一里塚碑と日当たりの松並木

峠下の一里塚碑

 峠には生活の道としての側面もあった。峠の周辺には、それを伝える史跡の数々が残っている。せっかくだからそちらも紹介してしまおう。

 峠を下りてすぐ、国道13号線の脇に、「一里塚」と刻まれた碑と松並木が残っている。ここはかつての羽州街道で、昭和33年の改修以前、道はここを通っていた。一里塚碑はここに一里塚(里程標)があったことを示すものだ。

旧羽州街道日当たりの松並木

 羽州街道は諸藩の大名が江戸へと往来する主要道だった。そのため沿線にはこうした並木が整備されていたのだが、近代から現代にかけて新しい道路が作られるにともない、その多くは伐り倒されてしまった。それでもかつての街道沿いには、往事の姿を彷彿させる松や杉がいくつか残っており、この松並木もその一つである。昔はもっと長く続いていたそうだが、現道と除雪ステーションの建設にともない、現在は一部が残るのみとなっている。

 地元の古老に伺った話では、夏場は涼やかな木陰となって、道行く人々に憩いを与えたという。ところが冬場になると、こずえに積もった雪がいつ落ちてくるとも知れず、こわごわと通りすぎたものだと教えてくれた。


西田羽長坊の句碑

西田羽長坊句碑「竹涼し」 西田羽長坊句碑「ひとつづつ」

竹涼し 松には見えぬ 風ながら

ひとつづつ 折戸から来る 蛍かな

 峠に数ある文学碑の一つに、西田羽長坊(にしだうちょうぼう)の句碑がある。
 羽長坊は当地が輩出した俳人である。「羽長坊」とは俳号で、本名は定かでない。享保9年(1724年)西田家に生まれ、長じて数々の師について俳諧を学び宗匠となった。俳諧以外にも儒仏老荘、古典に通じた文化人で、最上地方、仙北地方に多くの門弟を従えていたと伝わっている。


猪ノ沢堤

猪ノ沢堤

 羽長坊が生まれた西田家は金山屈指の名家で、小間物や海産物を扱う豪商だった。峠の付近には山林を有し、新田開発も手がけていた。峠への分岐から1.2キロほど山間に入った場所に、江戸時代に西田家が作った堤が残っている。

猪ノ沢堤の記念碑

我祖先ハ慶安三年今ヲ去ル事二百五十有余年
其三代西田庄兵ヱ正徳三年巳十一月ヨリ着手此溜井ヲ築堤シ
同六年田地開発竣工自来本年ニ至リ将来ノ為メ石樋ニ変更シ
疏通ヲ便ナラシメ水源涵養ノ為其水上ニ幾百本ノ杉ヲ植付
永遠ノ幸福ヲ斗ル事ヲ希望ス
明治三十四年 辛丑九月吉日
十代 西田芳松

 傍らに建つ記念碑によれば、堤は新田開発のため、同家の三代目西田庄兵衛の主導で、正徳3年11月(1714年)から3年の歳月をかけて作られた。その後明治34年(1901年)、十代目西田芳松によって配水路が石造りのものに換えられ、水源涵養のため周囲に杉の木が植えられた。
 堤は農業以外にも、様々なことに使われた。夏場は養鯉が営まれ、冬には凍った湖面を利用して氷が作られた。氷は氷室に貯えられ、夏になれば新庄や鮭川村にまで売られていたという。子供たちには格好の泳ぎ場だったとか。
 古老によれば、昭和の中頃まで、ここに西田家の別荘があった。水上に臨むように建てられた楼閣は京都の金閣寺を彷彿させるもので、それは立派なものだったそうだ。
 後日、実際に別荘に通ったことがある方の話を伺うことができた。曰く、別荘は昭和40年代頃までは残っていたそうで、その頃でも年に二、三度利用することがあったとのことだった。


西田家墓所

羽長坊句碑周辺の杉並木 西田家墓所入口

 峠の入口、羽長坊の歌碑の真向かい、杉林の合間に西田家の墓所がある。西田家の十三代目が整えたもので、今でも一族がここに眠っている。
 古老曰く、かつてこのあたりには今とは比べものにならないほどに杉が生い茂り、中には戊辰戦争で銃弾を受けた杉や、相当の樹齢を誇る古木もあったという。杉材は筏に組まれ川を下って各地に売られ、金山に大きな富をもたらした。杉材で財を成した山主には、新庄駅前の一等地を買い求める者も多かったのだとか。

 西田家の勢いは相当なもので、昭和の初め頃には新庄市の中心部、本町通の入口に「雷音堂(ライオン堂)」という百貨店を構えていた。新庄初の百貨店で、建物は二階建て、山形県下初となるネオンサインの看板を備えていた。ショウウィンドウ用のガラスがあまりに大きくて列車で運べず、酒田港から陸揚げして陸路新庄まで運んできたという逸話が残っている。雷音堂は隣の「三吉屋百貨店」と並び、新庄駅前の顔となるほど繁盛していたそうだ。

西田家墓所

 しかしそんな時代も戦後になると終わりを迎える。高度経済成長による産業構造の変化か、山主であることが、富を約束するものではなくなったのだ。以前のように山林に手が入れられることもなくなり、弾痕の残る杉や古木もいつしか枯死してしまった。
 雷音堂は戦時中に建物疎開の対象となり店じまい、終戦直前の昭和20年(1945年)8月に取り壊されている。西田家は戦後まもなく土地を手放し、金山町を離れてしまった。水上の楼閣も既に解体され、その面影を偲ぶこともできない。往年の栄華は、杉林の合間に名残を漂わせるばかりである。

(2006年9月/07年5月取材・2007年5月記)


案内

場所:最上郡金山町飛森。薬師山北東、中森山との間。標高約260m。

所要時間
金山町三本松峠口から国道13号線合流点まで自動車で約5分。距離にして2キロほど。

特記事項
冬季通行不可。春先には路面に杉の葉が散乱していたり、杉が倒れていたりで通れないこともある。1/25000地形図「羽前金山」 同1/50000地形図「羽前金山」。

参考文献

「金山町史」 金山町 1988年

「写真にきく新庄のむかし」 新庄市企画課 1980年

「保存版 最上今昔写真帖」 大友義助監修 郷土出版社 2005年

「山形県 最上の巨樹・巨木」 坂本俊亮 東北出版企画 2002年

「やまがたの峠」 読売新聞山形支局編 高陽堂書店 1978年

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