雄勝峠(おがちとうげ)は秋田県湯沢市旧雄勝町院内と山形県最上郡真室川町及位との間にある県境の峠である。三崎峠と並ぶ数少ない山形県北の玄関口であることは、山形の大動脈、国道13号線が通過することからも伺えるが、その歴史は江戸時代の初めにまでさかのぼる。
峠の歴史は慶長7年(1602年)、久保田(秋田)に入部した大名佐竹氏が、参勤交代のため、院内と及位の間に新しい道を造ったことに始まる。
そもそも雄勝という地名自体は、律令制の時代にはすでにあったようだ。「続日本紀」によれば、天平9年(737年)、朝廷に任ぜられた陸奥出羽按察使(むつでわのあぜち)大野東人(おおののあずまびと)が、雄勝の蝦夷を平定すべく当地に進出を試みたという記録が残っている。
もっとも、その頃まだ雄勝峠はなく、最上と雄勝を結ぶ道としては有屋峠が利用されていた。東人は有屋峠を通り道にするつもりだったし、だいぶ下った戦国時代、最上義光が仙北地方に攻め入るときに通ったのも有屋峠だった。羽州街道も以前は有屋峠を経由している。最上と雄勝の往来には、永らく有屋峠が使われていたのだ。
ところが有屋峠の道はきつかった。峠は金山町有屋から旧雄勝町薄久内に抜ける道である。最上と雄勝を直線的に結ぶものではなく、しかも途中で神室連峰を越えなければならない。参勤交代で通るには負担が大きかったので、時の久保田藩主、佐竹義宜(さたけよしのぶ)は有屋峠に代わる新しい道の開削に乗り出した。そうして作られたのが雄勝峠で、新しい羽州街道はこちらを通ることになった。峠は別名「杉峠」とも呼ばれ、そのとおり、峠の周辺には杉並木が続いていたようだ。
雄勝峠は南秋田を流れる雄物川源流の一つ雄勝川と、真室川北部を流れる朴木沢川をほぼ最短距離で結ぶ場所にある。「みちのくのアルプス」を越える有屋峠に比べれば、通行は格段に楽である。
峠の開削にともない街道の周辺は整備が進み、沿線には宿場町もできていった。すぐ南にある主寝坂峠は雄勝峠によって羽州街道になった峠だし、及位や中田はそうして栄えた宿場町である。
秋田側の峠口、院内地区に当時の関所の跡が残っている。関所は雄勝峠の開通を受け、佐竹家の家臣、箭田野義正(やだのよしまさ)によって、慶長13年(1608年)に設けられたもので、もっぱら浪人の取り締まりや、近くにある院内銀山の警護にあたっていた。
院内は羽後国南の出入口であるのはもちろんのこと、院内銀山に臨むばかりか、秋田と仙台を結ぶ羽後街道と羽州街道が交わる場所でもあり、さらには矢島と真室川を結ぶ矢島街道と連絡する要害の地でもあった。それだけに関所は羽後国南の要となっていたのだろう。
それを端的に示すように、関所跡はまさに国道13号線と国道108号線が交差する地点にある(画像左上、コンクリート上の道路が国道108号線)。
江戸時代からの歴史がある峠だが、今回紹介するのは近代以降に整備された旧道だ。道は現在の国道13号線、雄勝トンネル秋田口のすぐ脇からつながっている。かつては車が盛んに行き交った道だが、現在は封鎖され、自動車での乗り入れはできなくなっている。
昭和期の車道だけにきちんと舗装されているが、一般車両が通らなくなって久しいだけに、路面には落葉が散らばったままになっている。
傍らの法面には、古びて苔むした石積みが残っている。
歩くうち覆道が現れた。手が入らなくなって久しいせいか塗装は剥げ、錆も目立っていた。
覆道を出てすぐ180度のヘアピンカーブを曲がると、また覆道が現れた。旧道にはこうした小さな覆道がいくつかある。
ヘアピンカーブからは林道が延びている。こっちに入ると雄勝川をさかのぼってあさっての方向に行ってしまうので気をつけよう。
覆道内には簡素な作りの小屋があった。すぐ脇には大量の薪が積まれている。林業の冬用作業小屋だろうか。
また覆道を抜けると、左手の斜面に大きな流水溝が現れた。ここがかつての大動脈だった証拠の一つだ。
覆道を抜けたと思ったら、またまた目の前に覆道が現れた。しかも今度は三連続。短い区間にこんなに覆道が続くのだから、峠はよほど雪崩が多かったのだろうか。
三連覆道を抜ける。無線用の鉄塔を見ながら二つめのヘアピンカーブを曲がる。
ヘアピンの先には覆道を備えたトンネルがあった。これが旧雄勝隧道で、長さ425m、幅6.7m。男鹿石製の坑門を備えているが、覆道のおかげで内側からは全く見えない。現在のトンネルが開通するまでは、このトンネルが使われていた。
隧道前の覆道は1978年(昭和53年)に作られている。覆道が現役だったのは、ほんの少しの間だったようだ。
道端に落ちていた高さ制限標識。廃道化が進んで外れてしまったようだ。
傍らには筵と焚き火の跡。誰か住み着いているんだろうか?
隧道前の天井はずいぶん錆びが進み、一部が剥がれ落ちていた。
隧道は鉄扉で閉鎖されている。残念ながら、一般人は現在通り抜り抜けできない。
隧道を含め、ここまでの道は昭和時代に作られたものである。この道の上には、さらにそれ以前、明治時代に作られた古道が残っている。隧道前、覆道に一箇所だけ空いた穴が、その入口だ。