羽州街道追分

県道13号線合流地点の標識 羽州街道との追分

 鞍部から東に2キロほど進んだところで、国道は県道13号線・主要地方道上山七ヶ宿線と合流する。同県道の項で紹介したとおり、ここは旧羽州街道と二井宿峠の道が合流する追分で、庚申塔を兼ねた旧い追分碑が立っている。追分碑は明治3年(1870年)に建てられたもので「右ハもがみ海道 左ハ米沢海道」と刻まれている。
 二井宿街道はここより「七ヶ宿街道」とその名を変え、福島との県境小坂峠に至り、桑折宿(こおりしゅく)で奥州街道と合流する。奥州街道は現在の国道4号線に匹敵する道で、江戸と東北地方を結ぶ主要道だった。
 ちなみに七ヶ宿町の名はこの「七ヶ宿街道」に由来している。小坂峠より金山峠に至る仙台領内の羽州街道には七つの宿場町があり、それにちなんでこの区間は「七ヶ宿街道」と呼ばれた。七ヶ宿ダムの建設により現在は一つ水没してしまったが、旧街道は同町の大きな売りとなっている。

追分碑兼の庚申塔

 碑が示すとおり、二井宿街道は置賜と羽州街道・奥州街道を連絡する要路となっていた。
 屋代郷は長らく幕府天領として治められていたのだが、幕府に納める年貢米こと「御城米」は、この峠経由で江戸へと運ばれていた。また、太平洋で水揚げされた魚は、阿武隈川舟運などを利用して内陸へと運ばれ、二井宿峠経由で置賜にもたらされている。他には置賜特産の青苧・煙草・漆等の移出路としても使われた。
 北の金山峠が大名行列や三山行者が行き交った「人を運んだ道」であるのに対し、二井宿峠は「物流の道」としての性格が強い。それは今も同じで、先述したとおり、二井宿峠は万世大路や笹谷峠の代替路としての性格を少なからず備えている。


二井宿第一・第二トンネル

二井宿第一トンネル 二井宿第二トンネル

 現在の国道113号線は、平成9年(1997年)に開通した二井宿道路で峠を越している。新しい二井宿道路は大きな弧を描きながら置賜盆地東の丘を駆け上り、峠手前で立て続けに二本のトンネルをくぐり、鞍部へと至る。

二井宿道路から見る二井宿

 特に宮城側から山形に向かって下ると、トンネルを抜けるとすぐ眼下に二井宿の集落が見え、ジェットコースターの如く、あっという間にふもとまでたどりついてしまう。通った道筋こそ違うが、儀山政宗公が詠んだとおり「となりの近き山里」を体感できる。


酬恩碑

酬恩碑

 最後に二井宿峠で忘れてはならない史跡を二つほどご紹介。そのどちらも屋代郷を米沢藩の苛政から救った伝説的義民、高梨利右衛門(たかなしりえもん)にまつわるものだ。
 二井宿峠は、自由を求め、義民や農民らが何度も通ることになった道でもある。

 そもそも米沢藩は、その成立時から慢性的な財政難に悩まされていた。当初上杉家は伊達氏・蒲生氏に代わり会津120万石を領していたのだが、西軍に与したかどで会津を家康に没収され、関ヶ原以降、石高30万の米沢に押し込められていた。にもかかわらず、時の藩主上杉景勝は召し放ち(いわゆる藩士の「リストラ」)をしなかったため、120万石規模の家臣団を米沢の地だけでまかなわざるを得なくなっていた。
 そしてさらに追い打ちを掛ける事態が起こる。寛文4年(1664年)、三代目藩主綱勝が江戸で頓死、綱勝には世継ぎがいなかったため、米沢藩は取り潰しの危機に立たされた。近縁関係にあった会津藩主保科正之の尽力によりなんとか新しい世継ぎを据え、かろうじて取り潰しという最悪の事態こそ免れたが、この騒動の罰として、藩は30万石からさらに半分の15万石に減石された。にもかかわらず召し放ちをしなかったため、藩の台所事情はいよいよ苦しいものとなってしまった。そこで藩は預地(大名等に管理を任された幕府直轄地のこと)となった「まほろばの里」屋代郷に目を付け、過酷な取り立てを課したのだ。
 その内容は高い年貢のみならず、無賃の強制労働、様々な名目を付けての雑税徴収などなど、領民を搾れるだけ搾ろうとするものだった。また、藩が利益独占を目論んで専売制を強化したため、村人は勝手に産物を売ることもできなかった。年貢銭を得るためであっても、他領に物を売れば厳しく罰せられた。中には蝋燭50丁を売って極刑に処された農民もいれば、木の実を売ったというだけで16名が磔、3名が打首となる例もあった。こんな有様だから屋代郷は困窮し、日々の暮らしもたちゆかなくなるほどだった。

 これに対し村を救うべく立ち上がったのが、高梨利右衛門である。利右衛門は二井宿の名主で、またの名を島津利右衛門といった。苛斂誅求に苦しむ村人を捨て置けなかった利右衛門は、寛文6年(1666年)、藩の苛政と村の惨状を六十二箇条の訴状にしたため、信夫(現在の福島市あたり)の代官所に訴え出たが受理されず(これを「寛文目安」「信夫目安」と呼ぶ)、かくなる上はと江戸に出て、公儀への直訴を試みた。伝説によれば、訴状を三葉葵の御紋入りの桐箱に収め、上野寛永寺前の茶屋に置き去りにして公儀の忘れ物を装い、奉行所経由で将軍家に届けてもらうという一計を案じている。
 当時直訴は大罪で、利右衛門の行動は死を覚悟してのものだった。例に漏れず元禄元年(1688年)、利右衛門は磔にされるが、この直訴によって米沢藩の横暴が将軍家の知るところとなり、これはけしからぬと翌元禄2年(1689年)、屋代郷はめでたく米沢藩の支配より離れることになった。
 身を捨てて村を救った利右衛門は屋代郷の恩人となり、その遺徳は代々村人の間に語り継がれていった。そして利右衛門没後140年の文政10年(1828年)、村人は利右衛門に感謝して、屋代郷の知識人武田鳥海山人に揮毫を頼み、二井宿に記念碑を建てた。それが「酬恩碑(しゅうおんひ)」である。

 利右衛門の行動は村人に勇気を与え、心の支えとなったのだが、これが顕著に表れた事件が幕末の「屋代郷文久騒動」である。
 米沢藩の支配下を離れた屋代郷は、53年ほど幕府天領として治められた後、再び預地になったり、信州より転封してきた織田藩が一部を支配するようになったりと、たびたび支配体制が入れ替わりこそしたが、米沢藩私領になることはついに一度もなかった。
 ところが幕末に事態は急転する。文久元年(1861年)、屋代郷を私領同様に治めたいと、米沢藩が幕府に申し出たのだ。これに対し幕府が文久3年(1863年)に許可を与えたので、米沢藩はさっそく屋代郷にその旨のお触れを出した。
 これを知った村人はもちろんただではおかなかった。村人は「寛文支配の再来」と激しく反対し、米沢藩私領化を阻止すべく、様々な抗議活動を繰り広げた。この時は直訴に代わり仙台藩に再三再四窮状を訴え、仙台藩経由で幕府に意見を届けようと試みている。
 しかし寛文目安の頃と違い、幕府は厳しかった。その裁定は米沢藩の要求を全面的に認めるもので、領民はこれに従うべしとの見解を示した。幕府が米沢藩に味方した理由は、藩の支持を取り付けることで、弱体化していた幕権を少しでも強化したいという思惑があったからだと考えられている。
 そして同年10月。たびたびの抗議活動や越訴も実らず、一向に埒があかない事態にしびれをきらした村人の一部が暴徒化し、強奪や打ち壊しといった暴動に発展する。これが「屋代郷文久騒動」である。
 この騒動は、かえって米沢藩に屋代郷を支配する格好の名目を与えてしまった。幕府が騒動の顛末を吟味した結果、慶応元年(1865年)には米沢藩による支配を容認、屋代郷はついに米沢藩の私領となってしまった。騒動に関しては5名が獄門、1名が死罪、6名が島流し、3名が追放、村々には罰金が科せられるという厳しい処分か下されている。
 この騒動が原因で、酬恩碑は一度取り壊されている。騒動の精神的支柱となったのは、村人の伝説的英雄利右衛門だった。米沢藩や幕府にとって利右衛門は体制にたてついた「悪人」であり、それを顕彰する碑は郷民を惑わすものに他ならない。そのため屋代郷を検分に来た幕吏斉藤辰吉・山本長次郎によって、元治元年8月(1864年)に壊されてしまったのだ。権力にひねり潰され、酬恩碑まで失った文久騒動は、屋代郷の全面的な敗北に終わった。

 しかし時は幕末、もはや幕府に国をまとめる力は残されていなかった。慶応3年(1867年)ついに幕府が倒れると、それにともない幕藩体制も終わりを告げ、結果的に屋代郷は再び米沢藩の支配から解放されることになった。そしてそれから間もない明治3年(1870年)、破却された初代酬恩碑を土台とし、福島国見地方の書家菅山月の揮毫により、さっそく新しい酬恩碑が建てられた。これが現在の酬恩碑である。
 再建直後、大碑禁制によって一時横倒しにされたこともあったが、禁制が解けた明治11年(1878年)には再び元の姿に戻されている。そしてその後2度の小移転を経て、現在地に据わることになった。
 碑は二井宿小学校の校庭の傍らにある。高さ約5m、幅約3m、厚さ約1mの巨石には揮毫者山月老人の銘と「天下泰平 酬恩碑」の文字が刻まれ、まずはその大きさに圧倒される。重機などのない時代、もちろん全て人力で建てられた。記録によれば碑に使われた石は二井宿地内志田(下宿付近)より採取されたもので、一日1000人ほどが石曳きに参加しても、当地まで運んでくるのに一月半を要している。


一ノ坂刑場跡

一ノ坂刑場跡

 一ノ坂刑場は、大滝川左岸の古道沿いにある。元禄元年12月3日、利右衛門は村人に見守られながら、この地で磔台の露と消えたと伝わる。利右衛門最期の地は猫の額ほどの平場であるにもかかわらず、数々の碑やお地蔵様などが立ち並び、村人が利右衛門に寄せた思いの深さを知ることができる。

 現在の利右衛門像は、村人が子々孫々に言い伝えてきた伝承や、数少ない史料等によっているところが大きく、どんな人物だったかについては謎が多い。直訴から処刑まで20年の猶予があったこともそのひとつである。
 実際のところ、信夫の代官所に提出された六十二箇条の訴状には「米沢十五万石惣百姓」の署名こそあれど、それが利右衛門である確証はない。直訴があった年代も寛文年間だったとする説もあれば元禄年間とする説もある。利右衛門の「罪状」も直訴以外にも様々伝わっており、米を他領に売ろうとしたとか、身分を偽って金山採掘許可を申請したとか言われている。利右衛門なる人物が直訴によって処刑されたことは確かなようだが、周囲を巡る事情には諸説あって、どれが本当かははっきりしていない。
 利右衛門が生きた時代はどこの藩も財政窮乏に悩み、農民は重税に苦しんでいた。これを打開するため、各地に様々な抗議や解決策を試みる人々が現れたのだが、これが義民が登場する背景となっている。
 そして預地時代の屋代郷でも米沢藩の苛政に耐えかね、たびたび抗議を試みる者が現れたのだという。代官所に窮状の改善を訴え出た者、窮乏して米を他領に売る者、金山採掘願いを出した者、検地のやり直しを陳情する者等々、「寛文目安」や直訴はその一例だ。こうした名も無き人々らの業績が、その中の一人であり処刑された高梨利右衛門という実在の名主に集約され、伝承として結実したのだと考えられている。つまり複数の人々をモデルとして「義民」高梨利右衛門は生まれたのだ。

高梨利右衛門の無銘墓

 左から三つ目の碑は表面が掘り取られ何の銘もないが、これが利右衛門の墓である。米沢藩や幕府のもとでは利右衛門は「悪人」だったため、名を挙げて追悼したり、顕彰することができなかった。そこで村人たちは無銘の墓や撰文のない巨碑を建て、代々その遺徳を深く心に刻んできた。それは利右衛門個人のみならず、命を賭けて自由を守ろうとした、名も無き義民らへの敬意でもあったのかもしれない。
 権力に屈しないこうした郷民の心意気は「屋代郷気質(やっしょごうかたぎ)」と呼ばれている。

 二井宿峠は「まほろばの里」の東の果てにあたる。その場所ゆえに、いつの時代にも様々な人々が様々な思いを抱え、この峠を越えてきた。

(2006年8月/08年7月取材・2008年7月記)


案内

場所:山形県東置賜郡高畠町と宮城県刈田郡七ヶ宿町の間。国道113号線及びその旧道。鞍部標高568m。県境。大分水嶺。

所要時間:
二井宿から二井宿第二トンネル前間旧道自動車で約15分。同じく二井宿道路で約5分。

特記事項:
 旧道車長制限あり。全長8m以上の車は通行禁止。それと旧道は冬期通行止めになる模様。二井宿道路の方は通年通行可だが、大きなカーブを描く急坂なので油断は禁物。酬恩碑は二井宿小学校の敷地内にある。見学の際は学校の迷惑にならないよう気をつけること。国土地理院1/25000地形図「二井宿」。同1/50000地形図「上山」。

参考文献

「小国の交通」 小国町史編集委員会編 1996年

「高畠町史 中巻」 高畠町史編集委員会 1976年

「高畠町史 下巻」 高畠町史編集委員会 1986年

「東北の街道 道の文化史いまむかし」 渡辺信夫監修 無明舎出版 1998年

「二井宿の昔むかし」 二井宿語り部の会 2002年

「みやぎの峠」 小野寺寅雄 河北新報社 1999年

「屋代郷義民高梨利右衛門」 高梨利右衛門三百年祭実行委員会 1988年

「屋代郷文久騒動歎願真秘録」 針生武巳 1977年

「山形県鉱山誌」 山形県商工労働部商工課 1977年

「山形県交通史」 長井政太郎 不二出版 1976年

「山形県歴史の道調査報告書 二井宿・大塚街道」山形県教育委員会 1981年

「山形交通 高畠線・尾花沢線」 鈴木洋・若林宣 ネコパブリッシング 2006年

「やまがた地名伝説 第四巻」 山形新聞社編 山形新聞社 2007年

「やまがたの峠」 読売新聞山形支局編 高陽堂書店 1978年

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