二井宿峠

 「まほろばの里」を謳う高畠町は、かつて屋代郷と呼ばれていた。二井宿峠(にいじゅくとうげ)はその屋代郷こと高畠町と、宮城県七ヶ宿町を結ぶ県境の峠である。県境の峠は、古くから「まほろばの里」に悲喜こもごもを運んできた。


日向洞窟と羽山古墳

日向洞窟

 二井宿峠は山形最古の峠のひとつだと考えられている。それを示すのが、峠の周囲に点在する遺跡の数々である。日向洞窟(ひなたどうくつ)と羽山古墳は、そうした遺跡の一例だ。

 日向洞窟は峠の西北西約6キロほどのところ、名前のとおり南に面した日当たりの良い場所にある。洞窟からは縄文時代初期の土器や石器が多数出土しており、その頃には人の住みかとして利用されていたと見られている。当時、置賜盆地には太古の大湖水がまだ残っており、洞窟のすぐそばまで白龍湖が迫っていた。洞窟に住んだ人々は、野山や湖から日々の糧を得ていたと考えられている。

羽山古墳

 もうひとつ、羽山古墳は奈良時代の造営と目される古墳で、峠に至る国道113号線沿い、羽山と呼ばれる里山の中腹にある。奥行き約2.4m、幅約1.8m、高さはかがんでようやく人が入れる程度と、規模はそう大きくないのだが、勾玉や刀、金環、鏃(やじり)といった副葬品が多数発掘されており、当地に台頭した豪族が建造し、埋葬されていたと推定されている。
 峠筋の安久津(あくつ)地区や羽山界隈にはこうした小規模の古墳が密集しており、県下有数の古墳地帯となっている。これら古墳は6世紀ないし7世紀にかけて作られたものが中心で、その当時には置賜に古墳を作る文化や、それを可能とする社会体制が根付いていたこと、そして何よりそうした体制の支えとなる自然条件に恵まれていたこと―つまり稲作農耕に適した土地だったこと―を意味している。
 古墳に代表される王朝文化は中央より伝わってきたものである。王朝文化は北東北を中心とする蝦夷の文化と拮抗しつつ、南方から徐々に山形に入り込んでいった。その入り口のひとつとなったのが二井宿峠であり、峠下に古墳が集中しているのは、ここが文化の入り口であったことの名残なのだ。

 ところで、これら高畠町に存在する洞窟や古墳群は、それくらい昔から人々が自然の恵みを受けながら豊かに暮らしていたことの証であり、「まほろばの里」の根拠となっている。


二井宿

ここから旧道へ

 現在二井宿峠には二つの道がある。ひとつは現在の国道113号線二井宿道路で、もうひとつはそれ以前に使われていた旧道だ。今回は周辺の史跡を見物しながら、旧道を中心に紹介しよう。
 峠へはふもとの二井宿地区から登っていく。少々分かりづらいが、国道113号線二井宿小学校口十字路の手前250mほどのところから直接旧道に乗り込めるので、今回はこちらを利用した。

二井宿の町並み

 二井宿とは「新宿」の読み替えで、「上宿」と「下宿」二つの地区からなる。北にある大社神社近辺や西にある安久津が旧い宿場町だったのに対し、新しくできた宿場町だから「新宿」と呼ばれるようになったのだが、寛政5年(1793年)に「二井宿」と改めている。その理由は定かでないが、一説によると大火をきっかけに防火のため、上宿と下宿の間に井戸が掘られたので「二井宿」と綴られるようになったのだそうな。
 その名のとおり、二井宿はかつての宿場町である。米沢を発し二井宿峠を越え、福島に至る道は「二井宿街道」「仙台街道」「七ヶ宿街道」等と呼ばれ、戦国時代になると沿線に宿場町が作られていった。二井宿の集落自体は以前から存在していたようだが、宿場として発達したのはその頃のようだ。
 二井宿を横切る旧道は、ご覧のとおりの路地である。往年の建物はほとんど残っていないはずなのだが、家並みや垣根の造作に宿場町の雰囲気が漂う。
 昭和40年代初め頃までは糠野目(ぬかのめ・現在のJR奥羽本線高畠駅があるあたり)から集落の入り口まで鉄道が通じており、柏木峠にあった二重坂鉱山から採掘された鉱石や、山から伐りだした材木を運ぶのに活躍していたが、時代の流れか、昭和49年(1974年)には全線が廃止されている。

旧旅籠加登屋

 「加登屋」の屋号を掲げた建物を発見。こちらはかつての旅籠で、砥石問屋を兼ねていた。

案内標識 車長制限標識

 二井宿道路完成以前、旧道は国道として利用されていた。傍らには国道時代に建てられたとおぼしき標識がいくつか残る。「←上山」と表記されている方に行けば柏木峠経由で楢下に出られる。


大正橋と上有無橋

大正橋 上有無橋

 集落の外れにさしかかると立て続けに二本の橋が現れ、大滝川を渡る。一本目は大正橋で二本目は上有無橋。近代的な古橋と現代的な橋が同居しているのが面白い。

集落を抜ける

 橋を渡ると途端に建物が減る。ここからが本格的な峠道のはじまりだ。


現役の旧道

旧道も現役です

 旧道とはいえ現役の道路なので状態は悪くない。路面も舗装されていれば勾配もそう急ではないので、自動車でも余裕で通行可能である。もっとも、曲がり道注意の警戒標識のとおり、カーブの多い狭隘路であることに違いはないので、通行には少々気を遣う。
 二井宿峠の標高は568m程度と低く、線形もそう複雑ではないので、数ある山形県内の奥羽越えの峠では越えやすい方である。その利用しやすさゆえ、峠道は時代を追って順当に整備が進められている。この旧道も20世紀の終わりまでは国道として手入れされ、冬場には除雪もされていた。北の笹谷トンネルができる以前には関山峠と並ぶ笹谷峠の迂回路でもあったし、昭和40年代の栗子ハイウェイ建設に際しては、万世大路に代わる主要道建設候補地にもなっていた程である。

封鎖される枝道入り口

 最初のヘアピンカーブにさしかかると、枝道が延びているのを発見。ふもとの方にはいくつかこうした分岐が現れるが、峠へは本道を道なりに追っていけばよいので迷う心配は少ない。もっとも、ここはご覧のとおり通せんぼされているので入り込みようがないのだが。

旧道の急カーブ

 件の枝道入り口から前方を見たところ。急カーブの先には上り坂が待ち受ける。これより峠道は南に面した谷間を横切って進む。


採石場入り口

採石場入り口その1 採石場入り口その2

 谷を横切っていると、また枝道が現れた。こちらは谷の斜面に設けられた採石場につながっている。


中腹の様子

中腹の様子 山ひだに沿って進む

 谷間をすっかり横切ると中腹へとさしかかる。このあたりから峠道は山ひだをなぞる山道らしい山道へと変わる。

採石場をふりかえる

 このあたりで来た方を振り返ると、先ほどの採石場が一望できた。
 ちなみに二井宿峠付近には、現在の道以外にもいくつかの古道が確認されている。一番古い道は大社神社付近から屋代川支流の脚沢(すねざわ)をさかのぼり、エビナ峠(地形図では大社神社北東方向にある666mのピークとして記載)を経て金山峠下の干蒲に出るというもので、次にはこの谷を横切って万石沢(現在の二井宿道路古道沢橋が架かっている沢)をさかのぼり、宮城側の古道沢に出る道筋が利用されるようになった。
 旧道の基本となった道はさらにその後、元禄期に拓かれたものだが、こちらは大滝川沿いの一ノ坂を経て大滝不動尊前を通るというもので、現在の旧道とも相当に異なっている。現在の旧道は明治15年(1882年)頃に作られたもので、例によって「土木県令」三島通庸が手がけている。

コンクリート製の防止壁

 土砂崩れ防止用のコンクリート壁に遭遇。頑丈な壁に往年の国道らしさを垣間見る。


高畠遠望

中腹から高畠方面を見るの図

 上の方まで登ってきたところで西を見ると、山並みの向こうに置賜盆地と高畠の町並みが見えた。


上の方の様子

上の方まで登ってきました

 だいぶ上まで登ってきた。青空が大きく見えるのは峠に近づいた証拠だ。

仙王岳

 南には仙王岳(せんのうだけ)が見える。ふもとの谷間は二井宿で渡った大滝川の上流だ。上流にはその名のとおり大滝と呼ばれる滝があり、探勝道も設けられている。


峠の茶屋と大滝不動尊

峠の茶屋

 鞍部にだいぶ近づいた頃、左手に建物と参道らしいものが現れる。こちらが峠の茶屋と大滝不動尊だ。茶屋では座敷に上がって餅など食べることができる。旧道が今でも現役なのは、採石場や大滝不動尊への通路として必要だからだろう。

大滝不動尊参道 大滝不動尊

 大滝不動尊は茶屋のすぐ隣、石段で急な坂を登ったところにある。不動尊は鎌倉時代に越後は北蒲原(きたかんばら)の菅谷不動尊より勧請したもので、眼病に霊験があると謳っている。お堂は嘉永5年(1852年)に、二井宿の名工戸田半七とその弟子高梨軍七と高梨亦七が手がけたもので、見事な龍の浮き彫りが見物だ。さらにお堂の上手にある平場にはその昔米沢藩が屯所を置いていたそうで、国境警備の武士が詰めていたという。


伊達の無理境

現代に残る伊達の無理境

 不動尊を出れば峠は近い。鞍部手前にさしかかると、今度はでかでかとした県境標識が現れた。
 通常、県境は鞍部にあることが多いのだが、ここ二井宿峠は鞍部から少し西にずれた場所にある。これは戦国時代に峠を巡る争いがあったためで、それにちなんでこの県境は「伊達の無理境」と呼ばれている。

 戦国時代、置賜地方では三つの大名が入れ替わっているが、最初に置賜入りを果たしたのは、後に仙台に移った伊達氏である。
 もともと伊達氏が東北地方で勢力を振るうきっかけになったのは、源頼朝による奥州藤原氏征伐だった。鎌倉時代直前の文治5年(1189年)、石名坂の戦いで活躍した常陸入道念西はその功で福島の伊達郡を賜り、以後「伊達」姓を名乗るようになった。これが伊達氏の始まりである。
 ついでにこれとほぼ同じ頃に、置賜支配を任されたのが後に長井氏を名乗る大江時広である。時広は頼朝の側近大江広元の次男で、藤原氏征伐では中津川(現在の飯豊町中央部)に籠もった藤原氏の武将、藤原良元を討つという手柄を立てている。
 以後両氏はそれぞれ伊達と置賜を支配していたのだが、室町時代の天授6年/康暦2年(1380年)になると、八代目当主伊達宗遠が置賜領有を目論み、二井宿峠より置賜の長井氏八代目広房の元に攻め込んだ。宗遠の執拗な攻撃によりやがて長井氏は滅亡、伊達氏は置賜を手にしている。
 以後、二井宿峠は要地として、歴代の伊達当主が通ることになった。伊達氏が高畠に拠点高畠城を設けた際には、伊達郡の本拠地赤館城との連絡路として利用された。九代儀山政宗(注1)はこの峠で「なかなかにつづら折なる路絶えて雪にとなりの近き山里」の句を詠んでいる。十三代尚宗と十四代稙宗(たねむね)が争ったとき、稙宗はこの峠を越えて伊達郡に避難した。

国境の一本杉
国境の一本杉。今でも二井宿第二トンネル出口脇に立っている。

 そしてかの有名な「独眼竜」こと十七代貞山(じょうざん)政宗(注1)も、この峠に縁のある一人である。まだ少年だった天正7年(1579年)の冬、米沢に向かう際、雪で板谷峠が通れなかったので、ここ二井宿峠を通っている。そして長じて慶長5年(1600年)7月には、この峠で争うことになった。
 その頃、政宗は豊臣政権下で置賜を追われ、陸前の岩出山に転封させられていた。置賜は蒲生氏による短期の支配を経て、慶長3年(1598年)より、越後から入部した上杉氏の領地となっている。
 故地を奪われた恨みでもなかろうが、その頃伊達氏は豊臣方に対抗する徳川家康に接近していた。うってかわって上杉氏は豊臣方に付いていた。時は折しも天下分け目の関ヶ原前夜、全国が東軍と西軍に別れて争うことになったが、ここでも当時上杉氏が領していた白石城を巡り、東軍の伊達氏と西軍の上杉氏が激突することになった。その攻防の舞台となったのが、ここ二井宿峠だったのだ。
 伊達氏の勢いは相当なもので、白石城を陥落させたばかりか二井宿街道をさかのぼり峠に迫った。街道筋は伊達氏の故地で、領民も伊達氏の世話になった者ばかり、多くがかつての領主に味方したので、戦いはさらに伊達氏有利に進んだ。そしてついには鞍部を越え置賜を摩し、国境を鞍部西側300メートルまで押し返すに至った。
 こうして決まった国境が「伊達の無理境」である。「無理境」はそのまま出羽と陸奥の国境となり、近代になっても県境として残ることになった。この標識の少し北には国境の目印がわり「一本杉」がある。二井宿道路の新設と旧道の線形改修によって少々目立たなくなったが、今でも二井宿第二トンネル東坑門すぐそばに立っている。

 無理境は政宗がわずかに取り返した「置賜」であり、一族が置賜入りを果たしたゆかりの地であった。わずか300メートルではあるが、米沢生まれ置賜育ちの貞山政宗公にとって、この300メートルには大きな意味があったのかもしれない。


鞍部

国道113号線合流地点 玉ノ木原古戦場跡・ここが鞍部です

 かくして無理境から200メートルほど進むと国道113号線と再び合流し、さらに100メートルほど東に行くと峠の頂上に着く。このあたりが二井宿峠の鞍部である。二井宿峠は典型的な片峠なので、頂の先にはだらだらとした下り坂が続き、あんまり鞍部という気がしない。
 鞍部周辺は平場になっており、玉ノ木原と呼ばれている。件の国境争いで、伊達・上杉両家が激突した現場である。

玉ノ木原古戦場跡
玉ノ木原古戦場跡。薮っぽい広場にその旨を示す標柱が立っている。


脚註

注1・「政宗」:「政宗」という名の伊達家当主は二人いる。一人は一族中興の祖として仰がれる九代目政宗で、もう一人は戦国大名として知られる十七代目政宗公。それというのも十七代目は九代目にあやかって「政宗」と名付けられたため、こういうことになった。本記事ではそれぞれを区別するため、諡(おくりな)を併記している。

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