森合峠は金山町中心部のすぐ北、薬師山東麓を越える小さな峠である。峠区間は約2キロと短いながらも、見所は非常に多い。
森合峠は激戦地としてその名を知られる。
峠がある金山は羽州街道かつての宿場町で、城下町新庄が指呼の間にあるのはもちろんのこと、羽州街道と旧街道有屋峠、青沢越えとの分岐でもあり、要害の地となっていた。峠は金山北の入口で、宿場町ののど元に位置している。
それゆえ、幕末の戊辰戦争では、峠を舞台に激戦が繰り広げられることになった。峠に至る道筋にある碑は、その歴史を今に伝えるものである。
慶応4年(1868年)、武力倒幕を狙う薩長連合が京都で挙兵し、戊辰戦争が始まった。薩長連合こと新政府軍は幕府に与する勢力を賊軍と見なし武力討伐を目論んだのだが、特に東北地方にあって佐幕論を唱える会津藩と庄内藩は、討伐すべき対象となっていた。
やがて東北地方の各藩は、新政府の名の下に専横を働く薩長に対抗すべく、会津藩と庄内藩を中心に奥羽列藩同盟を結成する。しかしその結束は必ずしも一枚岩でなく、各藩がそれぞれに事情を抱え揺れ動く、危ういものだった。
同年5月末、官軍が秋田に転陣したのを受け、同盟軍はこれを牽制すべく、仙台藩士を中心とする小隊を新庄に派遣する。そして7月、久保田藩は官軍に下り、同盟軍征伐のため南下を開始した。官軍が雄勝峠・有屋峠・銀山越えの三方面から同盟軍への攻撃を決定すると、同盟軍も仙台藩士による主力部隊を金山に展開し、激突することになった。
同盟軍と官軍は押しつ押されつの攻防を繰り広げたが、やがて決定的な事態を迎える。かねてから態度を決めかねていた新庄戸沢藩が翻意し、官軍に下ったのだ。これによって同盟軍は総崩れとなり戦線は破綻、主力部隊は有屋峠と森合峠から官軍に挟撃され、潰走することになった。その結果仙台藩士33名がこの地で戦死し、金山攻略戦は官軍の勝利に終わった。
碑はこの戦いで亡くなった仙台藩士を弔うもので、明治25年(1892年)、旧仙台藩の有志によって建てられた。碑が建っているのは戦没者の遺骸が埋葬された場所で、現在でも、心ある方々が花など手向けている。
ちなみにこの直後、報復のため庄内藩が新庄藩を攻撃し、新庄の城下町は火の海となった。この痛手はその後十数年経っても癒えず、後に新庄を訪れたイザベラ・バードをして「みすぼらしい町」と言わしめることになってしまった。
仙台藩士戊辰戦没碑を辞し、少し進むと分岐が現れる。ここが峠口。峠へは右折しよう。
しばらく進むと、右手の土手の下に、小さな緑地が見えてくる。ここが仙台藩が本営を置いた場所で、仙台藩士隊長、梁川播磨頼親(やながわはりまよりちか・注)が戦死した地である。
官軍との決戦に際し、主力部隊は要地森合峠に布陣した。しかし峠北に展開していた新庄藩部隊が離反、主力部隊は金山中心部まで退却を余儀なくされる。そこを有屋峠からの軍勢に突かれ、播磨は有屋峠口の十日町(金山町役場があるあたり)付近で負傷してしまった。からくも当地三本松へ逃れてきたが、そこを官軍に発見され、応戦するものの堰に足を取られよろめいた瞬間、斬りつけられて壮絶な最期を遂げた。
官軍は容赦なかった。その後隊長播磨と副将五十嵐岱助(いがらしだいすけ)の首は塩漬けにされ、峠を越えて秋田に送られ、さらし首にされたという。
注・「賴」が機種依存文字なので新字体で代用。
緑地には播磨を悼む碑がある。仙台藩士戦没碑同様、碑はかなり時代の下った明治40年(1907年)に建てられている。同盟軍は「新政府」に楯突いた「賊軍」であって、新政府の体制の元では、戦死者をおおっぴらに弔うこともできないという事情があった。この禁則は明治6年(1873年)に廃止されているのだが、それでも長年、人々に影を落としていたのかもしれない。「勝てば官軍」とはよく言ったものだ。
積む雪に 通路たへておのづから うき世をへだつ 冬の山里
戦死の地には播磨の句碑も立っている。ここの反対側から、本格的な登りが始まる。
峠道にさしかかると、立派な杉林がお出迎え。金山町は古くから杉の栽培が盛んで、杉が町木になっている。町では町内産の杉を使った住宅建設を奨励しており、街並み整備に一役買っている。
カーブこそ多いが、道そのものは全線舗装なので、自動車でも難なく通れる。ただし幅は狭いので、ご注意だけは怠らぬよう。
峠は江戸時代の初め、雄勝峠が開発されたことにより、羽州街道に組み入れられた。以来出羽国の主要道として、多くの旅人が行き交うことになった。明治初期にはおなじみ三島通庸の手が入れられ、明治天皇まで行幸されている。
昭和33年(1958年)、峠の西側に新国道ができたのに伴い一時期廃道化していたが、昭和56年(1981年)に林道として整備されたおかげで、今でもこんな具合に通れるというわけだ。
整備されているとはいえ、冬は通行止めになる。しかも雪が多かったりすると、春先には杉の倒木が行く手をふさいでいることもある(画像は2006年春のもの)
峠の中腹から来た方を振り返ると、杉林の向こうに金山の町が見える。峠を越えてきた旅人は、この光景にほっとするものを覚えたんだろうなと想像してみる。
峠には数々の文学碑が置いてある。散策が楽しめるようにと、金山町や有志が設置したものらしい。
岩ヶ根や また寂しさも 真清水の 音を聞きつつ たどる山影
鞍部には佐竹義和公の句碑がある。義和公は文化年間(19世紀初頭)の久保田藩の藩主で、文人としての才も備えていた。義和公も江戸への旅の途中、慰みにいくつも句を詠んだらしい。峠にあるのは金山で詠んだ一句である。峠は参勤交代の道でもあった。
夕日影 沈まんとする 大空に 月の山こそ あらわれにけれ
峠を通った文人で最も有名なのは、田山花袋だろう。明治27年(1894年)、花袋は日本一周の途上、森合峠を通っており、そこから眺めた月山の様子を「日本一周」に著している。
花袋の碑のあるあたりからは、天気がいいと月山がよく見える。下に見えるのは国道13号線。
花袋の碑を過ぎると、峠の出口はもうすぐ。急坂を一気に駆け下りていく。
坂の終わりは国道13号線。旧羽州街道は現羽州街道につながっている。
峠下には数百メートルほどの廃道が残っている。昭和33年に造られた国道の一部だが、昭和50年代のカーブ解消工事に伴い廃道化したものだ。
廃道とはいえ、20数年前までは現役の道路だったので、現在でも車が通れそうなほど程度はよい。しかし車が乗り入れられないよう路上には石が積まれ、出口は鎖で閉鎖されていた。フェンスをよく見れば、ところどころ金網が破けて木の枝が突き出し、着々と廃道化が進んでいた。
出口近くに分岐がある。たどってみると現国道の切り通しを挟んで、さっき通ってきた峠道が見える。現在の国道ができる前、峠道はここで国道13号線に合流していたようだ。