角間台峠峠口

角間台峠入口・宮下橋

 引き続き角間台峠を目指すことにしよう。角間台峠への道は小名部地区から伸びている。ちょうど堀切峠を下ったところが角間台峠の入口だ。

宮下橋町道小国線銘板

 入口にある宮下橋には「町道小国線」の銘がある。町村合併で温海町は鶴岡市になったため、現在町道でないことは確かだが、この道が小国地区に至る道であることは確かなようだ。


熊野神社

小名部熊野神社

 峠口の傍ら、鼠ヶ関川のほとりに熊野神社がある。作られた年代は明らかでない。旧くは里山に祀られていた山の神のお社だったのだが、その山の神の社を改築し、紀州より勧請した熊野権現と合祀したのが神社の始まりと伝わる。和泉式部がお参りに来たという伝説があるので、平安時代にはすでに創建されていたのかもしれない。

熊野神社社殿

 小名部は熊野修験にかかわる人々が建てたという言い伝えがあり、この熊野神社は彼らが勧請したと考えられている。堀切峠は彼らが紀州熊野から出羽にやってきた道でもあったのだろう。
 そういえば渓谷に沿い、深い山中に集落が点在している温海の様子は、どことなく紀州熊野に通じるような気もする。彼らは出羽の山中に故郷に似たものを感じ、ここに居を定めたのかもしれない。「小名部」とは「鍋」の転記で、当地の鍋の底のような地形を指してこの名が付いたと言われている。


旧町道小国線

全線舗装です コンクリートで固められた小鞍部切り通し

 町道として整備されたためか、角間台峠も通るのにそう難儀しない。全線舗装で乗用車が離合できる程度に幅もある。ただしほとんど九十九折りなしで鞍部まで一気に登っていくのは、堀切峠同様だ。
 近代以降、峠は永らく廃道状態となっていたが、その必要性が認められ、現在の姿になった。昭和50年代、林業振興と地元住民の生活路の確保を目的に、温海地内を南北に走る数々の道路が整備された。角間台峠もその一環で整備されたものである。
 改良によって趣は大きく変わったそうだが、道筋自体は江戸時代の旧街道から大きく変わっていないらしい。


角間台橋

角間台橋

 小さな橋で角間台川を渡る。橋には「角間台橋」の銘がある。
 「やまがた地名伝説」によれば「かくま」とは「川が曲がる場所」という意味らしい。「角間台」がその「かくま」かどうかはわからないが、地形図を見れば、確かに角間台川はこのあたりで見事に折れ曲がっている。

水田の脇を行く

 角間台橋の先には畑や水田がある。このあたりまでは農道としても使われているのだろう。


角ヶ沢橋

角ヶ沢橋

 畑を見ながら進むと、やがて道は山深くなってくる。そして小さな橋で再び角間台川を渡る。橋には「かどがさわばし」の銘がある。「かどがさわ」とは角間台川の地元での通称だろう。このあたりから本格的な登りが始まる。


山温海

温海の山中改め鞍部直下から日本国方面を見るの図

 山の方に入っても道は全線舗装で、非常に走りやすい状態である。
 ふと来し方を振り返れば、山並みが連なる谷が見えた。正面に見える山はおそらく日本国。ここが日本海から10キロと離れていないことが信じられないほど山深い。
 地元の昔話によれば、夜になるとこのあたりに「バレロンお化け」なる妖怪が出没したという。道行く人におんぶをせがみ、頭を舐められると禿げてしまうというので、村人は夜にこの道を通ろうとしなかった。その後勇敢な若者によりお化けは無事退治されたのだが、確かにこんなうら寂しい道、お化けの一匹も出てきそうな気配である。

数少ないヘアピンカーブ

 数少ない九十九折り箇所。ここを抜ければもうじき峠。


角間台峠鞍部

角間台峠鞍部

 角間台峠の鞍部に到着。鞍部は弧を描く切り通しで、旧来の道を掘り下げて作ったものと思われる。堀切峠同様車道として整備されているせいか、あんまり情緒というものはない。
 古地図によれば鞍部手前に一里塚が設けられていたのだが、昭和50年代の改良工事で跡形もなく失われたそうで、今となってはどこにあるか定かでない。

角間台峠看板

 「角間台峠 山火事注意」の看板を発見。ここが角間台峠であることは間違いないようだ。周辺は地元の山菜狩り場となっている模様で、峠は地元住民の往来が多いらしいことがうかがえた。
 ちなみに庄内の峠には、山菜やキノコを保護するためなのか、周辺への入山禁止という場所がけっこう多い。


小国に下る

下りの舗装路

 登り同様下り道もよく整備されており、ふもとまで車でだらだらと下っていける。

角間台峠の大カーブ

 道は山肌に沿って大きなカーブを描く。下り最大の見所。

あとはだらだら下ります

 大カーブを抜ければ、あとはふもとに下りるだけ。


熊野神社

小国熊野神社 熊野神社社叢杉並木

 下っていけばやがて小国地区に出る。そして小名部同様、ここにも熊野神社がある。峠の南と北に同じ神社があるので、何か関係があるのか勘ぐりたくなるが、そういうものはあまりないらしい。
 こちらの熊野神社は長禄2年(1458年)、時の地頭穐本右エ門督が造営し、当時庄内を領した武藤氏の祈願所となっていた。現在の社殿は明治11年(1878年)に作られたものである。


小国城跡

小国城本丸

 小国の西にそばだつ楯山(標高348.5m)には、昔山城が設けられていた。小国城と呼ばれており、国の史跡にも指定されている。

 当地を経由する越後行きの道が「小国街道」と呼ばれているとおり、小国は要衝の地にあたる。
 小国は角間台峠北の小さな谷間に開けた集落である。これより南には角間台峠を経て堀切峠が、庄内小国川に沿って西に向かえば庄内もう一つの主要道浜街道、北東には鶴岡の入口鬼坂峠、南東には関川峠と国境雷峠がそれぞれ控えている。
 小国はちょうどこれらをつなぐ地点にある。谷を通る道を押さえれば往来を見張ることができたわけで、かつては関所が設けられていた。そしてその谷間を見おろす楯山が城を築くにうってつけの場所だったことは、地形を見ればよく判る。

楯山から神馬沢方面を望む
小国城跡からふもとを眺める。庄内小国川の奥に見えるのは神馬沢の集落。

 城の始まりは定かでないが、室町時代の初め、南北朝の頃にはすでにあったようだ。その頃には南朝側に与する小国兵庫頭政光(おぐにひょうごのかみまさみつ)という武将が城主で、鬼坂峠を挟んで北朝側の大宝寺氏と対立していたと伝わる。
 そして戦国時代、庄内は武藤氏・最上氏・上杉氏とめまぐるしく支配者が変わったが、それにともない小国城の持ち主も入れ替わっている。しかし当地が越後方面の守りの拠点であることは変わりなく、どの代でも城は重視され、重臣が派遣されている。ふもとの町並みは城下町として整備されたもので、熊野神社は城の守りの宮として発達したものである。
 天正16年(1588年)、上杉家の武将本荘繁長が庄内に侵攻、武藤氏に代わり当時庄内を支配していた最上氏の軍勢を、大山十五里ヶ原で撃破した。その際小国街道は繁長の通り道となっている。
 国境の要地ゆえ、当地は国盗り争いとも無縁ではなかった。小国には弓矢を射る伝統行事「小国弓」が残っている。もともとこの弓術は、戦国時代に自衛のために発達した技で、当地が守りの要だったことがうかがえる。


小国地区

小国地区

 幅の広い道を挟んで、左右に住宅がこぎれいに並んでいる。峠の出口には整った町並みが広がる。ここが北の峠口となる小国の集落だ。
 最後に小国の支配者となったのは、信州松代より庄内に入部した酒井氏だった。酒井家の庄内入部は元和8年(1622年)。その頃には一国一城令により、小国城はすでに廃されていたが、ふもとの関所は引き継がれ、国境警備の要として明治5年(1872年)まで存続している。

 庄内と越後を結ぶ道は大きく二つある。ひとつは海岸沿いを通る「浜通り」こと浜街道。そしてもうひとつは海岸から離れた山中を通る「山中通り」小国街道。藩政期、その二本の道が通る温海地区は「山浜通」とも呼ばれていた。
 浜通りは途中いくつか港を抱える重要路線だったが、概して岩がちで険しい難所が続き、季節によっては海から高い波と烈風が押し寄せ、危険が伴う道でもあった。対して山中通り小国街道は、距離こそ少し遠くなるが、難所らしい難所は少なく、さらに宿場町もいくつかあったため、安全確実に通れるという利点があった。それゆえ古来はこちらが本街道と見なされていたようである。江戸期の古地図を見れば、この両街道にはそれぞれ一里塚が設けられており、幹線道路だったことがわかる。
 戦国時代末期の文禄4年(1595年)、津軽藩が豊臣秀吉に鷹を献じた際は、その運送路として小国街道を選んでいる。小国は庄内と越後の連絡路であるのみならず、秋田や津軽と越後を結ぶ道でもあった。安信親任が著した庄内風土記「筆之餘理(ふでのあまり)」では、その要害にある小国を指して「咽喉の地」と称している。
 藩政期、小国街道が参勤交代路となることはなかったが、そのかわり、領内巡検等で藩主が小国に来ることはたびたびあって、ここに泊まるのがお決まりとなっていた。当地には熊野神社例大祭の行事として、大名行列が残っている。それはこうした歴史と無関係でもあるまい。

 ちなみに初代庄内藩主忠勝公は、他でもないこの小国街道より庄内入りを果たしている。そして幕末慶応4年(1868年)には戊辰戦争の戦後処理のため、時の藩主酒井忠篤公が、大総督の命を受けここより新発田に向かっている。奇しくも庄内藩の始まりと終わりにおいて、同じ峠が重要な役割を果たしたわけだが、そこに歴史の因果というものを感じる。
 主要道として重視された小国街道も、いまや山間の間道としてひっそりしている。近代以降の浜街道や羽越本線の整備によって衰退したのだろう。しかし国境の峠は日本国の果てに至る道であり、確かにみちのくと外界を結ぶ道だったのである。

(2006年6月/11年2月・6月取材/11年2月記・同6月追記)


案内

場所:
 堀切峠・新潟県村上市小俣と山形県鶴岡市小名部の間。県道52号線と国道345号線間。県境。標高205m。距離約3.2km。日本国東麓。
 角間台峠・鶴岡市小名部と同小国の間。国道345号線と県道348号線間。旧温海町道小国線。標高303m。距離約6km。

地理:

堀切峠・角間台峠概略図
1・堀切峠分岐Y字路,2・日本国登山口,3・堀切峠鞍部,
4・戦没者墓,5・熊野神社(小名部),6・角間台橋,7・角ヶ沢橋,8・角間台峠鞍部,
9・大カーブ,10・楯山小国城跡,11・熊野神社(小国)

所要時間:
 小俣から小名部まで自動車で約10分。同じく小名部から小国まで自動車で約15分。

特記事項:
 堀切峠・角間台峠どちらも自動車通行可。ただし冬場は積雪のためともに通行不可。小国城跡は本丸まで探勝路があるが、狭く急峻な登り道が続くので要注意。積雪期は極端に交通の便が悪くなる。行くなら雪がない時期を選ぼう。国土地理院1/25000地形図「鼠ヶ関」「木野俣」、同1/50000「温海」。

参考文献

「温海町史 上巻」 温海町史編纂委員会 1978年

「温海町史 下巻」 温海町史編纂委員会 1993年

「温海町の民俗」 佐藤光民・温海町史編さん委員会 1988年

「広報あつみ縮刷版 第2巻」 温海町 1994年

「鶴岡西田川神社誌」 山形県神社庁鶴岡西田川支部 1990年

「筆濃餘理 下巻 鶴岡市史資料篇 荘内資料集3」 安倍親任著 鶴岡市史編纂会編 1978年

「山形県神社誌」 山形県神社庁 2000年

「山形県歴史の道調査報告書 小国街道」 山形県教育委員会 1981年

「やまがた地名伝説 第一巻」 山形新聞社編 山形新聞社 2003年

「やまがた地名伝説 第四巻」 山形新聞社編 山形新聞社 2007年

「やまがた地名伝説 第五巻」 山形新聞社編 山形新聞社 2009年

「やまがたの峠」 読売新聞山形支局編 高陽堂書店 1978年

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