山形県民だったら一度くらいは、仙台に行く際、国道48号線・関山峠のお世話になったことがあるだろう。現在の国道は山間の渓谷を縫う長大な道なのだが、かつての旧道は、現在の比どころではない長大な険路だったのだ。
今回紹介するのは、現在の国道ができる前に使われていた旧国道だ。道は国道48号線、乱川と萱倉沢が合流するあたりからひっそりと延びている。かつてはここに「萱倉沢橋」なる橋があって格好の目印になっていたが、平成19年(2007年)頃、国道の線形改良によって撤去されてしまった。合流地点の少し手前には改良前の元国道が少し残っており、取り付け道路の替わりとなっている。
在りし日の萱倉沢橋。その後国道は暗渠で川を渡るように改修され、現在は撤去されている。
関山峠は山形県村山地方の東根市と、宮城県仙台市青葉区の間にある峠である。その道は「関山街道」「作並街道」と呼ばれ、現在の国道48号線に匹敵する。山形川崎間の笹谷峠、山寺秋保間の二口峠と並び、村山地方と仙台を結ぶ道の一つで、鎌倉時代初期には存在していたようだ。
「関山」の名前は「関のある山」という意味で名付けられたと思われる。源頼朝の奥州藤原氏征伐で活躍した大江氏が、元久年間(1204年〜1206年)に寒河江地頭としてこの地に入部した際、関山に屯所を置き道路を整備したというのが、歴史に現れる関山最初の「関」である。
当時の道はこれから歩く旧道ではなく、さらに高い尾根筋を通っていたようだ。その急峻さゆえ、馬も通れない「嶺渡り」と恐れられ、笹谷・二口と比べて標高が低いにもかかわらず、あまり利用されることはなかったという。「関山」の「関」は「難関」の「関」でもあったわけだ。
今回紹介するのは4月なかばの様子である。里の方はだいぶん雪も溶け、桜もほころびかけているというのに、旧道にはところどころ、まだ雪が溶け残っていた。
旧道の随所にこうした旧い石積みが残っている。道が人の手によって造られたものであることを今に伝える。
旧道に入ると間もなく小さな橋で沢を渡る。旧道建設時に作られたようで、もともとは木製だった。現在残っているのは、架け替えられたコンクリート製のものである。
橋を渡って1キロほどは、ほぼまっすぐに道が続いている。未舗装で倒木こそあるが、路面状態は良好で、なかなか歩きやすい。
併走する沢は最上川支流の乱川。旧道は乱川の沢筋に沿う形で道が作られている。昔の「嶺渡り」の古道は、萱倉沢川(萱倉沢橋が架かっていた川)とこの乱川に挟まれた険しい尾根筋を通っていた。
歩きやすい道ではあるのだが、隧道まではところどころ法面が崩壊して、激しく落石している場所を多々見かける。この程度の崩落はあたりまえ。落石に注意しつつ進もう。
峠では石垣と一緒にガードレールも随所で見かける。この道がバスや車も通る国道だった証だ。こんな道どうやって通っていたんだろう。
自動車が最初に関山峠を走ったのは大正15年(1926年)のことで、昭和3年(1928年)には、仙台・天童間を往来する遊覧バスまで走るようになっていたらしい。当時の苦労が偲ばれる。
まっすぐな道が終わり、画像の場所のあたりから九十九折りにさしかかる。関山峠の九十九折りは、全部で三つの大きなカーブからなる。
九十九折りにさしかかったあたりでこんなものを発見。道路内側の土砂がすっかり谷に流出して、法面の石垣だけが残ったらしい。それにしても見事な崩れっぷり。
(答え)1 明治15年(今から123年前のこと)
(q3)火薬をはこんでいると中で大ばく発した。その原因は何?
1 かみなり 2 たばこの火
道端でなぞなぞが書かれた木の札を発見。旧道にまつわるクイズのようだ。500メートルごとに、旧道に関するこうした札が立てられてあって、新しい問題とその前の札の答えが書かれてある。歩き進むうちに関山峠博士になれるという趣向らしい。
かなの振り方や123年という数字から見て、地元の小学校が2005年に設置したものと思われる。どうやら旧道は今でもちょくちょく手が入れられているようだ。旧道を遊歩道として活用しようという地元の心意気と、地元の歴史をみんなで学ぼうという姿勢がうかがえる。
気になるクイズの答えはまた後ほど。
画像では判りづらいが、行く手にこれから通る道のガードレールが見えている。道は九十九折りを曲がるごとに高度を上げていく。
道を進むうち、雪と土砂と倒木が道をふさいでいる場所を発見。どうやらこの冬に崩れてきたものらしい。
だいぶ高い所まで登ってきたが、ここでもコンクリートの壁や鉄柵などが現れる。やっぱりここは旧道だった。
かくして関山隧道に到着。標高594m・長さ298m・幅6m。旧道入口から歩いて1時間ほどの道のりだ。関山峠というと、厳密にはこの上にある「嶺渡り」の頂上を指すのだが、国土地理院の地形図では隧道のあるあたりが関山峠となっている。
あまりの険路ゆえ間道にすぎなかった関山峠も、明治になると一転して脚光を浴びることになる。ここでまた現れるのは、毎度おなじみ「土木県令」三島通庸だ。
明治2年(1869年)、横浜仙台間に汽船航路が開かれると、それまで日本海の西回り航路で直接山形に運ばれてきた商品が、一転して太平洋側の仙台経由で入ってくるようになった。山形と仙台の間には奥羽山脈が横たわり、文物の往来で大きな壁として立ちふさがっていた。
このままでは山形が近代化に取り残されてしまう。そう懸念した三島は、村山地方と仙台を結ぶ奥羽山脈横断道路の開発に着手したが、地元の働きかけなどもあり、もっとも標高の低い関山峠に隧道を掘り、新道を作ることを決意した。
国では切り通しで峠を越えるだけで十分と、隧道案には反対していたが、三島と地元関山村(後に高崎村。現東根市)代表の熱心な陳情により、隧道開削が決定した。三島は福島に来ていた時の内務卿、伊藤博文を訪ね、現地に連れてきて陳情するというという熱心さだった。その甲斐あってか、三島は隧道建設費用6万9242円の全額を、国費から引き出すことにも成功している。三島の道路工事の大半が地元負担でまかなわれた中では異例のことで、三島がこの隧道をそれだけ重視していたことがうかがえる。ここまで歩いてきた旧道は、この時三島によって作られたものが基本となっている。
関山隧道は明治13年(1880年)に着工し、二年後の15年(1882年)に竣工している。現在の隧道は、その後昭和12年(1937年)に大型自動車が通れるように改修されたものだ。
隧道脇はちょっとした広場になっている。かつてここには宿屋があり、道行く人に利用されたという。
隧道の完成によって、馬車や人力車の通行が容易になると、関山峠は仙台山形間の物流の道として、大いに利用されるようになった。沿線には往来の人向けの宿や茶屋が建ち、駄送を請け負う荷方も住むようになり、峠は栄えることになった。多い時は一日1000人以上が通行し、一万貫もの荷物が行き交ったという。交通を確保するため、冬場には刑務所から囚人を連れてきて、雪踏みもさせていたと伝わっている。一方、隧道ができたおかげで、近隣の笹谷峠は衰退し、二口峠に至っては廃道化することになった。
一時期賑わっただろう峠の広場だが、現在建物はなく、かわりに福寿草が満開になっていた。
隧道は一直線で、山形側から仙台側の出口がはっきり見える。ただし、仙台側は鉄骨製のゲートでふさがれており、通り抜けはできなくなっている。
中程まで行ってみると、天井からしたたり落ちる地下水が冬の寒さで凍り付いたのか、大人の背丈ほどもある見事な氷筍ができていた。隧道内は夏になってもだいぶ涼しい様子で、明治26年(1893年)に山形を訪れた俳人正岡子規は、関山隧道を通った時の印象を「涼しさや 羽前をのぞく 山の穴」という句に詠んでいる。
閉鎖ゲートのおかげで、隧道内部の仙台側には深く水が溜まっており、近づくにはそれなりの装備が必要となる。ちなみに峠は奥羽山脈の大分水嶺であり、東の水は広瀬川を経て太平洋に、西の水は乱川から最上川を経て日本海に注いでいる。隧道内に溜まった水は、太平洋になり損ねた水というわけだ。
隧道は幽霊が出るともっぱらの評判で、県下有数の心霊スポットとしてその名を知られている。荒井が行った時は幽霊こそ出なかったが、真っ暗な隧道に一人で入っていくのはなかなか心細かった。明治の文人長塚節もこの隧道を通った一人で、暗くて恐ろしく長いという感想を漏らしている。
とんねるや 笠にしたゝる 山清水 子規
長塚節
洞門は闇くして且つ恐ろしく長い 洞門を出るとそこには豁然として 壮大な出羽の国が展開する
「旅の日記」 関山越え 明治三十九年 九月五日国木田独歩
雨のうちに羽前の国を過ぎて、その夜遅くに関山絶頂の宿に泊った。
小説「関山越」より
関山隧道は強く通った人々の印象に残ったようだ。峠下の大滝には関山隧道を越えた文人、子規、長塚、国木田独歩らの文学碑が並んで建っている。