ある旅人は、国を分かつのが峠なら、海を分かつのが岬であると言った。三崎峠は文字どおりこの二つが一つところにある峠で、それがこの峠の性格となっている。
三崎峠は鳥海山の西の裾野が海に落ち込む場所、山形県遊佐町と秋田県にかほ市の間の、三崎山と呼ばれる一帯にある。
峠には大きく三つの道がある。その中でも最も旧い古道は遊歩道として整備され、現在でも歩いて通れるようになっている。
古道は「おくのほそ道」で、松尾芭蕉一行が酒田と象潟を往復する際に通った道でもある。駐車場にある「奥の細道」案内看板の脇から入っていくが、本当に「ほそ道」だ。
古道に入ると、いきなり細くて急な坂が現れる。別名「駒泣かせ」。馬もいったいどうやってこんなところを通ったのやら。松尾芭蕉に随行した河合曾良も、「曾良日記」に「是ヨリ難所。馬足不通。」と記している。かつて三崎山は天下の険の箱根山よりも険しいとさえ噂されていた。
駒泣かせを乗り切ると、道は二手に分かれる。右の轍の付いた立派な道を選びたくなるが、なんと左の石垣みたいな方が古道である。
古道を登っていく。路面にはごつごつした岩が顔を覗かせる。三崎の難所ぶりを伝えるものとして、「手長足長」の話がある。
昔、三崎山には手長足長という魔物が棲んでいて、沖行く船や道行く人を取っては喰っていた。ところが、このあたりには三本足の烏も棲んでいて、手長足長が近くにいるときは「有耶」、いないときは「無耶」と鳴いたので、人々はこの鳴き声を頼りに、おそるおそる三崎山を越えていた。鳴き声はいつか関所の名前となり、三崎山の関所は「有耶無耶の関」と呼ばれるようになったそうな。
本当に魔物や三本足の烏がいたわけではなかろうが、魔物は難所三崎を象徴する存在で、神武東征の八咫烏を連想させる三本足の烏は、人々が旅の無事を祈った神や仏を象徴するものと思われる。
登り切ると道は照葉樹タブの林に突入する。三崎山のタブ林は、県の天然記念物に指定されている。
少し進むと、林に囲まれた広場に出る。ここに建っている旧いお堂が大師堂で、慈覚大師によって創建されたと伝わっている。大師堂の廻りには、古びた五輪塔がいくつか建っている。
古代、三崎の道はもっと山寄りの観音森にあったと考えられている。しかし8世紀後半、朝廷が徐々に東北に進出してくると、従来の道では不便になったのか、大同2年(807年)、海寄りの三崎山に新しく道路が開かれた。それがこの古道のようだ。
当時、東北地方はまだまだ蝦夷(えみし)が勢力を振るっており、朝廷の支配の及ばぬ土地だった。朝廷は「柵」と呼ばれる要塞を拠点に、着々と北上しながら東北平定を進めていったのだが、それと一緒に道路の整備も進められた。当時の道は柵と中央との連絡路という性格が強い。三崎峠の古道も、そういった道の一つだったのだろう。
一方、朝廷に帰順した蝦夷は「柵養(こがい)の蝦夷」として馴化が図られ、それに仏教が利用されることもあった。慈覚大師は東北各地を行脚し、山寺立石寺をはじめとする多くの寺を作り、仏教を広めたという伝説を残している。それは仏教によって蝦夷を教化するという、朝廷の思惑と無縁ではない。
大師堂と古道が作られたのは、ちょうどそうした時期のことである。
三崎山はその峻険さゆえ、実質的に羽前と羽後の国境になった。古代には有耶無耶の関が置かれ、江戸時代には庄内藩が、峠下の女鹿集落に番所を置いている。
そして幕末、三崎山はそれゆえに戊辰戦争の激戦地になった。慶応4年(1968年)、奥羽列藩同盟の主力として新政府軍に対抗した庄内藩は、秋田藩と結んだ新政府軍とこの地で激突、双方多くの戦死者を出した。その遺体は拾われもせず放置されるに任せ、三崎山には無数の白骨が転がるという有様が、永く続いていた。
戊辰戦争から50年近く経った大正3年(1914年)9月、東平田村(現酒田市)の芝田新左エ門が、二週間にわたって三崎山でこの遺骨を拾い集めた。集まった遺骨は、4ダース入り大型ビール箱二つが満杯になるほどだったという。
拾い集められたおびただしい量の遺骨は、供養した上で翌年秋彼岸、当地に埋葬された。この供養塔はその時建てられたもので、無名の藩士たちの墓碑となっている。
三崎山には他にも、戦没者顕彰碑や、当地で戦死した秋田藩士、豊間源之進の墓など、戊辰戦争の史跡がある。
豊間源之心の墓。峠から少し離れた国道7号線沿いの片隅、藪に埋もれるようにして建っている。
大師堂の近くには小さな灯台も建っている。そしてそのすぐそばには山形県と秋田県の県境が控えている。旧来の国境は県境として、時を経た現在にも受け継がれている。三崎が海を分かつ岬であり、国を分かつ峠であることを物語る光景だ。
県境から古道をさらに少し行くと、一里塚跡が現れる。一里塚とは、江戸時代に一里おきに主要街道に沿って設けられた塚のことで、今で言う距離標や距離標識に匹敵する。
三崎山の一里塚は長年の風雪にさらされたせいか、あたりの林と同化しており、案内看板がなければそれと判らなかった。
古道を抜けると、こぎれいに整った芝生と遊具が現れた。三崎山周辺は現在公園として整備され、人々憩いの場所となっている。キャンプ場なんかもあって、ツーリングの宿にもちょうどよさそうだ。
三崎の名は、北から順に観音崎、大師崎、不動崎という三つの岬が並んでいることに由来する。古道はこの三つの岬を越える道である。
これまで見てきた峻険な地形は、太古の昔に鳥海山が噴火した際、噴き出した溶岩が海に流れ込み、冷え固まってできたものと考えられている。海に突き出した岩は荒々しく、溶岩特有の赤っぽい色をしている。
かつて旅人を悩ませた岬には、古道とは別にコンクリート舗装の遊歩道も設けられ、気軽に探索が楽しめるようになった。所々には四阿もあり、よく晴れた日には飛島や、遠く男鹿半島さえ見渡せる。