鶴岡を発し大日坂で湯田川を出た小国街道は、最初の難所鬼坂峠を越えた後、楠峠・一本木峠を越え、木野俣を経て、庄内小国川に沿って小国へと向かう。そして角間台峠(かくまだいとうげ)と堀切峠を続けざまに越え、越後に出る。
堀切峠と角間台峠は、越後と羽前の国境にあたる峠である。今回は小国街道を越後側から追いながら、この二つの峠を紹介しよう。
堀切峠へは新潟県村上市小俣(おまた)地区から登っていく。小俣へは府屋より県道52号線・主要地方道山北関川線を利用するのが判りやすいだろう。
小俣は小国街道の国境にあたる。古くは宿場町だったようで、町並みがそれを感じさせる。街道の出入りを取り締まるための口留番所もあったようだ。越後に入った小国街道は、これよりさらに南の葡萄峠(ぶどうとうげ)等を経て、新潟へと続いていた。
小俣の外れにさしかかると、Y字路が表れる。ここが堀切峠への分岐。峠に行くには左の道を選ぼう。ちょうど案内標識が出ていたので迷うことはなかった。ちなみに右を選ぶと最奥の集落雷(いかづち)を経て、雷峠に出られる。
小俣を出ると、道はさっそく鄙びた山道の趣を帯びてくる。道なりに進んでいこう。
やがて道のかたわらに鳥居とともに「日本国」の標柱が表れる。これは峠の西にある低山の山頂に至る登山道の入口だ。「日本国」とはその低山の名前である。
なぜ越後と出羽の国境に、国号を冠する山があるのか。そこには堀切峠を知るための手がかりがある。
飛鳥時代、蘇我一族の迫害から逃れ、都を離れた蜂子皇子は、やがてみちのくの山中に聖地羽黒山を開く。あるとき皇子が当地を訪れた。そして小高い丘に登り都の方を指し、「ここは国の果てるところ。これより南が日本国である。」と言った。以来、それにちなんで皇子が登った丘は「日本国」と呼ばれるようになった。
これが「日本国」の起こりとなった伝説である。
古代、みちのくは「日本」ではなかった。そこは朝廷の支配におかれない蝦夷の領分だった。朝廷の支配が及んだのは越後まで。中央にとっては、そこから先は異境である。越後とみちのくの境目はまさに国の果て。ゆえに越後とみちのくの間に「日本国」があることに、古代の日本の姿を見る思いがする。
大化の改新以降、朝廷は急速に中央集権化を強めていった。やがて異境みちのくを支配下に置くべく、永年にわたる執拗な進出行動を始める。
朝廷は少しずつみちのくに進出していった。大化の改新直後の大化3年(647年)には信濃川河口付近に渟足柵(ぬたりさく)を、翌4年(648年)にはその北方村上に磐舟柵(いわふねさく)を築いている。さらに斉明4年(658年)には阿倍比羅夫(あべのひらふ)率いる180隻の水軍が秋田方面の蝦夷を征討し、陸では都岐沙羅柵(つきさらさく)と渟足柵の長官が叙位されている。進出は海と山の二方向作戦。朝廷は徐々に拠点基地を北進させ足場を築く一方、海からも兵力を送り込んだ。
日本国山頂付近。気軽に登れる低山として人気が高い。天気に恵まれれば佐渡さえ見えるという。
旧温海町は南北に走る道路と東西に走る道が何本も交錯し、まるであみだくじのようになっている。それは朝廷が海と山の二方面から互いに連携しつつ、北上していったことの名残なのだとも言われている。そして「日本国」の果て堀切峠も、そうした進出路の一つだったのだと。
朝廷はその後も進出の手をゆるめず、いくつかの柵の建設、帰順した蝦夷の懐柔、功労者の位階等を進め、着実に勢力を広げていった。そして和銅5年(712年)には「出羽国」が設けられる。ここにみちのくは「出羽」と呼ばれるようになり、「日本国」の一部となったわけである。
現在の峠道は車道として整備されている。もちろん全線舗装で、自動車で何の問題もなく通れる。ただし九十九折りというものがないため、急坂を一気に鞍部まで登ることになる。険道マニア的にあんまり面白みがないと言えばない。
急坂を登りきり、あっという間に堀切峠に到着。標高約205m。山形と新潟の県境で、ここから先は山形県となる。古くは越後と出羽の国境であり、古代には「日本国」の果てでもあったわけだ。
旧街道の情緒はないが、それでも傍らには標柱や案内看板など立っていて、ここがまごうかたなき歴史の道であることを主張している。
鞍部を出て小名部(おなべ)に向かう。鞍部直下には急カーブが控えている。通行注意!
鬱蒼とした杉林を脇目に峠を下る。山形側の下りはほぼ一直線。鞍部から小名部まではこのダラダラ坂がひたすら続く。途中には山仕事の作業小屋などいくつか建っていて、親しく人が往来しているのを感じさせる。
小名部にほど近いところで墓場を発見。墓碑銘によれば、どうやら日露戦争と太平洋戦争に出征した地元戦死者を弔ったものらしい。
ダラダラと下った末、山形側の峠口、鶴岡市小名部に到着。狭い道をはさんで、両脇にこぢんまりとした住宅が並ぶ様がやけに旧街道らしい。