関山新道開鑿殉難之碑・関山街道開鑿殉難之地碑

大滝の関山新道開鑿殉難之碑

 ここで一旦峠から離れて、峠下にある石碑を二つ紹介しよう。

関山新道開鑿殉難之碑

明治十三年七月二十一日工事用火薬運搬ノ途中宮城県板下ニ於テ
四十余箇ノ火薬爆発シ多数出夫中左ノ諸子其難ニ遭フ嗚呼
(一部常用漢字化)

 関山隧道の開削では痛ましい事故が起きている。起工間もない明治13年(1880年)7月21日、宮城県側峠口の坂下で、運搬中の工事用火薬約40箱が一気に爆発、従事していた者23名が即死、8名が重傷を負う大惨事になった。死者の中には妊婦もおり、その胎児も数に含まれている。
 爆発の原因は、現場で厳禁されていた煙草の火だった。休憩中に何者かが煙草を吸おうと火を付けたところ、こぼれた火薬に引火し、この大惨事を招いてしまった。こうした貴い犠牲の上に、旧道は作られた。
 碑は大正15年(1926年)、地元有志がその事故を悼んで建てたもので、東根市の大滝不動尊境内こと、大滝のドライブイン敷地内にある。

坂下の関山街道開鑿殉難之地碑

 慰霊碑は宮城側にも一つあって、事件後五十回忌を記念して、同じく地元有志によって昭和4年(1929年)、事件の現場に建てられた。碑は宮城側トンネル口近くの板下沢・風倉沢合流点(広瀬川上流点)にある。気をつけていないと見落としてしまうような場所にあるので、見学したい方は要注意だ。このあたりは道幅が狭い割に大型車が数多く通るので、車にも注意しよう。
 ちなみに殉難地碑が建っている場所は、仙台藩の藩境として万治3年(1660年)に番所が置かれた場所でもある。宝暦8年(1757年)頃までは藩の者が常駐して、道行く人を見張っていたそうだ。「嶺渡り」の道は、ここから登っていったものらしい。

殉難之地碑向かいのガードレール

 殉難地碑は、国道から沢ごしに眺めることになる。よく見ると向かいのガードレールには、花が手向けられるように一輪挿しが備え付けられていた。


村山和十郎生誕の地

村山和十郎生誕の地

 関山隧道立役者の一人として、村山和十郎翁についても軽く紹介しておこう。
 和十郎は地元の有力者で、天保12年(1841年)、関山(現東根市)に生まれた。37歳で関山村の戸長(村長)になり、関山峠に奥羽山脈横断道路を建設するよう、地元代表として県に働きかけ、これを実現させた。三島とは親しかったようで、かの三島を「三島君」と君付けで呼んでいたと伝わっている。隧道開削の他には、郵便局を作ったり、関山村と周囲の村を合併して高崎村を誕生させたり、山林の払い下げ運動をしたりといった業績を残している。
 東根市関山の和十郎生誕の地には、その地であることを示す看板が立っている。往時を偲べるものは残っていないが、件の山林払い下げ運動によってできた関山愛林公益会の事務所が近くにある。

 隧道開通によって関山は大いに栄えたが、やがて衰退の時を迎える。明治34年(1901年)に奥羽本線が山形まで開通すると、それまで峠を越えていた荷物や旅客が鉄道で運ばれるようになり、交通量が激減した。それにともない廃業する宿屋が相次ぎ、荷運びで糧を得ていた荷方は職を失うことになった。
 これを見越していたのか、和十郎は明治32年(1899年)、新村開拓のため、高崎村(現東根市)の者とともに自ら北海道の十勝地方に入植している。鉄道開通によって失業した村民には、和十郎に続けと北海道に渡る者も多かった。こうして作られたのが北海道の新得町で、明治42年(1909年)、和十郎は新天地北海道で69年の生涯を閉じた。
 それが縁で東根市と新得町は姉妹都市提携を結んでいる。ツーリングライダーの間では、大人気のヌプントムラウシ温泉がある町として有名だ。


仙台側旧道入口

仙台側旧道入口

 通り抜けができないため、隧道の反対側に行くためには、改めて仙台側から登っていかなければならない。関山トンネル宮城口から300メートルほどのところにある駐車帯が、仙台側の旧道入口だ。ガードレールで見事に封鎖されているため、単車や四輪車では進入できない。


交通安全慰霊碑

交通安全慰霊碑

交通安全慰霊碑

昭和四十一年八月八日不慮の事故に依り此の場所に於て
結城輝男佐藤冨の両名が帰らぬ人となる茲に其の霊を慰める為建立せるものなり
昭和四十二年 八月一日 友人一同教師有志親戚一同
(一部常用漢字化)

 宮城側入り口、ガードレールをまたいですぐのところにある碑。交通事故のため旧道で亡くなった方を悼んで建てられたもののようだ。
 鉄道開通によって一時期廃れた関山峠だったが、昭和になって自動車が物流を担うようになると、再び盛んに利用されるようになった。昭和12年の大改修によって大型車が通れるようになり、昭和28年(1953年)には国道48号線に指定され、昭和38年(1963年)には一級国道に昇格した。高度経済成長期の活況と自動車の普及を受け、峠を行き交う車はますます増えた。
 しかし道路は明治初期に作られたゆえ急カーブ・急勾配が多く、交通事故や転落事故が続出した。関山峠は自動車にとっても難所で、多くの人々が事故により命を失うことになったのだ。昭和39年(1964年)の夏には、車を止める幽霊騒ぎまで持ち上がっている。
 関山峠が幽霊の名所として知られるのは、火薬爆発事故や相次ぐ交通事故で、この道が多くの人の血を吸ったからに他ならない。慰霊碑の建立は、そうした過去と無縁でない。


仙台側の様子

仙台側旧道の様子

 慰霊碑に手を合わせたところで、本格的に登っていく。仙台側は東根側以上に廃道化が進み、倒木・法面崩壊などが行く手に立ちふさがっている。路面は雪解け水でぬかるみ、非常に歩きづらい。比較的通りやすい春先でさえこうなのだから、夏になって藪が茂りだしたらどうなることやら。それでも所々に石垣やガードレールなど残っていて、国道だったことを思い知らされる。

国道48号線を見下ろす

 下方に見えるのは現在の国道48号線。旧道は一段高い所を通っている。春先の薮が少ない時期には、現在の国道からでもはっきりと道があるのを拝むことができる。


切り返しのカーブ

仙台側切り返しカーブ地点

 仙台側を半分ほど登ったところで道は鋭く切り返し、隧道に向かって登っていく。仙台側に九十九折りはないかわり、二ヶ所の鋭いカーブが現れる。一つは現道から旧道に折れる入口のカーブで、もう一つがここである。周辺の路肩は断崖なので、曲がり損ねたら谷底まで真っ逆さまになるだろうことは、容易に予想がつく。
 このカーブは嶺渡りの古道と旧道が交差する場所で、嶺渡りはここを横断して、板下の番所まで通じていた。古道は現在道もなく、相応の登山経験がないと通れないような状態らしい。


旧道らしい光景

こんな道ならいいのにね

 さっきの鋭角カーブを曲がると、倒木もなく広くて気持ちのいい道が現れる。全行程こうだったらいいのだけど...


難路再び

やっぱりこんな道だった

 さっきの道も長くは続かず、やっぱりまた倒木・法面崩壊・ぬかるみだらけの難路になる。
 旧道は現役時代からたびたび土砂崩れや雪崩などで、通行止めになることも多かった。仙台側の旧道は完全に見捨てられている模様で、土砂も雪も崩れるままになっていた。道がほとんど埋まり、路肩をかろうじて渡るような場所もちらほらとある。足下にはくれぐれもご注意を。


旧道の林

道の真ん中に林がある

 さっきのカーブから数百メートル進むと、広々とした林が現れる。実はここも旧道で、もはや国道だったことが信じられない。

真っ赤にさびた看板

 林のかたわらには真っ赤にさびて、もはやなんと書いてあったのかさえ判らなくなっている看板がそのままになっていた。


仙台側隧道入口

関山隧道仙台側入り口

 仙台側旧道入口から2キロほどの道のりの末、関山隧道に再び到着。東根側から見たとおり、頑丈な鉄骨でふさがれていた。
 増大する交通量、多発する交通事故、たびたびの通行途絶を受け、昭和38年(1963年)、関山峠は大改修を受けることになった。その内容は旧道の北側、萱倉沢川に沿う形で新トンネルとバイパスを建設するもので、昭和43年(1968年)に完成を見た。
 新トンネル開通によって、86年にわたって山形と宮城を結び続けた国道はその役目を終えた。旧道は廃道と化し、多くの文物が行き交った隧道は、風が通るのみとなっている。


関山トンネル

関山トンネル

 昭和の大改修によって誕生したトンネルで、全長890m・幅7m。標高は約510mで、旧隧道より70mほど低い場所にある。現在の国道はこのトンネルで峠を越している。旧隧道の跡を継ぎ、山形宮城間を結ぶ道として活躍中。

カーブ解消地点

 トンネル前後の道路も近年拡幅・カーブ解消工事が進み、以前に比べてだいぶ道がよくなった。峠は現在、自家用車はもちろん、大型車もひっきりなしに往来している。
 山形県民にとって、関山峠がもっとも手軽に仙台に行ける道であることは三島の時代から変わりなく、峠は今でも山形と宮城の物流の中心を担っている。

(2006年4月/09年3月取材・2006年4月記・2009年3月追記)


案内

場所:山形県東根市と宮城県仙台市青葉区の間。県境。国道48号線およびその旧道。

所要時間:
東根側旧道入口から関山隧道まで徒歩で約1時間。同じく仙台側から40分。

特記事項:
関山隧道通り抜け不可。旧道は基本的に車両進入不可だが、自転車程度ならかろうじて乗り入れ可。全線において廃道化が進んでおり、特に仙台側は荒廃が著しい。全線にわたって法面崩壊箇所が多いので、通行の際は落石に気をつけること。熊対策もお忘れなく。嶺渡りの古道は道がないため、探索には相当の経験が必要。国土地理院1/25000地形図「関山峠」。同1/50000地形図「関山峠」。

参考文献:

「栗子峠にみる道づくりの歴史」 吉越治雄 社団法人東北建設協会 1999年

「関山国道」 建設省東北地方建設局 山形工事事務所 1970年

「東北の街道 道の文化史いまむかし」 渡辺信夫監修 無明舎出版 1998年

「日本の分水嶺 地図で旅する列島縦断6000キロ」 掘公俊 山と渓谷社 2000年

「三島通庸と高橋由一に見る東北の道路今昔」 建設省東北地方建設局 1989年

「みやぎの峠」 小野寺寅雄 河北新報社 1999年

「山形県交通史」 長井政太郎 不二出版 1976年

「山形県歴史の道調査報告書 関山街道」 山形県教育委員会 1982年

「山形の国道をゆく」 野村和正 東北建設協会 1988年

「やまがたの峠」 読売新聞山形支局編 高陽堂書店 1978年

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