三崎新道入口

三崎新道秋田側入口

 三崎峠二つめの道は、明治時代に作られた「三崎新道」こと、現在の国道の旧道である。国土地理院の地形図では、この三崎新道に三崎峠の表記がある。羽越本線の高架が秋田側入り口の目印だが、普通に国道を走っていると見逃しやすいので注意しよう。


荒れ路面

三崎新道の様子

 高架をくぐると、いきなり荒涼とした風景になる。出入りはあるはずなのだが、人の匂いがあまりしない。


分岐

三崎新道分岐地点

 少し進むと道が分かれる場所に出た。左の若干舗装されてある方が新道だ。


未舗装路出現

未舗装路出現

 分岐の先で舗装は途切れ、未舗装路に変わってしまった。画像ではよく馴らされているように見えるが、実際は見た目以上にガレていて、車で走ると上下に激しく揺さぶられる。走行にはご注意を!

鳥海分牧造林標柱

 道端で「鳥海分牧造林」と書かれた標柱を見つけた。詳細は不明だが、新道付近では植林が進められており、背の低い松が整然と植わっていた。

荒涼とした三崎新道

 あたりは赤っぽい地面と岩がとにかく目立ち、一帯が鳥海山の溶岩でできていることを、改めて思い知らされる。今にも手長足長が出てきそうな雰囲気だ。


採石場

採石場のユンボ

 さすがに魔物は出なかったが、新道付近は採石場となっていて、かわりに大型ダンプや重機が出入りしている。地層が溶岩由来の安山岩を含んでいるため、採石に適しているらしい。採石によって新道はかつてのおもかげを失っているのだが、一方で新道がいまだ命脈を保っているのは、採石場への通り道として利用されているからに他ならない。
 採石の副産物として、この地で古代の青銅刀が出土したこともある。「続日本後記」には、当地にまつわる記録として、鳥海山に雲がかかり長雨が降った後、大量の鏃(やじり)が降ってきたと記されているが、これは雨によって土砂が洗い流され、地中に埋もれていた石器が表に出てきたものと考えられている。
 遊佐町には鳥海山を祀る出羽国一の宮大物忌神社があり、その近くには縄文時代の吹浦遺跡もある。いにしえの昔から、人々は鳥海山を見上げてこの地で暮らしていたのだ。


三崎新道碑

三崎新道切り通し

 道なりに進んでいると、小さな切り通しが現れた。

三崎新道碑

 切り通しの片隅には、大きな石碑がなかば藪に埋もれるようにして建っている。石碑には、この新道が設けられたいきさつなどが漢文で記されてある。

碑に現れる「縣令三嶋」の文字

 三崎新道は明治10年(1877年)4月に着工され、8月に完成した。建設の号令を出したのは、おなじみ「土木県令」初代山形県令三島通庸だ。その趣旨は、秋田と庄内の連絡を密にして、東北地方の発展を促すことにあったが、その裏にはもう一つ、三島らしい理由があった。
 三崎山は戊辰戦争の激戦地である。三崎に道路を作って通行を容易にすれば、戦禍再発を防げると考えたのだ。
 三島は当初、明治7年(1874年)に庄内藩のお膝元、酒田県知事として山形に赴任している。それには三島の手腕を見込んで、新政府軍を散々に手こずらせた庄内藩士を牽制しようという新政府の狙いがあったと言われている。また三島自身、戊辰戦争で新政府軍の後方参謀として働き、物資の輸送を担当していたことがあった。
 それだけに有事における道の重要性は、誰よりもよく知っていたはずだろう。三島が要害の地に新道建設を思い立ったのは、当然だったのかもしれない。


ヘアピンカーブ

女鹿のヘアピンカーブ

 切り通しを抜け、再び羽越本線を越えると、鋭いヘアピンカーブが現れる。道なりに進めば、道を下って国道7号線に出られる。カーブから延びている細道(画像で車が停まっている方)に入れば女鹿に出る。


女鹿

女鹿集落

 山形側峠下の集落。秋田の男鹿に対してこの名が付けられたと伝わっている。女鹿には「アマハゲ」こと、男鹿のナマハゲに似た行事も残っており、古来、海や峠を越えて、男鹿と何かの形でつながりがあったことを彷彿させる。

神泉の水

 こちらは集落内にある水場こと「神泉の水(かみこのみず)」。女鹿の人々によって古くから守り伝えられてきた。水槽がいくつかに分かれているのは、上のきれいな方から飲み水、米とぎ、野菜洗い、手洗い、洗濯に使うといった具合に、水を無駄にしないための工夫である。
 鳥海山麓は湧き水に恵まれている。この水場もそうした山の恩恵の一つである。ついでに夏の遊佐名物岩牡蠣も、鳥海の水の賜物だ。


国道7号線吹浦バイパス合流地点

国道7号線吹浦バイパス合流地点

 女鹿の集落を抜けた先で、道は広いバイパスに合流していた。三崎峠三つ目の道は、現在の国道7号線だ。
 吹浦から県境にかけての国道7号線は、昭和8年(1933年)、名前がまだ国道10号線だった頃から改修が始まった。昭和18年(1943年)には吹浦付近の改修が完成し、昭和25年(1950年)には、三崎新道の西に現在の国道が建設された。そして昭和59年(1984年)からは、山の方を通って吹浦と女鹿を結ぶ吹浦バイパスの工事が始まり、平成11年(1999年)に全線が開通した。
 現在の三崎峠は、かつての駒泣かせや三崎新道とは比べものにならないほど整備され、自動車で一瞬で通り抜けられる快適な道路となった。しかし車を停めて見て廻れば、確かにここが岬であり峠であり、それゆえに難所だったことの証が、ありありと残っていることに気付く。

(2006年4月/5月取材・同5月記)


案内

場所:山形県飽海郡遊佐町と秋田県にかほ市の間。県境。国道7号線沿線およびその旧道。

所要時間:
三崎公園古道遊佐側入り口から象潟側駐車場まで徒歩約20分。三崎新道象潟側入り口より女鹿まで自動車で10分程度。

特記事項:
三崎公園の古道は徒歩のみだが、駐車場完備なので入口付近までは車で乗り付けられる。三崎新道は自動車通行可。ただし大型ダンプが往来するので通行には気をつけること。近隣は大物忌神社、十六羅漢、蚶満寺、鳥海ブルーラインといった名所旧跡に恵まれている。国土地理院1/25000地形図「小砂川」。同1/50000地形図「吹浦」。

参考サイト:

「国土交通省東北地方整備局 酒田河川国道事務所」
URL:http://www.thr.mlit.go.jp/sakata/index.html

「遊佐町」
URL:http://www.town.yuza.yamagata.jp/

参考文献:

「栗子峠にみる道づくりの歴史」 吉越治雄 社団法人東北建設協会 1999年

「建設省酒田工事事務所75周年記念 川とともに道とともに」 建設省東北地方建設局酒田工事事務所 1992年

「酒田工事事務所 庄内に夢を運んで 創立八十年記念」 建設省東北地方建設局酒田工事事務所 1997年

「芭蕉おくのほそ道」 萩原恭男校注 岩波書店 1999年

「三島通庸と高橋由一に見る東北の道路今昔」 建設省東北地方建設局 1989年

「最上地域史 第二十七号」 最上地域史研究会 2005年

「山形県歴史の道調査報告書 浜街道」 山形県教育委員会 1981年

「やまがた地名伝説 第一巻」 山形新聞社編 山形新聞社 2003年

「やまがたの峠」 読売新聞山形支局編 高陽堂書店 1978年

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