古道の様子

流水溝らしきブロック積み ブロック接写中

 穴から覆道を出る。旧隧道建設に伴いさまざまな工事があったためか、外には溝状のブロック積みが残っていた。

雄勝峠古道

 穴の真向かいに道跡が見つかった。人の手が入らなくなって久しいせいか、路上は一面枯れ葉や草で覆われ、木さえ生えている。しかし法面の石積みを見れば、ここが道であったことがすぐわかる。
 取材に行ったのは五月なかば。藪こそ少ないが雪解け水で路面は抜かりぎみで、少々歩きづらかった。


古道を進む

道跡を追う

 跡はよく残っており、しかも常に行く先が見えるので、道は非常に追いやすい。もっとも、廃道であることに違いはないので、薮や倒木との格闘は避けられないのだが。

雄勝峠の北側を望む

 道の途中、北側を望む。道は北向きの谷筋に、折り畳まれるようにして刻まれている。耳を澄ますと、遠くに現在の国道13号線を行き交う車の音が聞こえた。


古道消失

道跡消失地点

 跡に沿って進んでいると突然道が切れ落ち、行く手をふさがれた。雄勝峠古道最初の難関だ。

崖っぷちの流水溝 朽ち果てた防止柵

 崖っぷちの僅かな足場を渡り、先の様子を見る。道跡が消えた先には、コンクリート製の旧い流水溝と、朽ち果てた防止柵がある。どうやら旧隧道建設時に作られたもののようで、それに伴い古道の一部が崩されてしまったようだ。

隧道前覆道の屋根

 下を見れば、さっき通ってきた覆道の屋根が見えた。

とりあえず登ってみよう

 消失地点に戻る。上を見ればまだ道が続いている。生えた木を頼りに、斜面を登る。

登ったところから下を見る

 登りきって下を見るとこんな具合。


倒木出現

倒木出現

 再び道跡に合流してほっとしたのもつかの間、今度は立派な倒木が立ちはだかる。もっとも、古道歩きではよくある光景。


大崩落跡

南東斜面大崩落

 再び道跡に沿って進むうち、今度は派手に崩れた斜面が現れた。峠の南東にある沢筋が大きく崩れ、道跡が埋もれてしまっている。目的地は見えているのになかなか先へ進めないあたり、「ドンキーコング」か「ハイドライド」でもやっているような気分になってくる。雄勝峠第二の難関だ。
 斜面はずいぶん前に崩れたようで、木がいくつも生えている。行く先の道跡が見えているので迷うことはないのだが、滑り落ちないよう気をつけながら歩を進める。


笹薮

笹薮出現

 沢筋を横断すると、道跡には笹薮が目立ってくる。ここまで来れば鞍部はもうすぐだ。


再び大崩落

南東斜面を尻目に進む

 九十九折りの道は再びさっきの沢筋をかすめて続く。無事に渡り終えてほっと一安心。

南東斜面の残雪

 件の沢筋に積もる残雪。これまで何度の雪崩を起こしたのだろうか?

鞍部直前の道

 最後の難関を過ぎると道は穏やかになった。あとは鞍部に向かうだけ。


雄勝峠

雄勝峠切り通し

 ついに雄勝峠鞍部に到着。鞍部は巨大な切り通しになっており、相当に大規模な工事で作られたことが伺える。現役を退いて久しくすっかり緑に埋もれているが、その存在感は今なお見る者を圧倒する。
 この切り通しを造ったのはもちろん初代山形県令、毎度おなじみ三島通庸だ。三島は山形の近代化のため様々な道路を作ったが、羽州街道の要所、雄勝峠もその例外ではない。

 江戸時代の開削以降、羽州街道として人々が行き交った峠道も、近代の幕開けにともない、より物流に適した道への改修が待ち望まれていた。特に当時、秋田では羽州街道に代わり、羽後街道鬼首峠で秋田と仙台を結ぶ道を整備・国道化する計画が持ち上がっており、近隣の宿場町や院内銀山など羽州街道関係者は、それにともなう雄勝峠の衰退を懸念していた。その一人が他でもない、三島だったのだ。
 雄勝峠は山形にとって、数少ない北への出入り口の一つである。秋田と仙台の直通道路が主要道となってしまえば、山形は北への出入り口を失い、物流から大きく取り残されてしまう。「道路こそ近代化の基礎」と考えた三島が、羽州街道の要所の改修を思い立ったのには、そうした理由があった。
 明治9年(1876年)、時の太政大臣三条実美(さんじょうさねとみ)が東北視察に訪れた際、三島は久保田まで三条公に会いに行き、雄勝峠の整備を訴えている。さらに帰りには峠下の及位に寄り、当地の道路世話係高橋作右衛門に、秋田・山形・院内銀山の三者で協力し、雄勝峠の整備を実現せよと命じている。また内務卿大久保利通にも書簡を送り、雄勝峠と主寝坂峠改修の意義を説いている。
 作右衛門はすでに院内銀山局長に会っており、銀山が雄勝峠の改修を熱望していることを知っていた。作右衛門から銀山の意向を伝え聞いた三島は、この報に大いに喜び、すかさず陳情の手はずを整えるべく動いている。
 そして同年12月、秋田・山形の両県令と院内銀山局長が上京して陳情した結果、7万5000円の国庫補助とともに改修許可が下り、雄勝峠は近代的な道へと生まれ変わることになったのだ。

 西南戦争のため起工は遅れ、明治11年(1878年)9月より工事開始、内容は金山以北の上台峠から雄勝峠に至る区間を馬車で通れるようにするものだった。工事は明治13年(1880年)12月に完成し、翌14年(1881年)には、明治天皇がご巡幸で新生雄勝峠を通って山形入りされている。この時改修された区間は明治18年(1885年)、山形と秋田を結ぶ区間の一部として、国道40号線の指定を受けている。

 工事にあたっては、主寝坂と雄勝の両峠に隧道を穿つ計画もあったらしい。工事開始の直前、明治11年7月に雄勝峠で秋田入りしたイザベラ・バードは、院内の宿屋で、峠で隧道建設の測量をしている技師たちと居合わせ、トンネルができたら人力車や馬車で東京から秋田まで行けるようになるだろうと述べている。
 しかし、上台峠や森合峠など、他に多数の工事を抱え隧道建設に手を回せなかったという事情と、当地に来た工事技師エッセルの「切り通しとカーブで代替可」という調査結果を踏まえ、隧道計画はお蔵入りになっている。その代わりに造られたのが、この見事な切り通しというわけだ。


雄勝隧道山形側

雄勝隧道山形口

 切り通しの先にも道は続いているのだが、旧道建設によって分断されており、通り抜けは困難な状態である。今度は山形側から旧道で旧隧道の入り口まで行ってみた。秋田側同様鉄扉で閉鎖され、やはり一般人は通り抜けできなくなっている。

 その後峠は主寝坂峠同様、明治末の鉄道開通によって衰退し(もっとも、鉄道の院内トンネルも雄勝峠を通過してはいるのだが)、さらに自動車向けの改修もされないまま、廃道化の危機に瀕している。雄勝峠が復活するのは、昭和30年代のことである。
 峠筋の衰退を懸念した金山町と近隣市町は、その改修を求め、昭和11年(1936年)から強力に陳情を繰り返してきた。その甲斐あってか雄勝峠の改修が決まり、峠にトンネルと新道が造られることになった。着工は昭和25年(1950年)。明治期から約70年を経て、隧道が実現したわけである。
 雄勝隧道自体は昭和26年(1951年)7月着工し、同30年(1955年)に完成している。今度の改修の内容は、昭和以降主流となった自動車輸送への対応だった。隧道の取り付け道路となる新道は、以前より幅も広く勾配も緩やかで、カーブの数も減っている(参考までに古道は平均勾配6.3%・最少屈曲半径4m以下6箇所・幅員3〜5m。同じく旧道平均勾配4.5%以下・最少屈曲半径30m以下4箇所・幅員約7m)。それにともない明治期の道が廃道化し緑に埋もれることになったのは、これまで見てきたとおりである。


殉職之碑

雄勝隧道殉難之碑

 隧道脇には、ひっそりと慰霊碑が建っている。隧道工事で亡くなった、三名の犠牲者を弔うものだ。
 隧道は長さ425mとそう長くはないのだが、非常な難工事だったらしい。隧道がある地層は全てが凝灰岩で、しかも隧道とほぼ平行して断層が幾筋も走っていた。崩れやすく水を含みやすい地質で、工事では度重なる落盤と、天井から「雨のごとく」降ってくる湧水に悩まされたと伝わっている。三人は落盤で命を失ったのだろうか。
 記録によれば、脆い地盤を支えるため、隧道には総延長の65%にわたって支保工が埋め殺しにされ、75立方メートルのモルタルが注入されている。また、湧水を速やかに外部に逃すため、大規模な排水溝や流水溝も設けられている。秋田側で見たブロック積みの遺構は、おそらくそういうことだ。
 坑道自体は隧道着工翌年の昭和27年(1952年)3月に貫通したのだが、切拡掘削工事(貫通した坑道を広げる工事)と巻立工事(コンクリート等で坑道を補強する工事)の完成は昭和28年度末(1954年)で、湧水対策工事の完成は昭和29年度中(1954年〜1955年)となっており、補強や湧水対策に相当の時間をとられたことが伺える。工事記録誌はこの難工事ぶりを「語り草になるであろう」と評している。
 隧道工事の費用は当時の価格にして約1億2000万円で、1mあたり28万円弱。動員した人数71500人。さらに3名の尊い犠牲の上に造られた隧道も、今となっては通ることもかなわない。

隧道前の案内標識

 隧道前には現役当時の案内標識が残されたままになっていたが、どれも朽ちかけていた。


雄勝トンネル

雄勝トンネル山形口 雄勝トンネル秋田口
雄勝トンネル山形口(左)と秋田口(右)。山形秋田両県をつなぐ重要路線として活躍中だ。

 昭和56年(1981年)に開通した、雄勝峠二代目となる自動車トンネルで、全長は1375m。現在国道13号線はこのトンネルで峠を越している。トンネルは峠の下をほぼ一直線に貫いており、前後にヘアピンカーブや急勾配も一切ないため、非常に走りやすい。

 昭和30年のトンネルも急速な時代の流れにはついていけなかったようで、程なく数々の問題に悩まされることになった。明治の古道に比べて自動車通行に適しているとはいうものの、やはりヘアピンカーブが続く難所であることに違いはなかったし、その地形ゆえ、雪崩にも悩まされた。そこで再び峠にトンネルが造られることになったのだが、それによって昭和30年の国道は、開通わずか26年で廃道と化してしまった。

 雄勝峠には現在、自動車トンネルと鉄道トンネルが各二本、合計四本のトンネルがあるのだが、全てが峠付近の狭い範囲に密集している。逆に言えば、道を造れる場所が、それだけ限られているということなのだろう。
 羽州街道の要所、雄勝峠は旧来の峠に上書きするように、時代に応じて新しい道が作られてきた。そして現在も、東北中央自動車道の路線として三本目の自動車トンネルの計画が進められている。現存する道もゆくゆくは、新しい道によって上書きされるのかもしれない。

 雄勝峠に埋まっているのは、トンネルだけなのだろうか?

(2006年5月/07年8月取材・2007年8月記)


案内

場所:最上郡真室川町朴木沢と秋田県湯沢市旧雄勝町院内の間。県境。国道13号線およびその旧道。標高424m。雄勝隧道標高371.48m。

所要時間:
秋田側旧道入口から雄勝隧道まで徒歩約10分。同じく隧道から鞍部まで約30分。雄勝トンネル通過自動車で約2分。

特記事項:
 秋田側旧道は自動車乗り入れ不可。山形側旧隧道付近は私有地となっている。旧隧道は封鎖されており通り抜け不可。古道は全くの廃道で、秋田側からしか登れない。道跡は比較的見つけやすいが、工事や災害によって失われている箇所もあり、通り抜けは困難である。車両での乗り入れは無謀。夏場は藪に埋もれて徒歩でも通行困難となるため、踏破を試みるのなら藪の少ない時期の方がやりやすい。国土地理院1/25000地形図「松ノ木峠」「横堀」「及位」。同1/50000地形図「湯沢」「羽前金山」。新しい地形図に古道の道跡は載っていないので、できるなら旧い地形図や工事記録等を参照するとよいと思う。

参考サイト

「国土交通省東北地方整備局 地域づくり『T-COM』Vol.31」 国土交通省東北地方整備局
URI:http://www.thr.mlit.go.jp/tohokunet/community/information/top.html

「山形河川国道事務所 地域づくり『季刊誌U-zen』創刊号・Vol.4」 山形河川国道事務所
URI:http://www.thr.mlit.go.jp/yamagata/u-zen/index.html

「山さ行がねが 道路レポート『雄勝峠(杉峠)旧旧道』」 ヨッキれんさん
URI:http://yamaiga.com/road/ogati/main0.html

「早稲田大学リポジトリ 『山形・秋田両県界雄勝峠・塩根峠開鑿隧道構築ニ関スル照会』」
URI:http://hdl.handle.net/2065/10811

参考文献

「雄勝(峠)國道改良工事概要」 東北地方建設局 1955年

「金山町史」 金山町 1988年

「東北の街道 道の文化史いまむかし」 渡辺信夫監修 無明舎出版 1998年

「日本奥地紀行」 イザベラ・バード著 高梨健吉訳 平凡社 2005年

「真室川町史」 真室川町史編纂委員会 1997年

「三島通庸と高橋由一に見る東北の道路今昔」 建設省東北地方建設局 1989年

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