鬼坂峠

鬼坂峠の位置

鬼坂峠 旅人が のどうるおせし 鬼清水 古き姿の 伝えあり
我がふるさとは ふるさとは ああ 思いはるけき 菅野代

菅野代小中学校校歌より


八房梅

中野の八房梅

 鬼坂峠(おにさかとうげ)は小国街道こと、鶴岡と越後を結んだ道の峠である。街道は鶴岡を発し温泉地湯田川を抜け、いくつもの峠で旧温海町の山あいの集落を結びながら、堀切峠で新潟に出る。藩政期には庄内藩公認の街道だったが、足繁く往来があったわけでもなかったという。鬼坂峠はその小国街道、庄内平野への入口に当たる場所にある。峠は鶴岡市坂野下地区と菅野代地区の間に位置しており、平成の大合併前は、鶴岡市と温海町の境界でもあった。
 現在鬼坂峠には、一番古い古道、大正期から整備された旧道、そして現在の国道345号線バイパス三本の道路が存在する。今回は古道から順に、三本の道を時代を追いながら尋ねてみることにしよう。

国道345号線・中野旧道分岐地点 旧道より坂野下方面を見るの図

 まずは古道の峠に行ってみる。旧道・古道へは、国道345号線バイパス沿線、中野地区に至る八房梅橋から分岐する。橋の名はたもとにある梅の老木に由来している。この道は現在のバイパスが開通する前の道で、昔はこっちが国道だった。


鬼坂延命地蔵尊

龍泉寺鬼坂延命地蔵尊堂

ひとたびは なにのねがいも おにざかの とうげにまいれ とげぬひとなし

鬼坂地蔵尊御詠歌

おにだにも すくふめぐみのとふときに さかもいとわず のぼりしたもれ

地蔵堂に奉納された歌より

 鶴岡側の峠口となる坂野下地区、龍泉寺の一角には、鬼坂延命地蔵尊がある。もともとは峠にあったもので、承和6年(839年)、慈覚大師が湯殿山に向かう途中に建立したという縁起がある。この地蔵堂は昭和46年(1971年)、峠より当地に遷座したものだ。くわしいことはあとで説明するとして、とりあえずお地蔵さんに道中の無事をお願いしておこう。


古道に向かう

鬼坂峠古道への分岐

 坂野下のはずれ、バイパス越戸沢橋を見上げる地点に、小さな分岐がある。古道の登り口に行くなら、この分岐を左に進む。

けっこう分岐が多いです

 折り畳まれた細道を登る。坂道の途中にまた分岐があるが、ここは右に行こう。このあたりの路面はコンクリート舗装されている。

コンクリート舗装のあぜ道

 山の方を目指し、道なりにずっと進む。コンクリート舗装されてるのはこのへんまで。あぜ道が入り組んでいるのでけっこう迷いやすい。

あぜ道から鶴岡側を振り返るの図

 同じところで来し方を振り返る。谷になっているところに広い水田が開けているのが見える。このあたりまで舗装されているのは、農機が入るからなのだろう。左手には先ほど見上げた越戸沢橋も見える。

砂利道進行中

 さらに奥に進むと、道は砂利道に変わる。


古道入口

古道入口

 砂利道の脇から、薮っぽい小径が分岐しているところに到着。ここが鬼坂峠古道の入口だ。バイパス下の入口からこのあたりまで、自動車で数分程度。前方に見える杉林の中から取り付く道もあるのだが、とりあえず今回はここから登ることにする。自動車が入れるのはこのあたりまで。ここから先はおとなしく歩いて登ろう。


古道入口付近

杉林のへりを行く

 取材したのは4月の末。雪解け後の薮の少ない時期なのだが、それでも入口付近は草が伸び始め、さらに厚く積もった杉の枯葉で、足元がおぼつかないという状態だった。

杉林突入

 道は程なく杉林の中に突入。道跡自体はわかりやすい。


中腹の様子

柴が引っかかった丸木橋

 丸木橋で沢筋を渡る。上から押し流されてきたとおぼしき柴や倒木が引っかかっていた。

中腹の杉林

 峠道はほぼ杉林の中を通っている。中腹のあたりは歩きやすい道が続く。

丸木橋再び

 再び丸木橋で沢を渡る。丸木橋が架かる程度に、古道には人の出入りがあるのだろう。

杉林を出る

 やがて前方の空が開けてくる。道の傍らを見れば、椿や山野草が花を付けていた。


植栽場

伐採場

 杉林を抜けると広場が現れ、急に視界が開ける。切株がそこかしこにあるので、おそらくそう遠くない昔は、ここも杉林だったのだろう。そしてかわりに杉の若木が植わっていることを考えると、このあたりではまだ林業が営まれているようだ。それゆえ峠にはまだ人の出入りがあるものと思われた。

峠までひと登り

 峠道は広場の西端をなぞっている。ここを登ればもう鞍部。


鞍部・鬼坂延命地蔵堂跡

鬼坂峠鞍部

 広場からひと登りすれば、すぐ切り通し状の鞍部に着く。標高317m。

地蔵堂跡石段 鬼坂地蔵堂跡碑

 鞍部西側の石段を登った先は小さな広場で、石鳥居と「鬼坂地蔵堂跡」の碑が立っている。ふもとでお参りしたあのお地蔵さんは、かつてはここにあった。峠の名はこのお地蔵さんの伝説に由来している。

鬼坂地蔵尊堂跡

 その昔、どこからともなく鬼が来てこの峠に住みつき、悪さをしていた。ところがある時怪力無双の坊主が現れ、鬼に相撲勝負を挑んだ。坊主が鬼を投げ飛ばすと、これは敵わんと鬼は峠から退散していった。鬼を懲らしめた坊主とは、峠に祀られた地蔵尊の化身だった。こうして地蔵尊はますます崇敬を集めるようになり、この峠も「鬼坂」と呼ばれるようになったのだそうな。
 一方、南の峠口菅野代から見て鬼門の方角にあるから「鬼坂峠」で、地蔵尊は鬼門封じなのだとも言われている。峠とは異世界への出入り口でもある。里で悪さをしないよう、お地蔵さんはここで鬼を見張っていたのかもしれない。

 さておき、伝説に現れる鬼の正体とは、黒鳥兵衛(くろとりひょうえ)なのだと言われている。別名「越後の鬼」。兵衛は鳥海山で天狗から妖術を習い、越後をねぐらに悪逆の限りを尽くした大悪党だった、と説話等には現れる。兵衛が活躍したのは奥州の覇権を巡る源氏と安倍氏の抗争、前九年の役・後三年の役の頃(11世紀中頃)だった。その悪事を見かねた朝廷は、佐渡に配流されていた源義綱を呼び戻し、討伐に差し向ける。そして最期は義綱に首を刎ねられ、越後に果てたのだという。
 件の伝説はこうだったとも伝わっている。安倍貞任を討ちに来た源義家に対抗すべく、当地に兵衛がやってきた。そこで義家が地蔵に願を掛けたところ大男が現れ、兵衛に立ち向かった。大男は石投げや相撲で力を競いあい、兵衛を打ち負かす。敗れた兵衛は泣く泣く越後に帰って行ったのだと。

 鬼坂峠は鶴岡と越後を結ぶ道だったわけだが、それは越後の鬼の伝説が、ここに残っていることからも推察できる。峠には地蔵堂の他にも、旅人のための茶屋が二軒建っていたと伝わるが、もちろん今はもうない。


安産池と鬼清水

杉の落葉に埋もれる安産池

 鞍部から温海側に数十メートルほど下っていったところ、左手の平場には、安産池と呼ばれる小さなため池がある。鬼坂地蔵尊は安産のご利益で知られており、毎年縁日になると、坂野下の若妻らが繰り出して池の掃除をし、タニシの放生をして子宝を願うという風習もあったそうだ。しかしそれも今は昔、今や池は厚く積もった杉の枯葉に埋もれ、注意しないとどこにあるのか判らないという有様だった。「山形県歴史の道調査報告書」によれば、その調査団が訪れたときもこんな状態だったそうだから、昭和50年代半ば(1980年頃)には、この風習はすでに過去のものとなっていたのだろう。

鬼清水

 さらに安産池から、急な崖を少し登ったところには、洗面器状に岩がくぼんだところがある。これは鬼清水と呼ばれており、ここにも黒鳥兵衛にちなんだ伝説が残っている。
 相撲勝負に敗れ、喉の渇きを覚えた兵衛は、巌を割ってそこから滲みだしてきた清水を啜って気を落ち着けた。それにちなんでこの清水は「鬼清水」と呼ばれるようになった。清水の周りの爪痕は、その時兵衛が付けたとか。
 伝説では悪党にされている兵衛だが、一方でこんな話も残っている。峠を落ち延びた兵衛は、その後越沢(旧温海町内)の鍛冶屋に宿を得たが、そこで食事の世話や傷の手当など手篤いもてなしを受けた。恩に感じた兵衛はそれに報いるべく、福の神となって同家を護ったのだそうな。この話を見る限り、兵衛がただの悪党だったとも思えない。

 実際のところは「勝てば官軍」だったのだろう。討たれた兵衛は、執念で首だけが飛んでいき、落ちた地はその名にちなみ「黒鳥」と呼ばれるようになったとか、塩漬けになったその首から温泉が湧き出したとか、亡後も様々な伝説を残している。ただの悪党だったらば、その名が地名になったり人々に愛される温泉になったりはしない。
 前九年の役・後三年の役は、中央対地方の対立の構図を内にはらんでいる。東北の内紛に乗じて進出してきた中央に対抗して起ち上がった義勇の士。思うに兵衛は、そうした郷土の英雄だったのだろう。
 現在でこそ無邪気な勧善懲悪物語として語られる鬼坂峠の伝説だが、その根底には中央に虐げられた地方の怨嗟が見える。そういえば俘囚の蝦夷の教化に利用されたのは、他ならぬ仏教だったが、ならば兵衛が地蔵尊に負けるのも無理はあるまい。

伝後藤家寄進の鉄はしご

 安産池同様、鬼清水も今や顧みる者は少なくなったようで、荒井が行ったときも半ば枯葉に埋もれていた。安産池から鬼清水に至る急坂に掛けられた鉄はしごは、坂野下の旧家が寄進したものと史料に現れるが、それも今や老朽化が著しい。鬼清水の底には濁った泥水が僅かに溜まっているばかりで、とても飲めそうな状態ではなかった。兵衛が啜ったのは、果たして清水だったのだろうか。

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