の整備によって、連絡路としての役割を終えた。実際に一部は廃道化してしまったのだが、さいわい峠周辺にはまだまだ古道が残っており、現在でも峠歩きが楽しめる。
秋田側峠口付近から甑山を見たところ。左が女甑山で右が男甑山。
「甑」とは、古代、煮炊きに使われた器のことである。二つの山はその山容が甑を伏せたような形だから、「甑山」と呼ばれるようになったと言われている。北にあるのが女甑山(標高979m)で、南にあるのが男甑山(標高981m)。標高こそ1000mに満たないが、どちらの山も岩がちで峻険で、容易に人を近づけないぞと言わんばかりに、二つ並んだついたてのごとく、ちょうど秋田と山形の県境に据わっている。
それでもこの山に登りたがる人間は、古くからいたようだ。山は古くは修験道の道場として相当に栄えたと伝わっている。おそらく甑峠は、こうした人々が女甑山・男甑山へ行くために拓かれた道なのだろう。
男甑山には陽物のごとき「烏帽子岩」が、女甑山には女陰のごとき「赤穴」があり、男女の名の根拠となっている。赤穴は秘処らしく容易に拝めないが、烏帽子岩の方は男甑山に登りさえすれば、現在でも天に向かって立っているのが見られる。
今回は鳥海町(現由利本荘市)側から名勝沼経由で真室川に抜ける道を歩いてみた。
峠口は松ノ木峠のふもと笹子(じねご)地区の南、甑川に沿って山に分け入ったところにある。林道が通っているのでここまでは自動車でも来られるが、途中他の林道との分岐がいくつかあるので迷ってないか少々心配になる。地図を確かめながら、まずはここを目指そう。
実はこのまま林道を直進しても峠道には合流できるのだが、今回は名勝沼に寄るので、右の登山道を選ぶ。
林道から分岐して名勝沼への道を歩く。標柱によれば、この道は「大深沢歩道」というらしい。
峠一帯は加無山県立自然公園の指定を受けている。女甑山・男甑山にも近いため、周囲には登山道が充実している。だから道はそれなりに整備されており、案内もそれなりに充実している。
さすが名前が付いているだけあって、道ははっきりしている。そこそこ往来があるようだ。
道なりに歩いていると、沢筋に吸い込まれて道が見えなくなった。少々焦る。
向こう岸を見ると道が続いていた。沢を渡って一件落着。
踏み跡こそ付いているが、沢筋付近は少々道が悪い。足下には気をつけて。
取材したのは7月末。時期がよかったのか、道の至る所で素朴なエゾアジサイの花が楽しめた。
しばらく歩くと再び沢筋に遭遇。今度の沢筋は、傍らにある岩がちな滝が目印だ。
秋田側から登る場合、ここが最後の水場となる。渡る前に水の残りも確かめておこう。
二度目の沢筋を渡ると、道はブナの森に入っていく。登り勾配こそややきついが、気持ちの良い道が続く。
つくづく見事なブナの回廊。このあたりは歩いて楽しい区間。
森の先は丁字路になっていた。案内看板を見ると、右の方は男甑山への登山道につながっている。名勝沼は左である。
分岐点のあたりからは女甑山が大きく見える。目指す峠は女甑山の北麓にある。
分岐点から先に進む。再び森とエゾアジサイを愛でるような道が続く。
草に埋もれた「甑山名勝沼」の案内看板を発見。どうやら道は間違っていないようだ。
森の小径を進む。ブナの森を満喫できるのも、東北の峠の大きな魅力の一つだろう。
登山口より45分ほどの歩きで最初の目的地、名勝沼に到着。中の島を従えた静かな沼は、山中であるにもかかわらず、よく整えられた庭園のような趣さえ感じさせる。
沼には貴重な生物もいくつか棲んでいる。加無山県立自然公園は手つかずの自然が残る山域としてよく知られている。
沼のほとりには巨大なカツラの株がある。現在は根っこを残してほとんど枯れているが、それでも高さ約5メートル、幹周り16.5メートルと相当な大きさを誇り、往時は相当な大木だったことを伺わせる。この株はその姿をかの屋久杉のウィルソン株になぞらえ、「ウィルソンカツラ」とも呼ばれている。
内部のうろは大人数人が座って休めるほどに広く、実際に人が寝起きしたらしい痕跡まで残っている。荒井も入ってみたが、中に住み着いていたコウモリに追い出されてしまった。
沼のそばにも、甑山登山道との分岐がある。ここの分岐は女甑山と男甑山の間の中間点に通じているらしい。今回は峠歩きが目的なので、峠の方を選ぶ。
実は名勝沼から峠に抜ける道は、国土地理院の地形図には載っていない。案内書を参考にしながら慎重に踏み跡を追っていった。
名勝沼の水際を歩く。バランスを崩せば即ずぶ濡れ。
原生林の中、木の根と岩を踏み越えるような道が続く。このあたりは踏み跡がわかりづらいので、道を追うのに気を遣う。
だましだまし踏み跡を追っていくと、再び道がはっきりしてきた。
かくて10分ほどの歩きで名勝沼探勝道から峠道に合流。案内看板を見て、迷っていなかったとほっとする。